越冬群
小紫-こむらさきー
越冬群
築三十年のアパート「コーポサツキ」の床は、安っぽいプリント合板のフローリングだ。
長年の日焼けと生活汚れでくすんだ茶色は、所々剥がれて黒ずんでいる。
俺は引越しのダンボールを畳み終え、ようやく一息ついて缶ビールを開けた。
プシュ、という炭酸の音が何もない部屋に虚しく響く。
東京から逃げるようにして来たこの街は、夜になると恐ろしく静かで、更に暗い。
窓の外からは、乾いた風の音と、時々通る車の音が聞こえるだけだった。
ふと、掃き出し窓のサッシに目が止まった。
アルミレールの溝に、茶色い「シミ」のようなものがある。
「……なんだあれ。汚れか?」
入居前のクリーニングは済んでいるはずだ。
俺は眉をひそめ、ティッシュを一枚抜いて近づいた。
指先で拭き取ろうとした、その瞬間……シミから、細い触角が二本、ニョキリと生えた。
「うわっ」
シミじゃない。虫だ。
焦げ茶色に、灰色の斑点が混じった、平べったい虫。
背中の幾何学模様が、古びた木材の木目そっくりに擬態している。
カメムシの類だろうか。
俺はポケットからスマホを取り出し、カメラを起動した。
ズームで撮影し、そのまま画像検索にかける。
画面の中で光の輪が回転し、数秒で候補が表示された。
『クサギカメムシ』
一番上に出てきた名前をタップする。
詳細ページには、おぞましい情報が羅列されていた。
『日本全土に分布。秋になると越冬のために集団で家屋に侵入する』
『わずか数ミリの隙間でも潜り抜ける』
『刺激すると強烈な悪臭を放つ』
検索結果の画像一覧には、壁一面にびっしりと張り付いた茶色いカメムシの群れの写真があり、俺は思わずスマホを伏せた。
「うわ、きもちわる……」
鳥肌が立つ。
俺は恐る恐る、実物を見やった。
窓と網戸のわずかな隙間、その数ミリの空間にそいつは不気味な模様の背中を見せて張り付いている。
「勘弁してくれよ……」
検索結果によれば、こいつらはこれから寒さを逃れて暖かい場所――つまり、人間の家を目指してくるらしい。
だが、俺はすぐに気を取り直した。
ここは二階だし、窓は閉まっている。鍵もしっかりかけてある。
記事には「隙間から入る」とあったが、それはもっと小さな種類のカメムシの話だろう。あんな平べったいとはいえ、親指の爪ほどもある図体だ。網戸もガラスも閉まっているのに、物理的に押し入ってこられるわけがない。ネットの情報は大げさなものだ。
こいつを殺したくはない。
子供の頃、うっかりカメムシを踏み潰してしまい、靴の裏から一週間も悪臭が取れなかったトラウマがある。
あの、古くなった油粘土と腐ったパクチーを混ぜて煮詰めたような、脂っこい臭い……。
ここはこのまま放置しよう。どう入ったのかはわからないが、向こうも勝手に出ていくだろう。
俺は見て見ぬ振りを決め込み、背を向けてテレビをつけた。
関わらなければ、害はない。佐藤の件と同じだ。無視していれば、そのうち消える。
三十分後。
バラエティ番組の笑い声を聞きながら、二本目のビールを開けた時だった。
ふと、視界の端に違和感を覚えた。
カーペットの端、フローリングが露出している部分に、黒っぽい「点」がある。
さっきまで、あんなところに節穴なんてあったか?
酔いの回った頭でぼんやりと見つめていると、その「節穴」が、音もなく数センチ横へ移動した。
「……は?」
背筋が粟立つ。
俺は慌てて立ち上がり、そこへ駆け寄った。
間違いない。
さっきのカメムシだ。
いつの間に? どこから? 窓は閉め切っていたはずだ。
「ふざけんなよ……」
さっきの検索結果が脳裏をよぎる。
『数ミリの隙間でも潜り抜ける』
本当に、入ってきやがったのか。
俺は舌打ちをして、手近にあったチラシを丸めた。
殺してはいけない。臭いがつく。外へ追い出すんだ。
俺は腰を落とし、チラシの端をカメムシの前に差し出した。
こいつらは、危険を感じるとポロリと落ちる習性がある……とさっき検索したときに見た気がする。
うまく紙に乗せて、窓の外へ捨てる作戦だ。
慎重に、慎重に。
紙の端が、カメムシの前脚に触れた。
カメムシは紙に乗るのを拒否するように、コロンと身を固めて転がった。
カチッ、という微かな音を立てて、ほんの数センチ横へ弾かれる。
俺は慌てて視線を追った。だが、動かなくなった途端、その姿が床の木目に吸い込まれるように消えた。
「あ……」
見失った。
床の木目と、カメムシの背中の色が完全に同化している。
死んだふりをしているのか、じっと動かないせいで、どれが木目のシミで、どれが虫なのか判別がつかない。
「どこだ? ここか? これか?」
顔を床に近づけて目を凝らす。
この辺りに落ちたはずだ。
もし見つけられないまま、うっかり踏んでしまったら……。
想像しただけで、足の裏にあの嫌な感触と悪臭が蘇ってくる。
「クソッ、出て来いよ!」
俺はイラつきながら、床をバンバンと叩いた。
その振動に驚いたのか、フローリングの「シミ」の一つが、わさわさと脚を動かして這い出した。
「そこか!」
俺は再びチラシを構え、今度は強引に掬い上げた。
紙の上でカサカサと暴れる感触が、指先に伝わってくる。
気持ち悪い。早く捨てたい。
俺は窓を数センチだけ開け、夜の闇に向かってチラシを振った。
「二度と来んな、クソ虫が」
カメムシは闇の中へ弾き飛ばされ、見えなくなった。
俺はすぐに窓を閉め、鍵をかけた。
勝った。
俺は大きく息を吐き、額の汗を拭った。
これでもう大丈夫だ。
そう思って振り返った俺の目に、信じられないものが映った。
カーテンのひだの陰。
壁のクロスの継ぎ目。
そして、天井の隅。
さっきまで何もなかったはずの場所に、茶色いシミが、一つ、また一つと増えている。
まるで、この部屋の古びた汚れが、意思を持って浮き出てきたみたいに。
「……おい、嘘だろ」
俺は目をこすり、天井の隅を凝視した。
じっと見ていると、それはただのクロスの剥がれ跡に見える。
今度は壁を見る。そこにあるシミも、ただの汚れのようだ。
だが、さっきまであんな汚れがあっただろうか?
この部屋の全てが疑わしい。
「チッ、気のせいか。酔っ払ってんのか、俺は」
これ以上、こんな汚い部屋のアラ探しをしても気分が悪くなるだけだ。
見なかったことにしよう。俺はそう決めて、風呂に入ることにした。湯船に浸かってさっぱりすれば、この不快感も洗い流せるはずだ。
一時間後。
風呂から上がり、バスタオルで頭を拭きながらリビングに戻った俺は、冷蔵庫から新しいビールを取り出した。
プシュッ。
今日三本目の快音が響く。
「ふぅ……」
冷たい液体を喉に流し込み、大きく息を吐く。
やはり、さっきのは見間違いだったのだ。
部屋は静まり返っている。
虫の気配などない。
そう思ってソファに座り、何気なく天井を見上げた時だった。
ブーン、という重たい羽音が聞こえた気がした。
反射的に見上げると、シーリングライトの乳白色のカバーの中に、黒い影が映っていた。
一匹ではない。二匹、いや三匹……?
カバーの内側を、のそのそと這い回るシルエット。
電球の熱に誘われたのか、それとも光に集まったのか。
「……ふざけんな」
俺は呻いた。
さっきのは追い出したはずだ。
別の個体か? いつの間に? どこから?
俺はスマホをひっつかみ、乱暴に検索画面を叩いた。
『アパート カメムシ 侵入経路』
画面には、絶望的な文字が並ぶ。
『網戸とサッシの間には構造上、数ミリの隙間がある』
『サッシの上下のレール部分は盲点』
『エアコンのドレンホースからも侵入する』
俺は忌々しげに窓枠を睨んだ。
確かめると、ゴムパッキンが劣化して縮み、確かに隙間が空いている。そこから冷たい風がスースーと入ってきていた。
「なんだこの欠陥住宅! 管理会社はバカなのか? こんな隙間だらけのボロ物件つかませやがって!」
怒りが湧いてくる。俺の確認不足じゃない。このアパートが悪いのだ。
俺は入居早々、とんだハズレくじを引かされた被害者だ。
「……隙間テープか」
検索結果の対策ページには、そう書いてあった。
サッシの隙間を埋めるためのモヘアテープ。
明日は土曜日だ。朝一でホームセンターに行って買ってこよう。
それで塞いでしまえば、こいつらも入ってこれない。
俺は天井を見上げ、ライトの中で蠢く影に向かって中指を立てた。
「覚えとけよクソ害虫が。明日でお前らの侵入ルートは封鎖だ。俺の勝ちだ」
そう吐き捨てて、俺は布団を頭からかぶった。
天井からポトリと何かが落ちてくるかもしれない恐怖に怯えながら、俺は無理やり目を閉じた。
翌朝、俺は開店直後のホームセンターにいた。
土曜日の朝だというのに、レジには列ができている。田舎の人間は暇なのか。
俺は目的のブツ、「モヘア隙間テープ」を二巻と、ついでに缶ビールとつまみをカゴに放り込んで並んだ。
パッケージには『あらゆる隙間をシャットアウト!』という頼もしい文句が躍っている。値段は五百円もしない。
たったこれだけの出費で、あの不快な連中とおさらばできるなら安いものだ。管理会社に請求したいくらいだが、手間を考えれば自分でやった方が早い。
アパートに戻り、すぐに施工に取り掛かる。
パッケージの裏面には『貼る場所の汚れや油分、水分をきれいに拭き取ってからご使用ください』と赤字で注意書きがあった。
俺はサッシのレールを見た。長年の砂埃と、何かの黒いカスがこびりついて灰色になっている。
「……これを拭くのか? 雑巾で?」
わざわざ雑巾を濡らして、拭いて、乾くのを待つ? 面倒だ。あまりにも面倒くさい。
俺は指先でサッとレールの埃をなぞって払った。
指が真っ黒になる。
それをズボンの裏で拭う。
「まあ、ある程度取れただろ。どうせ粘着力なんて強力なんだし、上から押さえつければくっつくはずだ」
俺は保護フィルムを剥がし、埃の残るレールの上に、強引にテープを貼り付けていった。
汚れの上から蓋をする。これでいい。佐藤のミスの発覚を恐れて、データを改ざんして上書き保存した時と同じだ。見えなくなれば、なかったことになる。
下側のレールを貼り終え、俺はふと窓枠の上部を見上げた。
上のレールにも、同じように隙間があるはずだ。
だが、手を伸ばしても、奥のレールまでは見えにくいし、脚立もないので届きにくい。
「……上も、やるか」
網戸がある以上、奴らがそれを足場にして登ってくる可能性はある。重力など関係なく、あの鉤爪のような足でへばりついてくるだろう。
だが、押入れの奥から脚立を引っ張り出してくるのはあまりに面倒だ。
俺はつま先立ちになり、プルプルと腕を伸ばして、手探りでテープを貼り付けた。
視線が届かないので、真っ直ぐ貼れているかは分からない。
奥の方は指が届かず、テープが浮いているような気もするが、強く押し付ければなんとかなるだろう。
「よし、こんなもんだろ」
俺は適当なところでテープを引きちぎり、踵を下ろした。
一応塞いだ。やれるだけのことはやった。
それに、万が一入ってきたとしても、下の侵入経路さえ塞げば九割は防げるはずだ。
完璧主義は疲れるだけだ。
俺は余ったテープをゴミ箱に投げ捨て、満足げに手を叩いた。
窓を閉めてみる。テープの毛足がサッシに密着し、少し閉めるのが固くなった。
この抵抗感こそが、完全防御の証だ。
「完璧だ。これで俺の城は守られた」
もしこれで入ってくるようなら、それはテープの粘着力が弱かったせいであり、メーカーの責任だ。俺はやるべき対策をやったのだから。
その夜、北関東特有の「空っ風」が吹き始めた。
ガタガタと古いサッシが鳴る。
気温は一気に下がり、スマホの天気予報は最低気温が一桁台になることを告げていた。
俺はこたつに入り、昼に買ったビールを飲みながら窓の外を見た。
ガラスの向こう、闇の中に、時折小さな羽音がぶつかる気配がする。
越冬場所を求めて彷徨うカメムシどもが、この部屋の明かりと暖かさに引き寄せられているのだろう。
「残念だったな。ここは満員だ」
俺は窓に向かってビールの缶を掲げた。
入れるものなら入ってみろ。あのモヘアの毛足に絡め取られて、寒空の下で凍え死ぬがいい。
勝利の美酒に酔いしれていると、足元から冷気が忍び寄ってきた。
「寒……」
いくらこたつに入っていても、部屋の空気自体が冷え切っている。
築三十年の木造アパートの断熱性は、無いに等しい。
俺はリモコンを手に取り、備え付けのエアコンに向けた。
かなり古い型だ。黄ばんだプラスチックの筐体が、歴史を感じさせる。
入居してから一度も使っていなかったが、背に腹は代えられない。
「頼むぞ、ポンコツ」
ピッ、という電子音と共に、エアコンが唸りを上げた。
ウィーン……とルーバーがゆっくり開き、内部のファンが回り始める。
ガガガガッ。
不快な異音がした。
長期間使っていなかったせいだろうか。ファンが何かに引っかかっているような、硬い音。
「おいおい、壊れてんのか?」
俺が眉をひそめて見上げていると、送風口から風が吹き出してきた。
生暖かい風と共に、香ばしいような、青臭いような、奇妙な臭いが鼻を突く。
そして……。
バラバラバラッ。
乾いた豆を撒いたような音がして、送風口から黒い粒が大量に噴き出してきた。
「うおっ!?」
俺はとっさに手で頭を庇った。
埃の塊か? それともゴキブリの糞か?
床に散らばった「それ」を見て、俺の思考は凍りついた。
茶色い、五角形。
背中の幾何学模様。
カメムシだ。
乾燥してカサカサになった死骸と、驚いて手足をバタつかせている生きた個体が、ない交ぜになって床にぶちまけられている。
一匹や二匹じゃない。
数十匹はいる。
「は……? なんで……?」
エアコンの中から? 俺は呆然と見上げた。
開いたルーバーの奥、暗い送風口の中で、まだ何かが蠢いているのが見えた。
黒い塊が、ファンの回転に合わせて揺れている。
そこは、暖かい風が出る場所。外の寒さに耐えかねた奴らにとって、そこは楽園のような越冬場所だったのだ。
ドレンホースという、誰も塞がなかった裏口を通って辿り着いた、約束の地。
俺がスイッチを入れたことで、安眠を妨げられた彼らが、怒りとパニックと共に部屋中へ解き放たれた。
ブーン、ブーン、ブーン。
重たい羽音が、部屋のあちこちから響き始める。
床を這う者、壁に張り付く者、そして怒り狂って飛び回る者。
俺の城は、一瞬にして地獄へと変わった。
「うわ、あ、ああっ!」
俺は悲鳴を上げて後ずさった。
床に散らばったカメムシを踏まないようにと足を引くが、逃げ場がない。
パチリ、と足の裏で乾いた音がした。
死骸だ。乾燥した甲羅が砕ける感触が靴下越しに伝わってくる。
「クソッ! 汚ねえ!」
俺は足を振ったが、砕けた破片が靴下の繊維に絡まって取れない。
その間にも、エアコンからは次々と黒い粒が降ってくる。
まるで壊れた自動販売機のように、止まる気配がない。
「なんでだよ! テープ貼っただろ! 完璧だったはずだろ!」
俺は窓へ駆け寄り、サッシを確認した。
モヘアテープは貼られている。だが、よく見ると端の方がぺらりと剥がれ、宙に浮いていた。
埃の上から貼ったせいで粘着力が落ち、結露の水分を吸って剥がれ落ちたのだ。
そして、そこを埋め尽くすように、茶色い塊がびっしりと詰まっていた。
外からの侵入者だ。
剥がれたテープの隙間、そして俺が手探りで適当に貼った上部のレールから、彼らは列を成して入り込んでいたのだ。
テープの毛足が、かえって彼らの足場となり、侵入を助けているようにさえ見えた。
「不良品だ……! あのテープ、やっぱり安物だったんだ! 詐欺だろこれ!」
俺は叫びながら、窓を開けようと鍵を外した。
こいつらを追い出す。窓を全開にして、全部外へ叩き出すんだ。
俺は取っ手を掴み、力任せに引いた。
ガッ。
窓が動かない。
「は?」
もう一度引く。
ビクともしない。
レールを見る。
サッシの溝に、カメムシが詰まっていた。
侵入しようとした奴らが団子状態になり、つっかえ棒のようになっている。
無理に開けようとしたせいで、何匹かがすり潰され、緑色の体液がレールに滲み出していた。
強烈な臭いが鼻を打つ。
「ぐっ……!」
俺は口元を押さえてたじろいだ。
開かない。無理に開ければ、この大量の虫をすべて轢き殺し、部屋中を体液と悪臭で満たすことになる。
「どうすりゃいいんだよ……」
逃げ場がない。
部屋の中を飛び回る羽音は増すばかりだ。
一匹が、俺の顔めがけて飛んできた。
「ひっ!」
手で払いのける。その拍子に、指先が硬い羽に触れた。
ゾワリと鳥肌が立つ。
そいつは俺の襟元、首筋のあたりに着地した。
カサカサと、冷たい足が皮膚の上を這う感触。
「うわぁぁぁぁぁっ!」
理性が飛んだ。
俺は反射的に、首筋の異物を手で叩き潰した。
グシャリ。
生々しい感触が手のひらと首筋に残る。
直後、鼻が曲がるほどの強烈な刺激臭が脳髄を直撃した。
パクチーを腐らせてガソリンに漬け込んだような、あの脂っこい悪臭。
「あ……あぁ……」
やってしまった。
一番恐れていたことが起きた。
俺の身体が、汚れた。
洗っても落ちない。この臭いは、皮膚の奥まで染み込んで、俺の一部になる。
「お前らのせいだ……俺は悪くない、俺は被害者だ……!」
俺は半狂乱になりながら、首筋の残骸を拭った。
指先が黄色く染まっている。
洗面所へ走ろうとしたが、足が止まった。
洗面台の白いボウルの中に、すでに数匹の黒い点が蠢いているのが見えたからだ。
鏡にも、タオルにも、歯ブラシにさえも。
逃げ場がない。
俺はキッチンへ戻り、ウェットティッシュをひっつかんで首筋をこすった。
ゴシゴシと、皮膚が赤くなるまで。
だが、拭けば拭くほど、脂っこい臭いが広がっていく。
鼻の粘膜にこびりついて、呼吸をするたびに自分の体内が汚染されていくようだ。
ふと、スマホの通知音が鳴った。
テーブルの上に置いたスマホの画面が光る。
表示されたのは、無視し続けていた佐藤からのメッセージだった。
あの時、俺は奴にこう言ったのだ。「君がやったことにしておけば、処分は軽く済む。俺がなんとかしてやるから」と。もちろん嘘だ。
俺は自分の保身のために奴を売り、データを改ざんして責任をすべて被せた。
佐藤からのメッセージには、こう書かれていた。
『先輩のせいで、僕の人生めちゃくちゃです。一生許しません』
文字が、壁を這うカメムシの姿と重なった。
どいつもこいつも、俺の平穏を脅かしやがって。
俺は悪くない。
指示が悪かったんだ。
テープが悪かったんだ。
アパートが悪かったんだ。
俺は震える指で画面をタップした。
ふざけるな、俺だって被害者だ、お前が無能なのが悪いんだろうが。
そう打ち返そうとした。 だが、指が動かない。
画面の上を、小さなカメムシが横切ったからではない。
言葉が出てこないのだ。
どんなに言い訳を並べようとしても、この悪臭の中ではすべてが虚しく、薄っぺらく感じられた。
画面の中の文字も、自分の指も、すべてが汚れて見えた。
俺はスマホを放り出した。
ガツンとテーブルに当たったスマホは、そのまま床の死骸の山へと滑り落ちていった。
もう、どうでもいい。
外へ出よう。
この汚い部屋から逃げ出して、ビジネスホテルにでも泊まればいい。金ならある。
俺は立ち上がろうとして、玄関を見た。
ドアの隙間、郵便受けの縁、そこかしこから侵入してくる茶色い列が見えた。
外は寒い。
スマホの予報では、今夜は氷点下になるかもしれないと言っていた。
ここを出れば、あの冷たい風の中を歩かなければならない。
それに、今の俺は臭い。
こんな悪臭を放つ身体で、ホテルのフロントに立てるだろうか。
タクシーに乗れるだろうか。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
無理だ。面倒だ。辛いのは嫌だ。寒いのは嫌だ。
俺は膝から崩れ落ちた。
床には、無数のカメムシが蠢いている。
もう、避ける気力もなかった。
尻の下で、何匹かが潰れる嫌な感触がする。
臭い。酷く臭い。
でも、不思議と、その臭いが自分の体臭のように馴染んでいく気がした。
俺も、こいつらと同じだ。
嫌なことから逃げて、責任を押し付けて、安全で暖かい場所に隠れようとして。
壁を埋め尽くす茶色いシミが、全部、俺が切り捨ててきた「責任」の顔に見えた。
嫌悪感と、安堵感が、ない交ぜになって溶けていく。
「……もういいや」
俺は呟いた。
エアコンからは温風が出続けている。
部屋は暖かい。
カメムシたちは、ただ暖を求めて集まってきているだけだ。
俺の体温を感じて、数匹が膝の上を這い上がってくる。
俺はそれを払わなかった。
どうせ汚れている。どうせ臭い。
なら、このままここで、こいつらと一緒に冬を越すのも悪くないかもしれない。
外は寒いから。
俺は悪臭に包まれたまま、ゆっくりと目を閉じた。
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