生まれ来る子供たちのために何を語ろう(その四) 「神無月と一年の終わりに向けて」
私たちは皆、時の流れという名の河岸に立ち、静かに遠い岸辺を見つめています。やがてその岸辺には、「生まれ来る子供たち」という名のまだ見ぬ光たちが新たに辿り着いて来るでしょう。
さて、その時、「私たちは彼らに何を手渡せるのか」この問いは、未来への単なる義務ではなく、今を生きる私たちの存在そのものの意味を問う、内なる囁きです。
オフコースの小田和正が歌う「生まれ来る子供たちのために」の歌詞はいつまでも心の中でささやき続けます。私たちが日々の喧騒の中で、見失ってはならない、あの純粋な「愛」の形は、どこに隠されているのでしょうか。
このエッセイは、その「形」を探すための、ささやかな精神の旅です。
<神無月、そして一年の残照>
季節は巡り、私たちはいつしか一年の終焉へと向かう時期に立っています。
さて、今から少し前の十月を「神無月」と呼ぶ古来の慣習は、八百万の神々が出雲にお集まりになり、他の土地から神様が一時的に「お留守になる」という、一種の緊張感と自律を求める期間を示していました。しかし、年の瀬が近づく現代の私たちが感じるのは、その古代的な畏れではなく、時間が加速する中での根源的な不安です。
一年の終焉とは、個人の「決算」の時です。私たちはこの一年、未来の子供たちに胸を張って手渡せるだけの、誠実な時間と、責任ある行動を積み重ねてきたでしょうか。物価の上昇、相次ぐ値上げ、そして増大する社会の矛盾。この不安の波の中で、私たちはつい、外側の環境や他者の責任を指差してしまいがちになります。
七十年の歳月を生きてきて、私が最も深く憂慮するのは、この不安の根源が、私たち自身の内側にある「言葉」という土台の崩壊から来ているのではないか、という問いです。神々が留守の間に、私たちは自分たちの魂の規律である「言葉」を粗末に扱い、未来への最も大切な橋を自ら壊してはいないでしょうか。
1.魂を失い、乱れゆく言葉の現実
日本語に古来から宿る「言霊(ことだま)」の思想は、言葉には現実を変える力が宿ると教えます。それは、言葉を扱うことの厳粛な責任を、私たち日本人の心に刻んできたはずです。
しかし、現代に流布する言葉は、あまりに軽く、乱暴で、その魂を失ってしまっています。
テレビの画面で繰り返される「ヤバッ!」「ウマッ!」「マジで?」といった、極度に圧縮された感情表現は、言語が持つ「差異を描写し、世界を正確に捉える」という最も重要な機能を放棄してしまいました。このタレントたちの食レポは、食べ物の味や香り、食感の多様性を伝えるのではなく、単に話し手の興奮度を示す指標に成り下がり、言葉は思考の道具ではなく、瞬間的な感情を発散する煙のようなものになってしまったのです。
さらに深刻なのは、公的な場における言葉の不敬です。政治の言葉は、未来への確固たるヴィジョンや、具体的な責任を伴う議論を欠き、聞く人の感情を煽るためだけの空虚なスローガンや非難の応酬に終始します。国民の関心を集めるため、政治家や評論家は、自己の信念に基づかない、演じられた怒りや無責任な批判を繰り返す。彼らの言葉には、時を超えて未来の世代に検証される歴史の重みがなく、ただその日をやり過ごすための、使い捨ての道具の響きしかありません。
極めつけは、遠い異国のプロスポーツ選手の、勝利の喜びを通り越した過剰な罵りや不誠実な振る舞いです。彼らの姿勢が「憧れの対象」として子供たちに模倣されるとき、言葉だけでなく、態度や規律までが乱れてゆく。言葉の破壊は、単なる流行や軽薄さの問題ではなく、日本人が培ってきた人心の秩序を無為にしてしまい、静かなる破滅へと繋がると、私は強く憂慮します。この「言葉の不敬」が蔓延する社会の様相こそ、神々が留守の間に起きた、最も大きな「魂の規律の弛緩」の証左ではないでしょうか。
2.未来への投資は教育という土台から
では、この魂を失った言葉の乱れ、ひいては社会の基盤の揺らぎに対し、私たちは何をすべきでしょうか。私は、教育という土台を、国家の最優先事項として再構築することこそが、未来への誠実な責任だと確信しています。
「言葉遣いの厳格さと、自分の言葉に責任を持つ訓練」は、家庭や社会が担う以前に、学校教育の場で徹底されるべきです。かつて国語の教師であった祖父が教えたような、言葉を大切にする規律こそが、次世代の思考の根幹を築くからです。
しかし、その教育の最前線である学校現場は、今、極度の疲弊の中にあります。教員不足、際限のない長時間労働、過剰な行政事務、そして社会全体からのスキャンダル報道による評価の低下。学校は「ブラック職場」と揶揄され、未来を担う情熱ある若者が教壇に立つことを避けるようになっています。教頭の負担軽減といった対症療法や、残業代の支給といったポイント外れの議論に終始し、問題の本質が放置されているのです。
問題の根幹は、教員一人あたりが受け持つ学級人数が多すぎることにあります。一学級35人、あるいはそれ以上の子供たちを抱えながら、英語、プログラミング、主体的学習指導、部活動指導、そして何より言葉遣いの厳格な指導を、一人の教員が深く行うことなど、物理的に不可能です。
この問題を解決する鍵は、シンプルですが、国としての決断を要します。それは、教員数を大幅に増やし、少人数学級(一学級25人、あるいは20人へ)を徹底することです。学級数が劇的に増えれば、それに伴い教員数も増加し、一人あたりの仕事量は劇的に軽減されます。残業時間の問題、部活指導の問題、そして最も重要な子供たち一人ひとりの心の機微と言葉に向き合う時間が確保されるのです。
子供たちは、日本の未来を創る最も尊い存在です。そこに金をかけないということは、日本の未来に投資しないということです。私たちは、政党交付金や無駄な公共事業に流れる巨額の税金に目を向け、本来そこに費やされるべきエネルギーと資源を、教育という未来への最も確実な礎に注ぎ込まなければならないのです。教育に金を掛けない国は、いずれ滅びるという歴史の教訓を、今こそ胸に刻むべきです。
3.一年の終わりに、自立の誓いを
一年の終わり、私たちは過去を振り返り、未来への希望を静かに立てる時期を迎えました。未来の子供たちへ、私たちが真に遺すべきは、豪華な建物や一時的な富ではなく、言葉を大切にし、自分の内なる真実に責任を持つという、静かなる規律です。
神々が留守の間だからこそ、私たちは自らの知性と責任をもって、この世界に秩序と誠実さをもたらさねばなりません。私たちが今、言葉という道具をいかに丁寧に扱い、教育という土壌にどれだけ深く愛を注げるかに、未来の光はかかっています。
この連載が、あなたにとって、未来へと続く道を照らす一筋の思索の光となり、ご自身の心の中で、最も大切な「遺産」とは何かを静かに見つめ直す時間となりますように。
言葉に魂を込めること。それは、八百万の神々が戻ってきたとき、彼らに胸を張って「私たちはこの一年、誠実に生きていた」と報告するための、私たちの魂の自立の証明となるでしょう。
神無月を経て今年の終わりに、今、私が思うこともきっと、神々の耳に届いてくれることを信じて。
生まれ来る子供たちのために何を語ろう(その二) @kitamitio
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