雨と名前

高橋玲

本文

 昼過ぎから降り始めた雨はすぐに街を濡らし、行き交う人々を物陰に追いやってしまった。

 その中で一人、傘を持たない女学生が喫茶店へと入っていく。木製の扉の軋み、軽快なベルの音、その後に「いらっしゃいませ」と落ち着いた低い声。喫茶店はカウンターだけの小さな造りで、奥に小さなテレビがある以外は、店長と思しき壮年の男性が食器の手入れをしているだけだった。

 女学生はその男性に会釈をして、ぐるっと喫茶店を見回すと、おそるおそるカウンターの端の席に座った。

「荷物なら隣に置いてもらって構いませんよ」店長は女学生におしぼりと乾いたタオルを渡しながら言った。「タオルは雨を拭くのにお使い下さい。しかしまた、急に降ってきましたね」

 女学生は差し出されたおしぼりとタオルを受け取ると、雨に濡れた鞄を拭いて隣の席に置き、それから自分の髪や制服を撫で始めた。自分のハンカチはポケットに入っていたが、白く柔らかいタオルを見て、店長の言葉に甘えることにしたのだった。

 店長の物腰もまた、そのタオルと同じように柔らかなものだった。耳に心地良い声に、余裕のある微笑み。ダンディズムを極めた大人の雰囲気に、女学生は自然と緊張が解れていった。

 提供されたカフェラテも女学生の舌を喜ばせた。いつも自動販売機やチェーン店で購入する甘ったるいものとは違う、ミルクの濃密さとエスプレッソの苦みが絶妙に混ざりあったカフェラテは、女学生の陰鬱な気持ちを消し去り、彼女の口元に自然と笑みを浮かべさせるのだった。

「鈴木さん、ですよね」

 しばらく穏やかな時間が流れた後、不意に店長が呟いた。

 その呟きに女学生は視線を携帯端末から引き戻した。鈴木とは自分の名字だったからだ。

「どうして私の名前を?」

 女学生はこの喫茶店に来るのは初めてだったし、店長と何処かで話した覚えも無かった。

「雨が教えてくれるのですよ」店長は窓の外を眺めながら言った。「雨音が囁いてくれるのです。何々さんが来るよ、と」

 一瞬、店長と女学生の間に沈黙が流れた。目をぱちぱちとさせる女学生に、店長はすぐに「冗談です」と続けた。「すみません、ただの推定です。ほら」

 店長が指し示したのは奥にあったテレビだった。どこの局か分からなかったが、そこにはとある推定方法を取り上げた番組が流れていた。

「大枠から推定していくそうです。男か女か、日本か海外か、といったように。前にいらっしゃったお客様も同じことを仰っていました。特に誕生日と名前に効果的だそうで」

 ちなみに自分は藤堂と申します、と店長は付け加えた。

 その推定方法は女学生も知っているものだった。鈴木という名字もありふれたものだったので、女学生は違和感を覚えつつも深く考えなかった。それよりも店長が気さくに話し掛けてくれる方が嬉しく思えたのである。学校とは大違いだった。

 それから女学生はしばらく店長と話し、雨が止んだ頃に帰っていった。


 ***


 静かになった店内に電話のベルが響く。

 店長は女学生の使っていたカップを洗い終えると、テレビ番組を停止し、店の奥にある電話を取った。

です。はい、はい、いつもお世話になっております。先ほど店を出た客ですよね。鈴木麗、中央高校の二年だそうです。住所は南区の駅の近くで⋯⋯家族は⋯⋯」

 電話を終えた店長は喫茶店を閉めに外に出た。欲張ってはいけない、怪しまれないためには一日一人が限界だ。

 喫茶店の横、掲示板に張り出された捜索願と誘拐の注意喚起は、雨に濡れてほとんど読めなくなっている。店長は煙草に火を付け、その張り紙を昏い目で眺めながら煙を吐いた。「悪く思わないでくれよ」

 雲が引いて青々とした空には、鮮やかな虹が架かっていた。

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雨と名前 高橋玲 @rona_r

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