第11話 聖女の影と王の策謀

 王都ルイザーク。

 その中心、神聖教会の大聖堂では、白い衣をまとった聖女エリナが黙って祈っていた。

 聖堂内には花の香りと香木の煙が満ち、外の喧噪とは無縁の静寂が支配している。

 だが、彼女の瞳には安寧の色はなかった。


「リオル様が戻らない……戦況は、どうなっているの……」


 祈りの声が震える。

 指先に汗が滲み、祈りの印が乱れた。

 聖女であるはずの彼女が怯えていたのは、敵ではなく、“自らのうちにあるもの”だった。


 あの日、魔王城での聖剣強化の儀式。

 勝利の瞬間、誰も気づかなかった――あの黒い靄。

 魔王の心核が粉々に砕けた時、ひとつだけ残った粒子が彼女の胸に吸い込まれていた。

 アレンが見抜いていた“欠損”の真実。

 それは、彼女自身の中に残る闇の種だった。


「私……本当に、あの時……何をしたの……?」


 呟いた瞬間、脳裏に声が響いた。

 耳ではなく、心の奥で囁くような声。

 それは誰でもなく、自分自身の影のようだった。


――知りたくなかったの? あの時の真実を。


「や、めて……出てこないで……!」


――代わりに力を得たじゃない。リオルの隣に立つ資格。民の称賛。

 それが欲しかったんでしょう? “彼”がいた頃は、あなたは誰かの脇役。今は主役。


「違う! 私は……私はアレンを――」


 エリナは自らの頭を抱え、崩れ落ちた。

 床に滴る涙が聖印を歪め、光が揺らぐ。

 その背後で、扉が静かに開く音がした。


「……汚れた祈りだな。」


「っ……!」


 現れたのは、教会上層の一人――枢機卿バルド。

 白装束の下に黒の法衣を纏い、口元には笑みを浮かべている。

 彼はエリナを見下ろしながら、杖を軽く床に突いた。


「聖女エリナ。お前の内に眠るもの……それは神の恩寵ではなく、“異端の触媒”だ。」


 言葉が喉を突く。

 エリナは無我夢中で立ち上がる。


「……どうして、それを……」


「知っているとも。あの夜、魔王の心核を“封じ込めた”のは我々教会の指示だ。」


「……な、んですって?」


 エリナの心臓が大きく跳ねた。

 王を欺いていたなど、考えもしなかった。

 だが、目の前の男は確かに嬉しそうに笑っていた。


「賢者アレン。彼が警告したあの“欠損”こそ、我々が手に入れようとしたもの。神の欠片……その片鱗が、今もお前の中に生きている。」


「嘘よ……そんなこと……!」


「嘘だと? ならば感じてみるがいい。祈りを捨て、己の内奥に耳を傾けるのだ。」


 バルドは杖の先で床を叩いた。

 瞬間、聖堂全体に紫黒い光が走る。

 床の聖印が裏返り、禍々しい魔紋が浮かび上がった。

 エリナの体が引きずられるようにしてその中心に立たされる。


「いや……やめ――!」


 叫びもむなしく、黒い靄が吹き出す。

 それは蛇のように絡みつき、彼女の身体を締め付けた。

 空気が変わる。祈りの場が、一瞬で“祭壇”に変わった。


「すばらしい……やはり聖女ではなく、“媒介”こそが相応しい。」


「あなたたち、何をするつもり……!」


「神は沈黙した。ならば我々が新しい神を創るのだ。」


 その言葉に、エリナの体が冷たくなった。

 世界の底が抜けるような絶望が押し寄せ、意識が遠のく。

 そして、彼女の心の奥から再び“声”が響く。


――あなたが望んだ世界を与えてあげる。誰にも否定されない、完璧な光を。


 目の前が真っ黒に染まる。

 そして――光のない笑顔が浮かんだ。


          ◇


 その頃、王宮の一室では、老王と宰相コーネルが密談を続けていた。

 机上にはノルド探索隊の報告、ギルドの損害記録、リオル部隊の戦闘経過が並んでいる。

 未確認の黒い光、そして消えた五百人。

 すべてが異常だった。


「陛下、報告書をお読みになりましたか? 敵の魔力は国家級です。あれは一人の人間ではありません。」


「知っている。」


「では、なぜ討伐を続けさせるのです!? 勇者リオルまでも危険に晒すつもりですか!」


 コーネルの声に、王は静かに言葉を返す。


「“災厄”と“神器”は対で存在する。古の書にはそうある。もしアレンが災厄に至ったのなら、その力もまた“新しい鍵”だ。」


「……まさか、陛下。あの研究を……」


「再開する。」


 宰相が息を呑んだ。

 王は窓の外を見つめながら続ける。


「この国はいつまでも神々の残滓にすがれぬ。だからこそ、理を超える者が必要になる。アレンが災厄を極めるのなら、我々はその“極点”を手に入れる。

 リオルは表の英雄だ。だが裏で、私は“新王”を創る。」


「正気を失われましたか……!」


「私の正気などとうに尽きた。民を救うために、誰かが地獄に手を伸ばさねばならぬ。」


 王の瞳は黒く濁っていた。

 その表情には死を恐れぬ狂信者の色すらある。

 コーネルは頭を垂れ、震える声で応じた。


「ならば、いずれ……この国は、壊れます。」


「壊れてしまえ。古い神の下で静かに朽ちるくらいなら、災厄の炎に焼かれても構わぬ。」


 王の言葉に迷いはなかった。

 この瞬間、王国の運命はすでに狂い始めていた。


          ◇


 ノルドの深層。

 アレンは全てを感じ取っていた。

 王の命令も、教会の蠢動も、リオルの迷いも。

 それらは魔力の揺らぎとして、地下からでも読み取れる。


「リナ、面白いな。地上は自ら進んで壊れに来ている。」


「アレン様……教会が異様な動きを。王と手を組み、何か儀式を……」


「ああ、知っている。……エリナが“媒介”にされる。」


「! 助けるのですか?」


 小さく笑ったその笑みは、どこか旧友を思い出す優しいそれだった。


「善行じゃない。実験対象を奪われるのは気に入らんだけだ。」


 そう言いながら、アレンは杖を掲げる。

 ノルド全域が震え、空洞に巨大な門が出現した。

 転移門。その先は王都ルイザーク、大聖堂の地下。


「リナ。留守は頼む。――地上に用ができた。」


 紫の光が立ち上り、アレンの姿は闇の中に消えた。

 狂賢者が再び地上に歩み出す。

 それは救いと破滅を同時に孕む“第二の夜明け”の始まりだった。

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