第7話 深層領域への招待状
地下鉄の廃車両の中は、死んだ時間によって満たされていた。
割れた窓から吹き込む風が、吊り革を幽霊の手招きのように揺らしている。リアの携帯ライトが投げかける心細い光の中で、私は彼女の横顔を見つめていた。
「……ねえ、リア」
先ほど途切れてしまった会話を、私は恐る恐る繋ぎ直した。
「さっきのドクの話……『青い涙』が、失われた歴史の真実だっていう話。君自身は、その内容を覚えているのか?」
リアは膝を抱えて座っていた。その輪郭は今は安定しているが、どこか儚げだ。彼女は私の問いに、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。映画を見るみたいに、はっきりとした映像として覚えているわけじゃないの」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「ただ、重いの。ここに、何千、何万という人たちの叫び声が圧縮されて詰まっている感覚。私がその『蓋』を開けようとすると、あまりの感情の質量に、私という個我(エゴ)が押し潰されそうになる」
圧縮された感情の質量。
調律師としてデータを扱ってきた私には、その比喩が痛いほど理解できた。たった一人の「悲しみ」でさえ、処理を誤ればシステムに負荷をかける。それが数万人分ともなれば、それはもはや情報ではなく、精神を破壊する兵器に等しい。
「私はただの器(コンテナ)なの」
リアは自嘲気味に笑った。
「中身を知ることはできない。ただ、こぼさないように運ぶだけ。……でもね、ソーマ。あなたと接触した時、少しだけ漏れ出した『雫』が教えてくれたわ。これは、とても悲しくて、でもとても大切なものだって」
私は彼女の手を取り、強く握った。
冷たい手だった。だが、そこには確かな脈動があった。
「君は器なんかじゃない。君はリアだ。私を助け、真実へと導いてくれた人間だ」
「人間、か……。ソーマは優しいのね。元・体制側のエリートとは思えないくらい」
「皮肉かい?」
「ううん。褒め言葉」
少しだけ、場の空気が緩んだ気がした。
だが、疲労は限界に達していた。ドクたちの犠牲、タロスの追跡、世界の崩壊の予兆。それらが一気にのしかかり、私の意識は泥の中に沈むように遠のいていった。
「少し眠って。見張りは私がするから」
リアの声が、遠くの波音のように聞こえた。
私は抗うこともできず、埃っぽいシートに身を預け、深い闇へと落ちていった。
*
夢を見た。
いや、それは通常のレム睡眠による夢ではなかった。ニューロ・リンカーを切断したはずの私の脳内で、強制的に展開されるAR空間(サイバー・スペース)のビジョンだった。
私は真っ白な部屋に立っていた。
かつての職場、記憶管理局の調整室によく似ている。だが、壁には無数の亀裂が入り、そこから黒いノイズが染み出している。
床には水が溜まっていた。くるぶしまで浸かるほどの水深。それは青く発光していた。
『青い涙』だ。
「ようこそ、はぐれ者の調律師くん」
背後から声がした。
アイオンの無機質な音声とは違う。老人のようであり、子供のようでもあり、あるいは男のようでも女のようでもある、奇妙に加工された合成音声。
振り返ると、そこに一匹の「猫」がいた。
黒い毛並みの猫だ。ただし、その尻尾は二本あり、瞳はデジタル時計のような赤い光を放っている。明らかに物理的な生物ではなく、アバターだ。
「……誰だ? ここは私の深層領域か?」
警戒して身構える私に、猫はあくびをしてみせた。
「警戒心がお強いことだ。まあ、無理もない。君はいまや世界中から追われるSランク指名手配犯だからな」
猫が水面を歩いて近づいてくる。波紋が広がらない。
「私の名は『オルフェウス』。君たちのような迷える魂を、冥界のさらに奥底へと導く案内人(ガイド)さ」
「オルフェウス……。ギリシャ神話の吟遊詩人か。冥界へ下り、妻を連れ戻そうとした」
「博識だね。だが、私が興味あるのは過去の神話じゃない。今、この都市の地下で起きているバグ騒ぎだ」
猫のアバター——オルフェウスは、私の足元にまとわりついた。
「君とあの少女が起こした共鳴は、なかなか見事だった。アイオンの論理防壁に穴を開け、都市の虚構にヒビを入れた。だが、それだけじゃ足りない」
「何が言いたい?」
「君たちは今、行き詰まっているだろう? タロスの包囲網は狭まり、逃げ場はない。ドクの犠牲も、このままでは無駄になる」
痛いところを突かれた。
「助けてくれるとでも言うのか?」
「取引さ。私は情報を求めている。そして君たちは道を求めている」
オルフェウスは空中に前足をかざした。すると、空間に光る地図が展開された。
それはネオ・アルカディアの立体構造図だったが、私の知っているものとは大きく異なっていた。地上の煌びやかな都市の下に、さらに広大な、蟻の巣のような地下構造が広がっている。
その最深部。マップの底に、赤く点滅する座標があった。
「セクター0のさらに下。旧時代の遺構の最深部に、忘れ去られた『図書館』がある」
「図書館……?」
「そう。アイオンが削除した歴史、塗り替えられた真実、そのオリジナルの記録媒体(アーカイブ)が眠る場所だ。君の中にある『鍵』と、少女の中にある『データ』。それが揃えば、あるいは扉が開くかもしれない」
猫の赤い瞳が、私を射抜く。
「そこへ行け、ソーマ。真実を知る覚悟があるなら」
「待ってくれ。君は何者なんだ? なぜ私たちに干渉する?」
「私か? 私はただの『観測者』だよ。あるいは、アイオンが見た悪夢の具現化、とでも言っておこうか」
猫はニヤリと笑ったように見えた。
次の瞬間、世界の亀裂が一気に広がり、天井が崩落した。
「目覚めの時間だ。……『招待状』は送ったよ」
*
「……ッ!」
私は弾かれたように目を覚ました。
心臓が早鐘を打っている。
現実に戻ってきた。廃車両の中、湿った空気、リアの心配そうな顔。
「ソーマ? 大丈夫? ひどくうなされていたけど」
リアが私の額に触れようとする。
私は荒い息を整えながら、自分のニューロ・リンカーを確認した。オフラインのはずだ。外部からの干渉などあり得ないはずだ。
だが。
私の視界の隅、ローカルストレージの中に、見覚えのないファイルが存在していた。
ファイル名:『INVITATION(招待状)』。
「夢じゃ……なかったのか」
私は震える手でそのファイルを開いた。
展開されたのは、先ほどの夢で見た地図データと、一つのアクセスコードだった。
そして、短いメッセージ。
——真実は深淵にあり。
「リア、これを見てくれ」
私は端末の画面を彼女に見せた。
「何これ……? 地下深層の詳細マップ? こんなの、ドクのデータベースにもなかったわ」
「『オルフェウス』と名乗る存在から送られてきた。夢の中でな」
「オルフェウス……。聞いたことがあるわ。アンダーグラウンドのネット回線に出没する、正体不明の幽霊(ゴースト)ハッカー。都市伝説だと思っていたけど」
「彼がここへ行けと言っている。セクター0の最深部、『図書館』へ」
リアの表情が変わった。
「図書館。……ドクが最期に言っていた場所と同じね。『歴史の墓場』」
偶然の一致ではない。何かが私たちをそこへ導こうとしている。
だが、それは罠かもしれない。アイオンがおびき寄せるための餌かもしれない。
しかし、ここに留まっていても、いずれタロスに見つかり、処分されるだけだ。
「行こう、ソーマ。罠だとしても、進むしかない」
リアの瞳には迷いはなかった。
「ああ。それに、気になるんだ。あの猫が言っていた『私の中にある鍵』という言葉が」
私の消された過去。それが、この世界の秘密を解くピースになっているというのか。
私たちは荷物をまとめ、車両を出た。
地図によれば、この廃駅のさらに奥、資材搬入用の巨大エレベーターシャフトがあるはずだ。
闇の中を慎重に進む。
やがて、行き止まりと思われていた壁の前に出た。
瓦礫に埋もれているが、確かにそこにはエレベーターの制御盤があった。電源は死んでいる。
「動くかしら?」
「任せてくれ。これでも一級エンジニアだ」
私は制御盤のカバーを外し、内部の配線を露わにした。バイパス手術のように携帯端末を接続し、残存電力を探る。
微弱だが、まだ回路は生きている。非常用電源が生きていたのだ。
私は『招待状』にあったアクセスコードを入力した。
——認証:承認(アクセプト)。
ズズズッ、と重苦しい振動が走り、壁の一部がスライドした。
奥から、冷気と共に、カビとは違う古書の匂い——インクと紙の匂いが漂ってきた気がした。
そこには、地底へと続く巨大な貨物用エレベーターのケージが待っていた。
「これが、深淵への入り口か」
底が見えないほどの暗闇が、口を開けて待っている。
恐怖がないと言えば嘘になる。
だが、それ以上に好奇心があった。
調律師として偽りの幸福を作り続けてきた私が、初めて触れる「世界の本当の姿」。
「乗りましょう」
リアが先にケージに足を乗せる。
私も続いた。
操作レバーを引くと、錆びついたワイヤーが悲鳴を上げ、ケージはゆっくりと降下を始めた。
上方の微かな光が遠ざかっていく。
私たちは文字通り、世界の裏側へと落ちていく。
この先に待っているのが、希望なのか、それとも絶望なのか。
降下するエレベーターの中で、私はふと、自分の左手の平を見つめた。
そこには、まだあのアバターの猫——オルフェウスが触れた感触が残っているような気がした。
——真実を知る覚悟はあるか。
問いかけが、エレベーターの駆動音に混じってリフレインする。
私は覚悟を決めた。
たとえその真実が、どれほど残酷なものであったとしても。私はもう、目を背けない。
ケージは加速し、私たちをさらなる深み、セクター0の闇へと呑み込んでいった。
こうして、私たちは「日常」から完全に逸脱し、「真実」への旅路を歩み始めたのだった。
(第1章 完)
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