サイコサイコサイコ

井ノ上ユウ

プロローグ

 父が家を出ていった日のことを、僕はあまり覚えていない。覚えているのは、母の手の震えと、玄関の向こうから聞こえた警察官の落ち着いた声だけだ。

 あの声に救われた気がして、それ以来ずっと、僕は警察官という職業に淡い憧れを抱えている。正義感というほど立派なものじゃない。ただ、人生のどこかで一度くらいは、誰かの役に立てたらいい──そんな程度の動機だ。


 そんな僕でも、大学生活はそれなりに楽しかった。ミステリーサークルの連中も気の置けない仲間だ。一つ上の先輩が言った。

「日向、二十歳になったんだろ。今日は潰れるまで飲ませてやるよ」

 それが、始まりだった。


 その夜のことを、僕は断片的にしか思い出せない。笑って、飲んで、また飲んで。酔いというより、揺さぶられているような感覚だった。帰り道は、アスファルトが船みたいに上下して、まともに歩けなかった。

 どうにか自室にたどり着き、服も脱がずにベッドへ倒れ込む。喉が焼けるほど渇いて、机の上のペットボトルに手を伸ばしたが、指先が空を掴んだだけだった。

 その瞬間、あり得ないほど強い渇きが胸の奥からせり上がってきた。


 ──欲しい。


 そう願った気がする。そこから記憶が途切れている。


 翌朝、目を開けたとき、強烈な二日酔いより先に驚きが来た。

 ベッドの周囲に、見覚えのあるものが散乱していた。いや、散乱していたというより──集められていた。

 ペットボトル、ペン、本、鞄、充電器、リモコン。僕の部屋にあった小物が、半径一メートル以内に吸い寄せられるように寄ってきていた。


 寝相が悪いにも程がある。そう言い聞かせて、とりあえず大学へ向かった。内側からくる痛みは、音を伴っているようだった。


 通学途中、スマホでニュースを開くと、不可解な窃盗事件の記事がトップにあった。

 施錠された部屋の窓ガラスが内側から割られ、金品だけが消えているという。

 記事を読んだとき、一瞬だけ胸の奥がざらついた。けれど、ただの二日酔いのせいだと思った。


 数日後。

 講義中、前に座る同級生が使っていたシャープペンが、やけに綺麗な金属光を放っていた。

 不意に「いいな」と思った。ほんのささいな欲望だ。

 次の瞬間、そのペンが音もなく僕の手の中へ飛び込んできた。


 “キン”と、頭の奥で金属板を弾いたような感覚が走った。

 周囲を見回しても、誰も気づいていない。僕だけが、世界のわずかな歪みに気づいていた。


 授業が終わると、足が勝手に家へ向かった。

 自室の扉を閉め、深呼吸を一つ。机の上のペンを見つめ、「来い」と念じるように思う。

 ペンが、確かに揺れた。

 もう一度。

 今度は、はっきりと僕の方へ滑るように動いた。


 喉が鳴った。恐怖か興奮か、自分でも判断がつかなかった。


 欲しいと願えば、半径五メートル以内の物が動く。どうやら物体を引き寄せるだけではなく、自由に動かせるようだった。重いものは無理だった。


 ニュースで見た窃盗事件が、再び脳裏をよぎった。

 もしあれも、この力と同じ仕組みなら……。


 僕は警察官になりたい。

 父のように、誰かを裏切る人生にはしたくない。

 それなのに今、僕の手の中には、悪事へと繋がる能力が確かに存在している。


 これは、選択の物語だ。

 正しく生きたいと願った僕の前に、はじめて“悪事”が人生の選択肢として現れた瞬間だった。

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