ひとりぼっち、ふたりきり。

言乃悠

一人ぼっち、二人きり

出会い

 桐崎きりさき美玲みれいは今日も一人だった。

 高音質高画質のテレビが、まるで独り言のように綺麗で広いだけのリビングに音と光を伝播させる。

 家の至る所に自動点灯する照明が取り付けられていたが、大きな液晶が置かれたリビングだけは、自動点灯のスイッチがオフにされていた。

 そんな画面の向かい側には、とても立派なソファが配置されており、液晶の中で各々に色付いた小さな小さな灯りたちで、うすぼんやりと柔からなクッションの上に座り、背もたれに寄りかかる彼女のことを照らしていた。


 今日もまた、父と母は帰ってこない。

 父に捨てられたわけではない。

 母に愛されていることも知っている。

 彼女にとって、いつも忙しなく働きまわる父と母は誇りであった。

 片や父親は、有名な実業家である。

 片や母親は、最先端技術の研究者である。

 同級生の中でも群を抜いて成績が良い彼女が、物分かりのいい彼女が、そんな両親の仕事を知って、もっと一緒に居てほしいなんて我儘も言えるはずはなかった。


 ソファの前に横たわるテーブルには、勉強用の教材と筆記具が転がっていた。

 台所には未だに慣れない料理の残骸、届かない棚に手を届かせるための踏み台が転がっていた。

 今日もお風呂に入らないと、そんなことを朧気に考えながら、美玲は意識を手放した。


 その翌日。

 昼食の匂いが残る学校の教室で、事件は起こった。

 あまりにも唐突に。


「お前、真面目すぎてキモいんだよ」


 教室の空気を裂くように、その言葉は投げつけられた。

 心無い声音であり、酷く棘のある声色であった。


 四月上旬。進級して間もない頃だった。

 美玲は例年通り学級委員に選ばれ、提出物を出していない男子に声をかけただけだった。ただ、それだけのはずだった。


「え……と」


 喉が細く震える。

 正しいことをしているはずなのに、周囲の空気が一瞬にして自分へと傾いた気がした。

 自分が悪い側に置かれたような錯覚が、美玲の胸をひりつかせた。


「先生に媚び売って成績取ってんだろ。言われたこと全部やって、うぜぇんだよ」


 男子の言葉は支離滅裂だった。

 しかし、それでも声の強さだけが正しさのようにクラスへ響く。

 学年でも優秀な部類である美玲には、その理屈が一つもわからず、彼女の胸を更にひりつかせた。


「言われたから……出さなきゃ、でしょ?」


 恐る恐る返した言葉は、すぐに押し潰された。


「だーかーら! なんで出さなきゃいけねぇんだよ!」


 怒鳴り声が机を震わせる。

 問いの形をしていながら、答えを求めていない声だった。

 美玲は完全に言葉を失い、足もとがすうっと冷えていくのを感じた。


 その瞬間だった。


「忘れたなら、忘れたって言えばいいのに」


 背後から落ち着いた声が割り込んだ。

 振り返ると、相浦あいうらりょうが立っていた。

 同じ小学四年生。どこか大人びた目をした、彼女にとってもどこか不思議な少年だった。

 授業中も何処か所在なさげで、昼休みですら窓の外に視線を投げていた。


「なに、お前、女子の味方すんの?」

「……お祖父様が言ってたけど、弱い犬ほどよく吠えるんだよな」


 先の怒鳴り声とは真逆の色の無い言葉が、冷や水のように掛けられた。

 次の瞬間、男子が陵へと腕を伸ばした。体格は陵よりひと回り以上大きい。胸ぐらを掴むつもりだったのだろう。

 だが、その腕が陵に触れることはなかった。

 陵は淡々とその腕を捻り上げ、力の流れだけを軽くいなし、次の瞬間には男子の身体を床へと押し倒していた。

 縦横の市松模様で描かれた木目の床に鈍い音が響く。緊張が一気に教室全体へと広がった。


「痛っ……! お、お前、暴力だぞ!」


 もがきながら叫ぶ男子。その緊張が周囲の同級生たちを怖がらせる。


「先にやってきたのはお前だろ」


 まだ十にも満たない子供には不釣り合いな侮蔑の籠った視線を、陵は隠すこともなく膝元に横たわる男子に突き刺した。

 彼の表情は見えないはずなのに、男子はぴたりと騒ぐのを止めた。背筋を悪寒にすら似た感覚が走ったからだ。


 周囲のざわつきが、急に静かになった男子とは対称的に大きくなっていく。

 誰かが大人を呼びに走る。教室の空気は緊張を少しだけ弛緩させる。

 やがて、廊下から子供のものではない、少しだけ重たい足音が近づき――


「相浦くんっ! 何をしているの!」


 陵の膝元に、同級生の男子が下敷きにされている。

 その様子を見た担任の教諭が、悲鳴混じりの声を上げた。緊張が完全に解けた。


「先に手を出したのはこいつです」

「相浦くん、離れなさい」


 陵の意見を全く聞かずに、担任の教諭は命令口調で告げる。

 すると、彼は特に反発することなく、下敷きにしていた男子を解放するためにその場で立ち上がった。


「なんでこんなことをしたのですか?」


 そんな彼に目線を合わせて、担任の教諭は疑問を投げかけた。


「こいつが殴ってきたから…「違う! こいつが急に殴ってきたんだ!!」」


 下敷きになっていた男子は、解放されるや否や自分の潔白を叫ぶ。

 その様子を見て陵は思った。屑には手心を加えても意味がないのだと。


「それは本当ですか?」


 男子の派手な主張に、まるでそれが正当であるかのように、担任の教諭は陵に視線を向けてきた。

 大人から見れば、ただの事情聴取かもしれないが、陵にとってその行動はとても不愉快だった。

 陵は言葉無く、ただ首を横に振った。


「ほら、嘘ついてるから黙ったんだっ!」


 男子は十にもいかない年齢で、息を吸うように嘘を口から吐く。


「……本当ですか?」


 担任の教諭の陵に向けられた疑義的な視線は更に強まった。

 小学四年生の彼は、どこか掴みどころがない――言い換えれば、一般的な大人にとって理解し難い印象を与える子供だった。そのせいか、担任の教諭の中には無意識的な思い込みが渦巻いていた。


「あ、あのっ!」


 美玲は冷え切った心を、身体を何とか動かして声を発した。


「私のことを助けてくれたんです」


 彼女は明言した。

 自分を助けてくれた彼を悪者にしてはいけない。

 そんな単純な感情が、彼女の背中を押したのだった。


「だから、相浦くんは悪くないです」


 重たくなった心を、きりきりと音を鳴らしながら、それでも彼の無実を口にした。


 陵と美玲は、件の男子と共に職員室へ連れられ、さらに詳しい事情聴取を受けることになった。

 三人は仕切りのない同じ机に通され、そのまま話を聞かれる形だった。美玲が口を開くたび、件の男子は遮るように声を荒らげ、机越しに身を乗り出して言い返してくる。制止の言葉は入るものの、場の配置も進め方も変わらないまま、やり取りだけが繰り返された。

 落ち着いて話すには、明らかに配慮を欠いた状況だった。

 それでも、美玲の成績が常に優秀であり、学級委員を毎年務めるほどの真面目さを担任の教諭も、同席していた別の教諭もよく知っていた。件の男子がどれほど声を張り上げ、事実を歪めるような言葉を並べても、二人の教諭が彼女の話を信じる姿勢を崩すことはなかった。

 やがて、陵と美玲に職員室を出るよう指示が出される。二人は特に逆らうこともなく、その場を静かに後にした。


「なんで助けてくれたの?」


 職員室の扉を閉じたと同時に、美玲ではなく陵が疑問を口にした。


「……へ?」


 美玲は思わず間抜けな声音を漏らした。

 何故なら、助けてもらった自分がそうやって彼に質問するならいざ知らず、彼にそうやって聞かれるとは思っていなかったからだ。


「だから、怖かったんだろ?

 なのになんで、俺の助けたりなんかしたの?」


 陵は少し煩わしそうに告げた。


「えっと……その、私は相浦くんに助けてもらったけど、私が相浦くんを助けたっていうのがよくわからない……ごめん、その馬鹿で」


 さっきの出来事ですっかり自信を無くしてしまった美玲は、自分が理解できないことを馬鹿だからと理由付けした。


「いや、桐崎が馬鹿だったら、この学校の人間のほとんどがもっと馬鹿だろ。新手の嫌味か? ……ああ、修学旅行で京都に行くから京言葉の練習でもしてんの?」


 美玲にとって相浦陵は、あまり喋らない不思議な子なイメージだったから、そんな風に言葉がすらすらと口から出てきて、何だかそれが可笑しくて笑ってしまった。


「……馬鹿で悪かったな」


 陵は馬鹿にされたと思い、少しむすっとした表情をした。


「ごめん、馬鹿にするつもりじゃなくて……その、面白くて」


 彼のご機嫌を損ねないように、恐る恐る美玲は告げた。


「そ、それより、その、わからないんだけど?」


 更に話題を戻して、話をうやむやにしようとした。


「なにが?」


 陵はぶっきらぼうに言った。


「助けたってなにが? どこで?」


 だから、美玲も少しだけぶっきらぼうになりながら告げた。


「……」


 すると、陵は黙り込んでしまった。

 まるで、見たことのない生物を見たような、そんな視線を彼女に向けながら。


「言いづらかったら、言わなくても大丈夫だよ」


 その瞳に気圧され、美玲は身体の前で軽く小さく両手を振った。


「じゃあ、言わない」


 すると、陵はそっぽを向いて歩き出す。


「ま、待ってよっ」


 美玲は焦ったように、彼の背を追いかけた。


 教室に戻ると、同じクラスの女子たちが、心配そうな表情を浮かべながら彼女を取り囲んだ。

 だが、その関心は彼女自身ではなく、起きた出来事の顛末に向けられていた。疑問を投げるだけの声が飛び交い、教室は騒がしくなっていった。

 先に教室に足を踏み入れた陵には、誰かに話しかけることもなく、誰かが話かけることもなく、彼はそのまま自分の席の椅子を引いて座った。

 教室に広がった喧騒が、まるで自分事ではないように、窓の外に視線を向ける。やがてチャイムが鳴り、午後の授業が始まった。



 騒ぎがあった日の放課後。

 陵は普段通りに下駄箱へと上履きを押し込んだ。

 わずかに土の匂いを含んだ空気が通り抜ける。外から力強い日差しが差し込む昇降口へと向かう。内と外を切り分けるように床へ埋め込まれた金属のレールを跨いだ。


「待ってっ!」


 そんな声が背中へ届いた。大きな声だった。

 彼はゆっくりと振り返る。

 下駄箱がある土足用のコンクリート床の前で、塩化ビニル樹脂の床上で、両手に膝をついて息を荒げる美玲の姿があった。


「何?」


 陵は背負ったリュックサックを軽く持ち直しながら、澄んだ静けさを帯びた声で応じる。


「……一緒に帰ろ?」


 息の残る声で、美玲は小さく言った。


 陵は何か言葉を発することはせず、ただ黙って静かに彼女を見据える。

 ほんのわずかな瞬間であったが、その感情の読めない視線に、美玲は背中へじわりと汗が滲むのを感じた。


「なんで?」


 やがて、彼の口から発せられた言葉は、およそ子供らしからぬ色のないものだった。

 美玲は子供ながらに、まるで深淵を覗いてしまったかのような、そんな錯覚に襲われた。

 それでもなお、彼女は小さく唇を噛み、小さく息を吸う。


「……えっと、その……」


 喉が乾き、言葉がなかなか形にならない。


「さっき、助けてくれたから……その……」


 なんとか絞り出した声は、風が吹けば消えてしまいそうに弱かった。


「困ってたから。気にしないで」


 そんな彼女とは対称的に、やはり、彼の返事はひどく平坦であった。

 だがしかし、なんとなく、あくまでも彼女の直感でしかないが、先ほどの「なんで?」よりも柔らかく聞こえていた。


「話したいから、知りたいから、一緒に帰りたい」


 美玲は言った。


 彼女が帰る一軒家には、父と母の姿はほとんどない。

 話せるときに言葉を交わさなくてはならない。そんな強迫観念に、半ば無意識的に突き動かされていた。


「……わかった。待ってる」


 陵はゆっくりと首を縦に振った。

 まだ二桁年にも満たない人生で、初めて向けられた強い感情に戸惑いながら。


「ありがと!」


 美玲はそう言って、自分の靴が入った下駄箱に手を伸ばした。

 淡いピンク色のスポーツシューズを取り出し、コンクリートの床に丁寧に置く。上履きから履き替え、空いた下駄箱へそれをしまうと、改めて昇降口へ向き直った。


「お待たせ」


 昇降口の外で待っていた彼の隣に立つ。


「いや、待ってないけど」


 陵はぶっきらぼうに告げた。


「そ、そっか。

 相浦くんはあの武術道場に通ってるんだっけ? 今日も行くの?」


 戸惑いながらも、美玲は知っている限りの情報を駆使して、会話が続くように話題を振った。

 今日の出来事がその証明でもあるように、彼が地元でも有名な、紀元前より伝わる「神源流」と呼ばれる武術を習っていることは、彼女のクラスでは誰もが知るところであった。


「隣に住んでるから」


 そう言って、陵は正門に向かって歩き始める。


「道場の隣?」


 美玲も彼の隣で歩幅を合わせる。


「そう」


 正門から外に出た。


「毎日通ってるの?」

「まあ、そう。親がいないから」


 帰る方向は同じで、それすらも今までの美玲は知らなかった。


「相浦くんもいないんだ」

「ってことは、桐崎も親いないの?」


 少しひび割れたアスファルトの上を、春先らしい陽気な温度に包まれながら進む。


「家にはほとんど帰ってこないんだよね」

「そうなんだ」


 会話が途切れた。

 陵はそれを全く気にも留めていなかったが、ひとつひとつ着実に沈黙が重なった。


(何か、話さないと)


 よく話す同級生たちとはあまりにも勝手が違い、その反応のなさに戸惑いを隠せなかった。


「まだ生きてるんだ」


 ぼそりと、本当に小さく彼は呟いた。

 つい口からこぼれてしまった、そんな言葉だった。

 積み重なった沈黙の中で、その一言だけが、ひときわ強く浮かび上がる。


「え?」


 美玲は思わず声を上げる。

 今までの戸惑いすらも吹き飛ばすほどに、彼の呟きに興味を惹かれたからだ。


「……なんでもない」


 陵ははっとした表情を浮かべて、ばつが悪そうにしながら、彼女と目が合わないようにそっぽを向いてしまう。

 ここまで露骨に聞くなと態度で示されれば、どんなに強い興味があろうが、美玲も無理に聞き出そうとは思えなかった。


「どれくらいやってるの?」


 だから、全く違う話題を振り直した。

 ただ漠然と、彼と仲良くなりたいと思った。


「いつからだろ。わかんない」


 歩幅を変えずに、彼女に振り向かずに、あまり興味なさげに陵は言った。


「そうなんだ。私も強くなれるのかな?」

「誰でもある程度は強くなれるけど、必要ないと思う」


 靴とコンクリートが擦れる乾いた音が響く。


「どうして? 今日みたいなことがあったら、相浦くんみたいに強い方がいいじゃん」

「武術って、聞こえはいいけど只の暴力だから。必要がないなら、やらなくていいと思う」


 美玲は彼との会話で感じた。

 彼の根底には、その武術に対しても、少しだけ距離を取ろうとしていることに。


「じゃあ、なんで相浦くんは……」

「知らないってば」


 陵の口調は少し強かった。

 明確に根掘り葉掘り聞かれることを嫌う素振りを見せた。


「……ごめん」


 美玲はわかりやすく肩を下げた。


「あ……いや……」


 陵はそんな彼女の様子を見て困ってしまった。


「……だから、俺なんかとは関わらない方がいいよ」


 でも、そこから先に続いた言葉は、更なる拒絶だった。

 気にしないで、大丈夫だよ、そういった気休めの言葉を彼は知らなかった。


「家、ここだから」


 陵は大きな武術道場の隣にある小さな家を指さす。


「じゃあ、またね」


 美玲は再び抱えた戸惑いを隠しながら、陵に小さく手を振った。

 すると、彼は酷く戸惑った顔をした。どうしたらいいのかわからない、そんな表情をしていた。


「手を振って『またね』って言えばいいんだよ」


 だから彼女は、続けて口にした。


「……こう?」


 陵は彼女と同じように、小さく、戸惑いながら手を振った。


「じゃあ、また明日!」


 美玲の中で、自分の戸惑いはどうでもよくなっていた。

 彼が自分より戸惑っていたからだ。


 こうして今日も、誰もいない家に向かって帰るのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ひとりぼっち、ふたりきり。 言乃悠 @mashmashmashmash

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画