生まれ来る子供たちのために何を語ろう(その三)        「ウサギとカメ」

 私たちは皆、時の流れという名の河岸に立ち、静かに遠い岸辺を見つめています。やがてその岸辺には、「生まれ来る子供たち」という名のまだ見ぬ光たちが新たに辿り着いて来るでしょう。


 さて、その時、「私たちは彼らに何を手渡せるのか」この問いは、未来への単なる義務ではなく、今を生きる私たちの存在そのものの意味を問う、内なる囁きです。


 オフコースの小田和正が歌う「生まれ来る子供たちのために」の歌詞はいつまでも心の中でささやき続けます。私たちが日々の喧騒の中で、見失ってはならない、あの純粋な「愛」の形は、どこに隠されているのでしょうか。


 このエッセイは、その「形」を探すための、ささやかな精神の旅です。



< ウサギはなぜ走るのか? >

 イソップの「ウサギとカメ」の寓話は、常に「怠惰と勤勉」という単純な勝敗の物語として語られてきました。若き日の私たちは、油断を戒めるそのシンプルな教訓を、急ぎ足で心の引き出しにしまい込みました。


しかし、歳月を経て、再びこの物語の前に立ち、二つの生き物の魂を映す鏡として向き合ってみると、その教訓の陰に、より深い問いが潜んでいることに気づかされます。


  —ウサギは、なぜ、あそこまで駆り立てられるように走るのか。

  —カメは、なぜ、あの遅さで歩き続けられるのか。


 ウサギの速さは、単なる身体能力ではありません。それは、世界の容赦ない現実に晒され、常に危険を予感する「恐れ」と共に織り込まれた生存のリズムそのものです。


 対してカメの遅い歩みは、むしろ世界への深い信頼を宿しています。甲羅という、外界から離れ、いつでも自分の世界に戻るための「小さな宇宙」を背負っているからです。


 この二匹は、ただ速度が違うのではありません。彼らが依って立つ、世界の見え方そのものが、根底から異なっているのです。


1.甲羅という静かな奇跡

 カメは歩き続けます。風の音にも、何かの影の動きにも、あわてふためくことはありません。その遅さは、世に言う「怠惰」とは対極にある、静かな確信に近い何かです。


 なぜ、カメはその確信を持てるのか。その秘密は、常に背負う甲羅の中にあります。甲羅は、ただ身を守る硬い殻というだけでなく、外界にいるままで「退避」を実現できるという、生命の革命的な仕組みです。

 危機を感じたとき、カメは身を縮めるだけでいい。その内部には、「襲われても、まだ帰る場所がある」という、世界から孤立しない、深い安心感が待っているのです。


 この安心こそが、カメの歩みの基調となり、奇跡のような強さを生みます。「逃げる必要がないから、歩ける」。ただそれだけの単純な仕組みが、カメの時間を、誰にも奪われないものとしているのです。


 ウサギは、その内なる退避所の存在を知りません。知らないまま、世界を跳ね回って生きています。


2.跳ねる影──外に逃げ場を求める生き物

 ウサギには、カメのような不動の甲羅がありません。何であれ影が揺れれば耳が立ち、風の訪れにさえ心臓が高鳴る。草むらの中を瞬時に走り抜ける姿は、軽やかで美しく見えます。でも、その軽やかさの奥には、常に途切れることのない緊張の糸が張りつめています。


 ウサギの速さは、逃げるための速さです。瞬間的な疾走に全エネルギーを賭け、あとは疲れて座り込むように休みます。その休息もまた、脱力ではなく、次の危険に備えるための生存的な「溜め」の時間にほかなりません。

 世界はウサギにとって優しくなく、だからこそウサギは世界を信じすぎてはならないのです。油断すれば、捕食者に一瞬で飲み込まれてしまうからです。


 寓話では、ウサギはカメに負けたことになっています。しかし、それは単に勝負に負けたのではなく、「自身の生存の宿命から一歩も出られなかったという意味での敗北」であったのかもしれません。

 ウサギは、跳ねるしか生きる方法を知らない生き物として、その物語の中に閉じ込められてしまったのです。


3.逃げる必要のなくなったウサギ

 では、もし——、もし、ウサギがカメのような「逃げ場」を得たなら、どうなるでしょうか。


 ここでいう逃げ場とは、具体的な洞窟や草むらの奥ではありません。それは、「恐れなくてもよい場所がある」という、内面に築かれた確かな感覚のことです。

 ウサギがその安心を得たとき、まず起こるのは、張りつめていた身体がふっとゆるむという変化です。緊張の糸が解けた筋肉は、初めて「安心」の重さを知るでしょう。


 ゆるんだ身体で歩いてみれば、走る世界と歩く世界が、まるで違う景色を持っていることに気づきます。世界は、こんなにも音に満ち、草の匂いはこんなにも深かったのかと。速さが恐怖の裏返しでしかなかったことを、そのときウサギははじめて理解するのです。


 そして、その速さは、別の意味へ変わり始めます。耳は危険を聞き分ける器官から、微細な音楽を味わう器官に変わり、跳ねる脚は追われるためではなく、喜びを表現するための力に変わります。緊張は感性へ、逃亡は自由へと昇華してゆくのです。


 逃げ場を得た瞬間、ウサギはただ速い生き物ではなくなります。世界と戯れ、世界と遊ぶように生きる、まったく新しい存在へと変容するのです。


4.カメとウサギ、競争の外側へ

 こうやって安心を手に入れたウサギが、競争を忘れ、ゆっくりと歩み始めたとき、カメはふと振り返るでしょう。そのときウサギは、もはやカメと勝負などしていません。


 そもそも最初から、彼らは勝負などしていなかったのかもしれないのです。ウサギはただ逃げるために走り、カメはただ歩くために歩いた。寓話が勝敗を語っても、生き物の本質は、常に勝敗の向こう側にあるものです。


 ウサギには速さがあり、カメには甲羅がありました。ただそれだけのことが、二つの生のあり方を決定づけたのです。しかし、ウサギが逃げる必要を失い、自らの意志で歩みを選べるようになったとき、ウサギはようやく「自分で自分の速度を決められる」という真の自由を得ます。


 その自由は、競争とは無縁のものです。人生のレースから降りるのでもなく、勝つために走るのでもない。ただ、自分のリズムで生きる。それだけの、静かで深い変革なのです。


   ― 寓話は、生き方に向けて開かれていく ―

 ウサギは、寓話の中で怠けて負けたのではありません。ウサギは、生存の宿命に従って生きただけです。そしてカメも、遅いから勝ったのではありません。カメは、自分の世界を自分の速度で進んだだけです。


 逃げる必要のなくなったウサギとは、恐怖から自由になった生き物の象徴であり、自分の生き方を選ぶという、最も静かで、最も革命的な行為の象徴です。

 

 寓話を読み直すことは、「生きるとは何か」という問いを読み直すことです。世界から逃げなくてよい瞬間を知ったウサギは、きっとこう言うでしょう。


「勝ち負けの物語だと思っていたこの道は、本当は、生き方そのものの物語だったのだ」と。


 そしてその時、ウサギははようやく、ウサギではありつつ、ウサギではなくなる。それは、生まれ来る子供たちが、いつか彼ら自身の「自分の時間」を生き始める瞬間を予感させるものなのかもしれません。

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