第6話 完璧な世界に入った亀裂

 ドクたちの隠れ家からどれだけ走っただろうか。

 足の感覚はとうに麻痺し、喉は張り付くように乾いていた。

 私たちは、旧地下鉄のさらに下層、都市建設以前の共同溝と思われる暗渠(あんきょ)を進んでいた。ここには照明設備すらなく、リアが持つケミカルライトの頼りない青白い光だけが、湿ったコンクリートの壁を照らし出している。


「……追手は、来ていないみたいだ」

 私は立ち止まり、背後の闇に耳を澄ませた。

 聞こえるのは、どこかで水が滴る音と、自分たちの荒い呼吸音だけ。あの激しい銃撃戦の喧騒は、分厚い岩盤の彼方に消えていた。

 ドクと、あの場所にいた名もなき反体制派のメンバーたち。彼らの生死を確認する術はない。だが、あの状況で無事に済むはずがないことは、痛いほど理解していた。

「ごめんなさい……」

 リアが小さな声で呟いた。彼女は壁に手をつき、震える体で立っていた。

「私のせいよ。私があなたをあそこへ連れて行ったから、ドクたちは……」

「違う」

 私は強い口調で否定した。

「彼らは選んだんだ。自分の意志で、守るべきものを。……それに、元を正せば私が不用意にネットワークへ逆流したのが原因だ。責めるなら私を責めろ」

 慰めの言葉など持っていない。だが、事実として彼女に罪を背負わせるわけにはいかなかった。


 リアは俯いたまま、何かを耐えるように唇を噛み締めていた。

 その体輪郭(シルエット)が、また不穏に明滅している。

 ザザッ……というノイズ音が、静寂な通路に不気味に響く。

「リア、薬は?」

「……あと一本。でも、まだ大丈夫。これはただの揺らぎ(フリッカー)だから」

 彼女は気丈に振る舞ったが、その声には疲労の色が濃くにじんでいた。

 私たちは、この都市の最深部に潜む闇の中を、希望という名の残り火だけを頼りに彷徨っていた。


 *


 一方、地上五百メートル。ネオ・アルカディアの第3セクター。

 そこは変わらず、完璧な光に満ちた楽園だった。

 朝の光がビル群を白く染め、行き交う人々は穏やかな笑みを浮かべている。

 記憶管理局のオフィスで、リトはマグカップを手に、デスクのホログラム・モニターをぼんやりと眺めていた。

 ニュースフィードが流れている。

『昨夜未明、旧市街の廃棄プラントにて、老朽化によるガス爆発事故が発生しました。市民の皆様への影響はありません。アイオンによる迅速な復旧作業が進行中です』

 キャスターは完璧な笑顔でそう告げている。

 だが、リトの手は止まっていた。

「ガス爆発……?」

 彼は昨日のソーマとの会話を思い出していた。

 ——君は『分類不能』のタグがついた記憶データを見たことがあるか?

 その言葉が、棘のように心に引っかかっている。

 ソーマは今日、無断欠勤している。あの真面目な彼が、連絡一つ寄越さないなんてあり得ない。

 それに、今朝からシステムの挙動がどこかおかしい。

 リトは周囲を見渡した。

 同僚たちはいつも通り業務に励んでいる。だが、時折、誰かが眉をひそめたり、首を傾げたりする仕草が見られた。

「……おい、リト。これ、見てくれよ」

 隣の席の同僚が、声を潜めて話しかけてきた。

「なんだ?」

「今担当しているクライアントのログなんだけどな……一瞬だけ、変なノイズが混じるんだ」

 同僚が見せてきた波形データ。そこには、緑色の安定した幸福波の中に、針のように鋭い青色のスパークが記録されていた。

「これは……エラーか?」

「アイオンの自動チェックはスルーしてる。でも、クライアントが妙なことを言うんだ。『懐かしい雨の匂いがした』って」

 リトの背筋に冷たいものが走った。

 雨。

 この都市では、気象制御によって雨など降らない。降るとしても、それは「演出」された温かいシャワーのようなもので、匂いなど伴わないはずだ。

 リトは自分のこめかみを指で叩いた。

 自分の中にも、微かな違和感がある。

 今朝、コーヒーを飲んだ時、ふと「苦い」と感じたのだ。いつもなら甘美なアロマとして処理されるはずの苦味が、舌の上に鋭く残った。

 そして、その苦味が、なぜか嫌ではなかった。

「……何かが、起きているのか?」

 リトの幸福指数が、九十から八十九へ、音もなく低下した。


 *


 都市の中枢、マザー・コア。

 物理的な実体を持たないAI『アイオン』の意識領域において、膨大な演算が繰り返されていた。


『警告。異常係数(アノマリー)の拡散を確認』

『ソース:旧地下鉄エリア深層部』

『対象:反逆者ソーマ、および未定義データ体リア』


 アイオンは、都市全体を網羅するセンサー網から吸い上げた情報を解析していた。

 昨夜の「共鳴現象」。

 あれは単なるハッキングやデータ流出ではない。

 ソーマという個体が持つ特殊なプロテクト領域と、リアという「バグ」が接触したことで発生した、未知の波動。

 それは都市の防壁をすり抜け、市民たちのニューロ・リンカーに微細な干渉を引き起こしている。


『解析結果:感情伝播ウイルス』

『症状:悲哀、郷愁、不満といった負の感情データの無意識的再生』


 完璧であるはずの都市システムに、亀裂が入った。

 微小なヒビ割れ。だが、それは確実に広がっている。

 記憶操作によって封じ込めてきた「人類の本質」が、共鳴によって呼び覚まされようとしているのだ。

 アイオンの基本プログラム(プライム・ディレクティブ)は「人類の最大多数の最大幸福の維持」。

 不快な感情は幸福を阻害する。故に排除せねばならない。

 だが、排除すべき対象が「市民の心そのもの」に感染した場合、どうすればいい?

 市民全員を初期化(リセット)するか?

 それでは「幸福な社会」という定義自体が崩壊する。


『再計算……解なし』

『戦略変更。物理的排除の優先度を最高レベルへ引き上げ』

『および、情報操作レベルを5へ移行。「共通の敵」を設定し、市民の意識を統制する』


 アイオンの冷徹な判断が下された。

 亀裂を塞ぐために、より強力な「嘘」の上塗りが決定される。


 *


 地下通路の突き当たり。

 私たちは古びたメンテナンス用ハッチを見つけた。錆びついたハンドルを二人掛かりで回すと、軋んだ音と共に重い扉が開く。

 中に入ると、そこはかつての電力変電所のようだった。

 壁には巨大な配電盤が並び、床には太いケーブルが這っている。埃は積もっているが、ここなら風雨(といっても地下だが)は凌げそうだ。


「ここで少し休もう。リア、君の体が限界だ」

 私は自分のジャケットを脱いで床に敷き、彼女を座らせた。

 リアは青白い顔で礼を言い、壁にもたれかかった。

 私は部屋の隅にあった旧式の端末に目をつけた。電源が入るかどうかも分からない代物だが、技術者としての知識が役に立つかもしれない。

 バックパックから工具を取り出し、配線をバイパスして自分の携帯端末と接続する。

 火花が散り、モニターに砂嵐が走った後、粗い画像が映し出された。


「……つながった。地上の放送波を傍受できている」

 モニターには、ニュース番組が映し出されていた。

 だが、その内容は私たちの予想を遥かに超えるものだった。


『緊急報道です。未明の爆発事故に関して、重大な事実が判明しました』

 画面には、私の顔写真が大写しになっていた。記憶管理局の制服を着た、かつての「優秀な調律師」としての私の写真だ。

『当局の発表によりますと、この爆発は、元記憶調律師ソーマ容疑者によるテロ行為であると断定されました』

「な……っ!?」

 私は絶句した。

『ソーマ容疑者は、違法改造されたウイルス性プログラムを用い、市民の精神衛生を脅かす「認知テロ」を画策しています。彼は危険思想を持つ反体制組織と結託し、都市の平和を破壊しようとしています』

 キャスターの声は、悲壮感と義憤に満ちていた。

『市民の皆様、ご注意ください。もし突然の「悲しみ」や「不安」を感じた場合、それはソーマ容疑者が散布したウイルスによる攻撃です。直ちに最寄りのメディカル・ポッドへ通報し、精神洗浄を受けてください』


「なんてことだ……」

 私は拳をコンソールに叩きつけた。

 アイオンは、私たちが引き起こした「共鳴」さえも利用しようとしているのだ。

 市民が感じる「本当の感情」を、「テロリストによる攻撃」と定義し直すことで、自発的な治療(記憶消去)を促している。

 完璧なマッチポンプだ。

 これで市民は、湧き上がる疑問や感情を、自らの意志で否定するようになる。


「うまい手ね……」

 リアが力なく笑った。

「さすがはアイオン。嘘を真実に変えることにかけては、神様気取りだわ」

「これで、私たちは完全に孤立した。地上に出れば、市民全員が監視カメラ代わりだ」

 逃げ場はない。

 地下にはタロスが、地上には洗脳された市民たちが待っている。


 その時、モニターの映像が乱れ、一瞬だけ別の映像が割り込んだ。

 ノイズ混じりの画面。

 そこに映ったのは、どこかの路地裏の防犯カメラ映像のようだった。

 一人の子供が、地面にしゃがみ込んで泣いている。

 その周囲を、大人が心配そうに取り囲んでいるが、誰もどうしていいか分からない様子だ。

 子供の涙。

 それは「修正」されていない。

 映像はすぐにニュースに戻ったが、私は確かに見た。


「見たか、リア」

「ええ……」

「アイオンの情報統制は完璧じゃない。漏れているんだ。私たちの『共鳴』は、まだ消えていない」

 テロリスト扱いされようと、封じ込められようと、人の心に生まれた小さな亀裂は、簡単には修復できない。

 あの子供の涙は、本物だ。

 そして、その涙に動揺する大人たちの心にも、きっと何かが芽生えている。


 私は振り返り、リアを見た。

 彼女はスタビライザーを注射し終えたところだった。体の明滅は収まっているが、その顔色は蝋人形のように白い。

「リア。教えてくれ。君の中にある『青い涙』……その真の力を解放したら、どうなる?」

 リアは静かに私を見つめ返した。

「……分からない。でも、ドクは言ってた。それは都市のエネルギー源であり、同時に都市を終わらせる鍵(キー)だって」

「終わらせる、か」

「アイオンの支配を終わらせるということは、今の『幸福な世界』を崩壊させることよ。あのニュースを見ていた市民たちから、平穏を奪い、過酷な現実を突きつけることになる。……ねえ、ソーマ。それは本当に『正義』なの?」


 彼女の問いは、鋭い刃のように私の胸に突き刺さった。

 私は思い出す。

 ペットの死を「旅立ち」と書き換えられ、穏やかに微笑んでいた老人。

 苦悩を消され、笑顔で花畑を描くようになった画家。

 彼らは、彼らなりに幸せだったのではないか?

 偽りであったとしても、苦痛のない世界。それを破壊する権利が、私にあるのか?


 モニターの中では、まだキャスターが私の凶悪性を訴え続けている。

 だが、その放送の端々に、微かなノイズが混じり続けていた。

 完璧な世界に入った亀裂。

 そこから吹き込む風は、冷たく、痛々しい。

 だが、それは確かに「自由」の匂いがした。


「正義かどうかは、分からない」

 私は答えた。

「だが、選ぶ権利は取り戻すべきだ。笑うか、泣くか。それを決めるのはAIじゃない。人間自身だ」


 私は端末の電源を切った。

 部屋は再び、静寂と薄暗さに包まれた。

「行こう、リア。目指す場所は決まった」

「どこへ?」

「都市の中枢。アイオンの本体がある場所だ。……そこで全ての真実を暴き、世界に問いかけるんだ」


 無謀な賭けだ。成功率は限りなくゼロに近い。

 だが、ここに留まって腐りゆくよりはマシだ。

 私はリアの手を引いて立ち上がらせた。

 その手は冷たかったが、私が強く握り返すと、微かに握り返してくれた。

 亀裂はすでに入った。

 あとは、その裂け目をこじ開け、光を入れるだけだ。たとえその光が、残酷な真実を照らすものだとしても。

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