火の鳥の愛人

泉杓子

火の鳥の愛人

 時々信じられないような日常が起こる。

「13Pする予定なんだけど、カメラマンできる?」

 それが四年ぶりに元カノから来たラインの文面だなんて、信じられる?

 しかも今カノとの二回戦が終わって、彼女が風呂に行ってる間に届いた。

 だからグッドポーズをしたうさぎのスタンプでしか返信できない。

 拒絶する選択肢はなかった。

 だって、13Pなんてめったに見られるもんじゃないし、まして彼女、元カノの方、が僕と付き合っていたころは、一度もセックスどころか、裸体に触れさせてくれなかったし、そしてなにより、笑顔がブサイクで、それがマジでエロかったことを思い出したから。

 こんなこと急に言われてもわかんないだろうな。

 焼け気味の肌に、基本的に円いのに所々に筋肉のかくばりがあって、健康的で、しかしブラウンの髪といつもコートを羽織っていて、喋り方や趣味でも品の良さを担保している、ザ・エリートって感じの、かわいいじゃなくて美しいって言うべき女の子だった。

 それが笑うと目が最近のアイフォンぐらい細くなって、口角が左だけ上がってやや崩れた歯並びに加えて歯茎まで見えてしまうんだ。

 思い出すだけで興奮して、戻ってきた彼女、今カノね、を驚かせて、そしてもう一回戦争が勃発してしまった。

 やっぱり僕らは戦後じゃなくて戦前に生きている。

そんなことはどうでもいいか。

「なんで13なの?」

 彼女、今カノ、が寝静まってから僕は送った。

一瞬で返信。

「私がマグダラのマリアで、みんなが使徒っていうプレイなの」


 カメラなんて持ってなかったから、買おうと思って、やめて最新のアイフォンを買った。

 カバーを付けて分厚くなった。

 彼らはコンドームを付けてなかった。

 彼らってのは彼女と13Pをする精鋭十二人組のことで、全員幸せそうな顔をしていた。

 僕は一時間も前にホテルについてしまったから、彼ら一人一人にインタビューした。

「好きな漫画は?」

「『静かなるドン』」

「好きな映画は?」

「『タイタニック』」

「好きな小説は?」

「『下町ロケット』」

 この人たちとは絶対に仲良くなれないと思った。

 大半は一回り以上年上だったが、僕より年下の青年もいた。

 彼は本気で元カノに惚れているそうで、テクと体力で自分が一番優れていることを証明してやる、と意気込んでいた。

 僕はそれまで、セックスに勝敗があることを知らなかった。

 もちろんインタビューも頼まれていなかったし、ただカメラマンとして呼ばれただけだったけど、自然のうちに僕は彼らを取りまとめ、順番に精力剤を飲ませたり、画角を考えたりして、お膳立てに奔走した。

 なんでそんなことをしていたのかはわからない。

 元カノが僕を誘ったのはランダムな選択の結果だったと思う。

 いくら13Pとはいえ、たかがセックスだし。

 でも僕は妙に使命感というか、凄い何かを生み出すんだという熱量があった。

 それが伝播した、とは思わないが、彼らも徐々に熱気を携え始めた。

 そして元カノが登場した。

 物凄くエロい服装をしていた。

 自分の一番思う性の権化を想像してくれ。

 それの一割増しの性を振りまいていた。

 

 いつから人が人間になるのかは、法律によって多少上下するけど、胎内から排出されたときだというのが一般的な解釈だそうだ。

 一方で不倫の要件はセックスだという。

 じゃあ、いつからがセックスなんだろう。

 少なくとも今回は、僕がカメラの録画ボタンを押したときからということにしたい。

 それは元カノがシャワーを浴びている瞬間だった。

 それはすでに一回戦目が終わった証拠だった。

 一回戦目はあまりセックスではないように見えた。

 いや、セックスなんだけど、13Pという肩書にはそぐわないというか、下品な話だけど、検尿カップに入れない最初の尿みたいな。

 あるいは、ボートレースの最初のスタート展示みたいな。

 彼らは明らかに熱量があって、それを放す機会を今や今やと伺っているのだけど、最初に爆発して、小学生の時のあだ名みたいなノリで早漏マンと呼ばれるのを怖がっている感じに、僕には見えた。

 僕だったらありえないな。

 だから元カノとセックスできなかったのかもしれない。

 結局、彼らは明らかに悶々とした表情を悶々としたままに留めた。

 そして、それ故にか、どうしてか誰もが幸福の表情だった。

 風呂場から出てきた彼女が戻ってこず、洗面台で長らく時間をかけている間も。

 驚いたことに、出てきた彼女は全裸にヒジャブを付けていた。

 使徒たちはどこからか十字架を手に持った。

 レコンキスタの始まりだった。


 ソロモンの悪魔だとか、四大天使がどうとかってのは全部偽書の話らしい。

 カナンはヤペテのしもべとなれ、というときのカナンが黒人でヤペテが白人だというのも、何の証拠もないようだ。

 でもそれを信じ、内面化し、行動の規範とする人びとの存在を否定することはできない。

 僕のカメラが捉えている出来事も。

 使徒たちは十字架を彼女に押し当て、「神、ではなく主よ、セックスに祝福あれ!」とか、絶対にそんな文言聖書にないだろって感じのことを言いながら腰を振って、手を上下に動かしていた。

 射精し、説教して、また射精し、また説教。

 そこで初めて僕は、元カノが犯されている、ということに気づいた。

 そこまで気づいていなかった、というか、本当に他人のポルノを見ている気持ちだった。

 高校の同級生と前に飲んだ時、彼が卒業文集でシコっていると聞いたときは驚いた。

 僕にはただの写真で、実感のあるもの、自分自身と接続できる気がしなかったからだ。

 今ならわかるかも知れないし、ぜんぜん違うと言われるかもしれない。

 とにかく、元カノが指を組んで祈りを捧げようとして、その手を掴んで、自分の性器を握らせて「チン約精液書オナ記二章七節 私の祈りはあなたに至り、あなたの聖なる宮に達した!」と絶叫しているのを聞いたとき、僕は実感として、凌辱とか、寝取られとかいう言葉が脳裏に浮かんだ。

 でも犯されながら、彼女は笑っているようだった。

 それを見た途端、僕の身体は熱を発し始めた。

 そして今度は間違いなくその僕の熱が伝播したようだった。

 本当の13Pが巻き起こった。

 誰かが誰かに性欲を向ける。

 そして誰かが誰かの性欲を解消する。

 性欲が先で身体は後から点いてくる。

 もうそんな形容でしか説明できない。

 とにかく、彼らのセックスは激しく燃え上がり、僕も燃え上がり、その影響で彼らがより燃え上がり、僕も燃え上がり、それはもう燃え上がり、燃え上がって、燃え上がった。

 文字通り。

 文字通り、燃えた。

 死傷者百八人。

 それが僕たち、というか僕が叩き出したスコアだ。

 目を覚ますと、僕は留置所にいた。


 子供の頃、というか三歳三ヶ月の時、家で小火があった。

 しばらくの間、僕が通うべき保育園がなくて、仕方なく家で育つことになった。

 でもいつまでも面倒を見ることはできず、僕が冷静沈着で食事睡眠を行えたのもあって、母親は日中家を空けることが多かった。

 ある日、ドアが開かなかった。

 トイレのドアが開かなかったのだ。

 それで僕は漏らしてしまった。

 僕は自分の股が濡れていることより、それが誰もが知るところになることを恐れた。

 三歳児にしてはなかなか頭が回るだろう?

 で、誤魔化すためにあれやこれやと考えて、そこは三歳児だから新しい服を着替えるなんてことも思いつかなくて、脳みそをぐちゃぐちゃになるまで回転させて、答えが出ず、発火した。

 当然キッチンとは別の場所から出火したので、大パニックになった。

 警察が放火魔を捜し、母親は恐れて家を引っ越した。 

 僕は僕が燃えたということを知っていて、しかし不利になるからと何も言わなかった。

 やっぱり、三歳児にしてはなかなかだろう?

 でも僕はもう二十三歳だった。

 だから強面と言われることを美徳だと思っていそうな警官に、

「あなたが燃やしたんでしょう?」

 と聞かれて、

「違います。燃えたんです。僕が」

 と返す他なかった。


 初めて立つ法廷は、不必要なほどに形式的な見た目をしていた。

 検察側の主張。

「被告人は過度な性的興奮をすると人体発火する性質があり、またこれを自ら認識していた。にも関わらず、被告人は13Pの撮影を依頼されても断らず、むしろ積極的に参加したと考えられる。一般的に考えて、性的不能ではない男性が13Pを撮影し、目の当たりにすれば性的興奮を催すということは明白であり、言い換えれば、被告人は自分が発火することを予測し、あるいは予測できた上で13Pを撮影したと考えられる。つまりこれは計画的放火殺人であり、我々検察は、被告人に死刑を求める」

 僕は壇上で、なるほどと思った。

 道理が通っているし、正論だ。

 僕は自分が死刑どころか社会悪とは反対の場所に居続けるべき人間だと思っていたが、検察という法律のエキスパートが死刑に値するというからには死刑なのだろう。

 しかし弁護側の反論。

「被告人は発火時に意識がなかったことはビデオからも明らかであり、仮に制御できていれば発火をしていなかったということは容易に想定できる。さらに性的興奮をするという権利は憲法13条の幸福追求の権利から当然に認められるべきものであり、国民の権利である。もし13Pを撮影することが性的興奮に繋がるとしても、必ずしも発火するまで性的興奮するとは限らない以上、被告人の責とするのは妥当ではない。被告人の発火行為は酩酊時等と同じような心身喪失時の行為とみなすべきであり、被告人は無罪とするべきだ」 

 これもなるほどと思った。

 そうだ、よく考えれば僕はただ13Pを撮影していただけじゃないか。

 到底、死に値するような行為ではない。

 だんだんと司法にムカムカしてきた。 

 でもそれは発火にも、それ手前の手前にしか繋がらず、断ち切れる。

 証人として今カノ、だった女の子が現れたから。

「はい。私と彼、被告が付き合い始めたのは四年前で、元の彼女だった女の子、被害者と被告は同級生で高校生一年生で付き合って三年生になるころには別れていたそうですが、つまり二年ぐらいしか付き合ってなくて私の方が二倍以上長いんです。これは嫉妬とか感情的な要素のない客観的事実を述べているだけです。それに加えてその子は一度もその、性行為をさせなかったとかで、対して私は付き合ったその日には性行為をさせてあげましたし、それが彼の初めてで、私も初めてで、お互い初めてにしては、他の人がどうかは知らないですけど、結構上手くいったというか、これ以上ないと思って、それからも会うたびに、日によっては何回も、五回六回以上した日もあったし、とにかく今までの四年間でいっぱいセックスしたんです。それなのに性的興奮すると発火するなんて、私一度も知らなかったし、というか元カノいるとか聞いてないし、13Pのカメラマンって意味不明だというか、そんなの馬鹿すぎて興奮しないでしょ? 絶対私とした首絞めとか主従逆転プレイの方が良かったしてか私のどこが悪かったのほんとに教えてほしいんだけど本当にマジで、あのさ、私との四年間は何だったの?」

「つまり、あなたとのセックスでは、被告人は発火するような様子は一度もなかったということですか?」

「そうです。そんな様子は欠片もありませんでした。だからお願いします。そいつを死刑にしてください」

 僕はなるほどと思った。

 筋は通っていないけど。

 

 彼女の証言のおかげで、僕の発火に恣意性は無いことが証明された。

 つまり、計画的ではないということであり、偶然の産物だったということだ。

 というわけで、僕は刑務所に入らず、精神病棟にも送られず、世に出ることができた。

 しかし司法が殺人犯ではないと認定しても、社会が従うかどうかはわからない。

 僕は家族から適当な金額を渡されて縁を切られ、当然会社も解雇、住所は彼女、もはや彼女ではなくなってしまったので元カノを元々カノとして元カノと呼ぼうか、のものだったため、僕はホームレスになった。

 これからどうしようか、と思った。

 死ぬ選択肢はなかった。

 自殺というのはよくわからなかった。

 もちろん物理的経済的な苦痛から逃れるために死ぬのは理解できる。

 でもサリンジャーの『バナナフィッシュにうってつけの日』のシーモア・グレース、聞くところによると従軍のトラウマだそうだが、のような理由で死ぬことはわからなかった。

 そういえば中学生の時、女子が、可愛くも美しくもなく、ブサイクでもない平均的な顔だったけど、夏休みが終わったことで死んだ。

 聞くところによると、今後自分の人生にはこれ以上の幸せは訪れない、という理由だったそうだ。

 なんだそれ、とその時も、今も思う。

 さて、弁護団は僕に働き口を用意してくれると言ったが、ろくなものではない気がする。

 だから断った。

 ので、お金を増やさなければ。

 そう思って、気付いたら僕はボートレース場にいた。


 ボートレースは面白いと思う。

 何が面白いかといえば、極めてギャンブルに向いていないところだ。

 もっとも僕がギャンブルに詳しいかといえばそんなことはなく、機械でつまらないからパチスロなどはやったことがない。

 実は釘の配置が、設定が、とか言われても、所詮疑似乱数としか思わないし、こちらが介入できないものにのめり込むのは難しい。

 何よりメーカーの腐心によって各台に魅力が溢れているところが好みじゃない。

 対するボートレースは人を惹き付けるための魅力が欠片もない。

 例えばモータースポーツ、特に車であれば、そこで性能をアピールし大衆に売りつけるため、様々なメーカーがスポンサーになって車を用意し、そこで様々な性能差が生まれ、魅力になる。

 同じ公営ギャンブルの競馬にしても、馬は血筋や育て方によって個体差が生まれるし、そして何より動物だから、人がどんだけ八百長を仕組もうとしても上手くいかない可能性が高いので、スペックに対して成績が悲惨な馬が誕生し、逆にジャイアントキリングが起きて盛り上がり、有名馬はそこらの偉人よりも尊敬される。

 対するボートレースでは、もちろん造船企業なんてそれほど多くないし、いちいち持っていくこともできないので、全艇が同じ構造で、しかも選べない。

 ということは人で判断しなければ行けないわけだけど、競輪みたいに鍛えた肉体が直接関わることなく、老化があまり影響しないので新陳代謝が起こりづらい。

 おじさんのグッズが売れるわけもなく。

 そういうことで、ボートレースはボートレースにしかない魅力がない。

 そしてそれが魅力的だと思う。

 ボートレースは人を信じていなければ成り立たないギャンブルだ。

 関わる人間誰もがこの競技をギャンブルとして成立させようとしているから成り立っているギャンブルだ。

 そういうものが好きだ、と今更気づく。


 舟券を買おうとしてアイフォンをどこかに置き忘れたことに気づく。

 僕は困ったな、と思った。

 誰をどう選べばいいかわからなくなったからだ。

 もちろん誰が勝つかはわからない。

 僕の選ぶ基準はこうだ。

 一、若さ(新陳代謝が起こった方がいいので)。

 二、不祥事がない(それも実力だと思うので)。

 三、経歴が変(なんか才能がありそうだから)。 

 一番は容易に知ることができるが、二番は売店の小雑誌などを読んでも、当然悪い面は書かれていないし、三番もマイナスイメージを与える場合は伏せられているだろう。

 しかも今日はあんまり知名度のある人が集まっておらず、知らない名前が多かった。

 そして買う気が失せようとしている中、奇妙な男を見つけた。

 その男はひどく醜悪な見た目をしていた。

 明らかに芥川龍之介の『鼻』を参照しているような、バカでかくてニキビだらけの気味の悪い鼻が特徴的だったが、それ以外にも清潔感が欠片もないヒゲを蓄え、そして身長は低いが、体格はボートレーサーには見合わないほど丸々と太っていた。

 僕は迷わず彼に、手持ちの金を全ベットした。

 そして最前列の椅子、ボートレースは基本いつもがら空きだ、に座り、レースが始まるのを待った。


 第一ターンマーク、ボートレースは完全な円周を走るのではなく端にあるブイを目印にUターンするのだ、を通過した段階で、僕が金を注ぎ込んだ男は最下位だった。

 他艇と比べ、目に見えてわかるように重量が乗っかっている走りで、ノロノロと擬音で聞こえるかのようだった。

 述べたようにボートレースのマシンスペックはほとんど同じだ。

 そのために競馬のように後半で大きくまくることは起こりにくく、初動で付いた差が最後まで影響し、特に第一ターンマークで一位になった艇が抜かされることはほぼない。

 しかし当然のことだが、ボートレースは水上で行われるので、走れば波が立つし、走っていなくても風で波が立つ。

 つまり常に環境が変化し続けるわけだ。

 そして男はその変化を理解しており、そしてボートレーサーらしくない重量がその変化のために艇を操ることに適しているようだった。

 第二ターンマークで男は仕掛けた。

 男の艇は他艇の作る波に押されるように大きく円を描いていた。

 それは第二ターンマークまでに艇の角度を90度に、つまりブイに対して直線で突っ込むためにあえて大きく回っていたのだった。

 一切のカーブなしに直線で突っ込む。

 波が立つ。

 しかし重心が艇の先端に集中しているようで、減速が起こらない。

 他艇は全く予測できなかったらしく、二位狙いをしていた二位以下の艇は一気に追い抜かされる。

 残る一艇は突っ込んでくる男の艇に驚き、バランスを崩し、転覆した。

 一瞬のうちで、男は一位に成り上がった。

 大波乱の展開に周囲の老人たちが湧き上がる。

 それからは男の独走状態になった。

 三周目の第二ターンマークを回るまで。

 二周目を難なく終え三周目も順調に進んでいた男は、余裕を手にしていたのだろう。

 開けた視界は進行方向にある観客席まで捉えていた。

 そして動揺し、その勢いでカーブせずに直進し続け、壁に激突した。

 激しい音がして、轟沈する。

 それらはすべて僕の目の前で行われ、当然男の目が最後に見ていたものが、僕の座る位置にあることが察せられた。

 けれど僕ではなかった。

 気づけば、隣に元カノ、いや、元々カノが座っていた。

 外見は異なっていたが、ブサイクな笑顔ですぐにわかった。


 高校生の時、僕は学校が終わると図書室に行った、

 塾要らずという触れ込みの学校だったから、自習するための設備が揃っていたのだ。

 そして僕は友達もいなければ打ち込む趣味もなかった。

 その高校にも親に半ば強制的に入れられたのだった。

 僕は勉強する気もないので、ただ図書室の本、もっとも参考書や過去問集が大半を占めていたので有名どころしかなかったが、を借りては読む日々を過ごした。

 元々カノは図書委員をやっていて、そしてわざわざ本を借りる生徒は僕ぐらいだったので、顔なじみになり、すぐによく話すようになった。

 元々カノはいつも村上春樹を読んでいた。

 出会った時点で、元々カノは発刊されている村上春樹作品に、雑誌掲載の単行本化していないものも含めて、すべて目を通しており、今は繰り返し再読していたのだった。

 そしてサリンジャーやヴォネガットは当たり前として、ラブクラフトに『スターウォーズ』と、村上春樹が影響を受けたあらゆるコンテンツも彼女は網羅していた。 

 どうしてそこまで村上春樹が好きなのか、と聞いたことがある。

「春樹には、嫌いなところが二つあるの」

 元々カノは読んでいた『1973年のピンボール』を閉じて言った。

 それは僕が唯一好きな村上春樹の小説だった。

「まず、どう見ても主人公が作者の分身なのに、一回り年下に設定されていること」

「そして?」

「ヒロインがその主人公よりさらに一回り年下なこと」

 そして元々カノはあのブサイクな笑顔をして、

「それ以外のすべてが好き」

 と言った。

 恋をするというのがどういうことか、ようやくわかった気がした。

 火が灯った。

 

 目の前にいるのは元々カノだった。

 僕の心臓は脈打ち、呼気は荒くなる。

 肺に酸素が流れ込み、身体が熱くなる。

 実際はそれは困惑だったのかもしれない。

 実際はそれは感動だったのかもしれない。

 実際はそれは性欲だったのかもしれない。

 だが、その時僕の脳みそに木霊していたのは、追い詰められている、という言葉だった。

 何に?

 仕事とも家族とも恋人とも切り離されたこと。

 その原因を映したアイフォンを失くしたこと。

 全財産が水の中に沈んでいったこと。

 それらも要因ではあった。

 けれども、それにも増して、元々カノが生き残っていて、髪は赤く、肌は白く、背は低く、ピアスをじゃらじゃらと開けて、『moreru』と書かれたサイズ違いのTシャツにダボダボのジャージパンツを履いた、生物学的に別人であるような少女が、それでも元々カノでしかなく、生まれ変わって、目の前にいる、それが僕を最も窮地に立たせるのだった。

 何故か?

 僕はそれに自ら答えを出す代わりに、

「もしかして、僕が火の鳥、というわけじゃないのか?」

 と元々カノに答えを求めた。

 元々カノがその言葉を聞き、まるで初めて聞いたかのような顔できょとんして、それからスマホをこちらに向けるのを見ながら、僕はすべてを理解していく。

僕はこの物語が偶然の産物ではないことを知っている。

 僕は興奮することで発火する、ただし、その興奮は僕が絶望し、失望し、幻滅し、ピンチになることで起こることを知っている。

 僕は悲劇を起こさなければいけないことを知っている。

 でも、なぜそうなったのかは知らない。

 そして元々カノであるはずの少女は、こちらを怪訝そうな目で見ながらも、何も答えず、スマホを向けて、笑顔を続ける。

 それに僕は堪えきれなくなり、元々カノの手からスマホをどけて、肩を掴み、抵抗されるが、構わず顔を近づけて、

「ということはつまり、君が火の鳥なのか?」

 と言った。

 しかし少女は答えない。

 それどころか、少しずつ表情を曇らせ、やがて怯えたようにこちらを見つめる。

 気づけば周囲に人だかりができていた。

 そのうちの複数人、老人だが、自らにはまだ精力が残っていると信じていそうな男たちが、僕の身体を掴む。

 しかし次々と、「熱っ!」と言って手を放して、距離を作る。

 僕は燃え始めている。

 僕は両手のひらを鎖骨を撫でるように移動し、やがて首を絞める。

 そして言った。

「こんなに苦しいのに、僕は火の鳥じゃないのか?」

 少女は返事をしない。

 代わりに、少女の手から落ちたスマホから流れる音声が答えた。

「……物語には悲劇か、あるいは悲劇のふりをした喜劇が必要だ。だがその物語が少年漫画や冒険小説であるならば、悲劇を引き起こすのは主人公ではない、またヒロインでもない、第三者の誰かでなくてはいけない。その誰かの役割は二つ。男を殺し、女を傷つけることだ……」

 音声が止まる。

 よく見れば、そのスマホは僕のアイフォンだった。

 

 いつしか夕焼けが世界を困らせていて、日が当たるところには誰もいなかった。

 というか、僕と、僕が首を絞めている少女以外は、誰もがいなくなっていた。

 僕はもう熱が冷めていて、力が抜け、手を放す。

 少女が地面に倒れ、僕は空いた手でアイフォンを拾う。

 フォトライブラリには8時間弱の動画があった。

 それはひどく非対称なセックスの様子を映していた。

 一人が抱えることのできない量の性的欲望を、一人の女性が受け止めている。

 僕は彼女を哀れに思ったのか。

 それとも助けようと思ったのか。

 今はもう、わからない。

 それは彼らの事情であり、僕の物語には全く関係がないからだ。

 シークバーを動かす。

 数時間後には、すべてが燃え尽きていた。

 ただ灰が積もり、時たま空気が張り込み、燃焼を再開する。

 面白くも何ともないのに、何故か見入ってしまう。

 そうしてしばらくすると、灰の中からガサゴソと音がした。

 灰から人影が立ち上がり、身体の埃を払う。

 それは女だった。

 元カノだった。

 元々カノではなく。

 ラインにいくつかの通知が来ていた。

 見れば、元カノが失踪したという知らせだった。

 また父親からのラインはなく、母親からは心配する文章が一文ずつ届いていた。

 僕はアイフォンの電源を切る前に、アプリ一覧を開いてまとめて消そうとした。

 サファリが開いていることに気づいた。

 観ると、「落とし物 伝える方法 喋らずに」と検索されていた。

 倒れていた少女が立ち上がる。

 少女はブサイクな、いや、ぎこちない、慣れていない笑顔をする。

 優しく、相手を怯えさせないための笑顔。

 僕はそれを見て、台無しにしたいとしか思えなかった。

 再び身体が熱を帯びていく。

 これが僕の本質なんだと血液がうるさく説教する。

 でも、生憎ここはボートレース場だった。

 僕は迷わず水上に飛び込んだ。

 冷たい水が全身の穴から入り込んでくる。

 体温がどんどんと下がっていく。

 ニューロンの発火が止まっていく。

 ざまーみろ、お前の望むことしてやるもんか。

 お前の望む物語にしてやるもんか。

 ざまーみろ。

 ざまーみろ。

 ざまーみろ。

 あはははは。

 火が消える。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

火の鳥の愛人 泉杓子 @ssselturtle1121

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画