第2話 お風呂&希望

 試合後、連れてこられたのは、元いた地下牢ではなく、贅沢の限りを尽くした部屋だった。

 地下牢はカビ臭い嫌なニオイだったけど、ここはキツい香水のニオイがして違った意味で鼻につく。

 白い壁には背丈ほどの大きさの剣を掲げる英雄の絵が飾られ、部屋の中央の金色の椅子には、不摂生の限りを尽くしたような腹が突き出た男が、口ひげを整えながらこちらに視線を向けていた。

 この顔には見覚えがある。

 確か、この闘技場の主催者だ。


「その小僧の手枷を外せ」


 連行してきた男が腰に下げている鍵を手に取り、乱暴にボクの手枷の鍵を外す。

 奴隷に堕ちてから、手枷が外されるのは地下牢の中だけだったため、痛いけど解放されたという安心感のほうがそれを上回った。


「貴様には今から客用の風呂に入ってもらう。孤高のバウンティハンター様からの要望だ。どうにも奴隷というものの扱い方をご存知ないらしい。まあ金は貰ったし、ワシは一向に構わんのだが。せいぜい今のうちに贅沢しておけ。どうせ奴隷の末路は変わらん」


 主催者は罵るように言い放つと、また口ひげの手入れに戻った。


「そんなことわかってるよ……」


 そう言って自分の手足に視線を落とした。

 ニオイまで染み付いていそうなくらい茶色く汚れていて、誰でもこんな奴隷はいらないだろうな、と思えるくらい酷い有り様だ。

 あの綺麗な人がこんな汚いボクをペットにするのは、さぞかし抵抗があることだろう。

 ボク自身もこんな姿で会うのはゴメンだ。

 少しでもいい印象を与えられるなら、それに越したことはないだろうし。


「付いてこい。お前にはもったいないほどの浴場に連れていってやる」


 ボクを連行してきた男は、入ってきた扉とは違う扉から出るように促してくる。

 扉を開けるとこれまでのジメジメと暗い通路とは違い、さっきの部屋同様に白い壁が続く通路。

 もう別の建物と言ってもいいくらい、入ったことはないけど王宮とかこんな感じなんだろうなと思えるくらい立派なものだ。


「あまりキョロキョロするな。ここは本来、遠方からやってきた領主や貴族のための場所で、お前のような者が入れる場所じゃないんだ。ここを使わせろだなんて、あの女は一体何を考えてるんだ」


 男は面倒くさそうに言い、最後に小さく舌打ちした。

 そこまでしてボクを客用のお風呂に入れさせるのは、彼女が相当な綺麗好きということかもしれない。

 ペットって言ってたけど、ひょっとしたらボクを掃除係で使ったりしてくれないかな?

 そんなことを考えていると、男はとある扉の前で足を止めた。


「お前に与えられている時間は三十分。その時間で体を綺麗にしてこい。中にはこちらで用意しておいた新しい服があるからそれを着ろ。絶対その服を着て出てくるなよ。わかったら返事をしろ」


「わかりました……」


 男は満足したようで、入ってこいと顎で指図する。

 木製の扉のノブに手をかけて回すと、一流の職人が建て付けをしたのか、軋む音一つしなかった。

 中は着替えるための場所にしてはやけに広く、地下牢の何倍もの広さがある。

 既に石鹸のいい香りが充満していて、自分の姿との差があまりにも酷くて顔が引きつりそうになった。


「本当に使っていいのかな……罠のような気がしないでもない……。玩具にされる前の最後の贅沢なのかな」


 着替えを入れる籠の横には、新しい服が畳まれて置かれていた。

 白いシャツは見たことがない光沢があって、ボクが着ていいような生地じゃないのはひと目でわかる。

 今の汚れた手で触るのもはばかれるような服だ。

 まさか、お風呂に入る前に気合が入るとは思ってもみなかった。


「よし、最後の贅沢かもしれないし、存分に味わおう!」




 ✥✥ ✥✥ ✥✥ ✥✥ ✥✥ ✥✥ ✥✥ ✥✥




 きっちり三十分かけて、最後になるかもしれないお風呂を満喫した。

 どこまで綺麗にできたかはわからないけど、最善を尽くしたつもりだ。

 新しい服は分不相応すぎて似合ってるのかはわからないけど、サイズもちょうどだし、彼女の気分を害することはないと思う。


「よし、入れ。くれぐれも粗相はするなよ」


 看守が処刑人を送り出すような、温度のない表情で言ったのが気になった。

 中には絶対零度の暴君と呼ばれた彼女がいるのだろう。

 ノックをして声を掛けると、中から彼女の艶のある声が返ってきた。


「待ってたわよ」


 扉を開くと、椅子に座って足を組んだ彼女、それにその前で小さくなって立っている主催者の姿が飛び込んでくる。

 どういう状況かわからないけど、主催者が困っているのだけは確信できた。

 ボクの顔を見た主催者は、安堵した表情を見せた途端、大きな腹を揺らしながら近づいてきた。


「何をしていたんだ、指定は三十分だったろう! ルゥシェリア様を待たせるとは、商品としての自覚が足りんからワシが責められたではないか!」


 確かに服を着るのには手間取ったけど、それでも数分だけで大幅に遅刻はしていない。

 それに戻ってくるまで三十分とは聞いていない。

 でもそんなことを言っても納得してくれなさそうだ。


「ちょっと、レンを商品扱いしないでくれるかしら。次にそんな扱いをしたら命はないと思いなさい」


 彼女から、血液が凍るんじゃないかというくらい、冷たくも激しい、本気の殺意が込められた言葉が投げかけられた。

 ボクのためにここまで怒ってくれたことに、全身の毛が逆立つような感動を覚える。

 もしかしたら、彼女はボクの救世主なんじゃないかって。


「こ、ここ、これは失礼いたしました」


「レンは私のなの。扱いは私と同等じゃないと許さないから」


 彼女はそう言うと立ち上がり、ボクの目の前までやってきた。

 銀色に輝く髪の毛は雪の結晶でも見ているようで、肌は白い陶器のように滑らかだ。

 燃えるような紅瞳は、まるで宝石のようで、ボクの心を鷲掴みにした。


「レン、今日からあなたは私のペット。私のことはルゥシェリアって呼んでね」


 まるで愛しい人を見るような瞳でボクを見つめてくる。

 でも、彼女の言う通りボクはペットのはずだ。

 どうしてこんな目で見つめてくるんだろう——この矛盾がどうにもボクの中で上手く消化できない。


「あら、お風呂から出て、まだ髪の毛が濡れたままじゃない」


「あ、ごめんなさい」


 気分を損ねたらきっと怒られる。

 思わず目をつむったけど、その後の追撃はなかった。

 その代わり、ルゥシェリアは主催者にタオルを要求し、それでボクの頭を優しく包みこんだ。

 ふんわりとしたタオル越しに、彼女の指を感じる。


「このままじゃ風邪を引いちゃうわ。私が拭いてあげるからじっとしててね」


 その手つきは奴隷やペットに向けるような印象はなく、それどころか凄く優しくいたわっているのが伝わってくる。

 久しぶりに直に感じる優しさに、思わず目に涙が溜まっていくのがわかった。

 なぜこんなにも優しいんだろう。

 どうしてもそれを尋ねたくなったけど、この場で聞くのは足がすくんでしまう。


「どうしたの? 痛かったかしら」


「ううん、そうじゃないんだ……」


「この場所は嫌な思い出しかないものね。さっさと離れましょう」


 ルゥシェリアがボクの手を握ろうと手を差し出してきた。

 この手を握ってもいいのか、迷っているうちに、彼女の手が先に包みこんできた。

 その手から伝わってくる温もりを一生忘れないように、ボクは無意識に心の奥底に刻みつけていた。

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