第2話:『私の名前は』
『ナギサ』 ~俺の漫画のヒロインが、
第2話:『私の名前は』
「あれは…まさか———“イツキ”!?」
喫茶店の前を横切ったあの姿は、
間違いなく死んだはずのイツキだった。
心臓が激しく高鳴る。
理性では分かっていたが、反射的に駆け出す足を、
止めることはできなかった。
あの姿は……。
あの靴だって、
俺が去年の誕生日にプレゼントした……。
俺が見間違えるはずない。
「———はぁ、はぁ、はぁ」
くそっ。
前は陸上部で鍛えてたってのに。
こうも簡単に体力が落ちるとは……。
大きく深呼吸をし、呼吸を整える。
潮風の独特な香りが、肺を満たしていく。
耳を澄ますと、
静かに波の音が聞こえる。
気づけば、海岸近くの公園まで、
走ってきてしまったようだ。
雲の隙間から差し込む夕日が、
水面を赤く染めている。
園内にはまばらではあるが、
まだ人の影があった。
「……おかしいな。やっぱり気のせいだったのか?」
何言ってんだ、俺。
当たり前だろう。
あいつは———イツキはもう死んだんだ。
そう自分自身に言い聞かせようとした、
そのとき。
びゅうっ
と、突風に身体が包まれた。
同時に、
得も言われぬ奇妙な違和感を覚えた。
まるで、時間が止まったかのような。
そして、
———音が消えた?
そういえば、波の音が聞こえない。
人の気配もしなくなった。
…ごくり。
唾を飲み込んで、
いつのまにか緊張していたことを、
ようやく自覚する。
なんだか嫌な雰囲気だ。
気味が悪い。
———とにかく帰ろう。
そう思い、踵を返そうとしたが———
「———っ!?」
体が動かない。
いや、動こうと思えない。
氷で出来た手で、
首を絞められているような、
そんな感覚が、俺を襲った。
動けば、死ぬ。
確実に。
間違いなく。
そう直感させるのに、十分な殺気だった。
それが一瞬の出来事だったのか、
数分のことなのか。
俺はゆっくりと、
努めてゆっくりと、
後ろを振り向いた。
……何も、ない?
ある物といえば、
大きな木の枝が落ちている程度だった。
「なんだ、気のせい……か?」
大きく独り言をこぼし、安堵する。
早くこの場を立ち去りたかった。
しかし、帰るには殺気を感じた方向に、
背を向けなければならない。
それだけは出来ない。
そう、本能が咎めていた。
俺はこれ以上、動くことができなかった。
「あなた……だれ?」
突如、
背後から人の声がひびいた。
体から嫌な汗が流れる。
間違いない。殺気を放っているのは“コイツ”だ。
この、背後に立っている人物だ。
心なしか、振り向くことだけは許容された。
そんな気がして、
俺は再びゆっくりと振り向いた。
そこに居たのは———緑色の髪の少女だった。
少女は潮風に髪をなびかせながら、
相手を射抜くような鋭い眼差しで、
こちらを見つめている。
その瞳は、宝石のようなエメラルドグリーンで———
いや、違う。
俺に向けられた殺気に呼応するかのように、
彼女の瞳は、この世のものとは思えない
「金色」に輝いていた。
「……っ……ぁ」
あまりの衝撃に声が出ない。
それは、
少女の妙な迫力に気圧されていたのが一番の理由だ。
だけど、決してそれだけが理由じゃなかった。
彼女は…
その、なんていうか。
その容姿や雰囲気が、
先ほどまで執筆していた漫画のヒロインに、
あまりに似ていたのだ。
まるで漫画からそのまま出てきたのかと思うくらいに。
そしてそれだけではなく、
何故か俺は彼女に妙な懐かしさを感じていた。
「ごめんなさい、人違いだったみたい」
彼女はそう言って、くるりと身を翻した。
「まっ、待ってくれ!」
「……何?」
とっさに呼び止めたものの、
特に話すことなど、なかった。
ただ、
どうしても声をかけずにはいられなかった。
波の音だけが、沈黙をつなぐ。
呼び止めておいて無言の俺に、彼女は眉をひそめ訝しんでいる。
何か、
何か言わないと。
「その……そうだ、女の子を見なかったか?」
「…女の子?」
緑色の髪の女の子の、眉が少し、動いた。
「そ、そう。ショートカットが似合う、元気な女の子で。背丈は、ちょうど君ぐらいかな」
少女はこちらを見つめたまま動かない。
「……あなた、名前は?」
「え?あ、ああ…アイザワ…トオルっていうんだけど」
まさか名前を聞かれるとは思わなかったので、
しどろもどろに答えてしまう。
ああ、かっこわるい。
「アイザワ…トオル?」
ハッとしように目を見開いて、
「…そう、あなたが…」
少女は、そうつぶやいた。
———ん?
いまのはどういう意味だ?
「さようならトオル。また、会いましょう」
そう言って、立ち去ろうとする。
「ちょ、ちょっと待てよ!なに一人で納得してるんだよ。質問に答えろよ」
だが、立ち止まる様子はない。
「おい、お前…」
そう言った瞬間、
じろりと、こっちを睨みつけて振り返った。
「お前?…失礼な人ね」
「えっ」
「私の名前は“お前”じゃないわ。ついでにいうと、“キミ”でも、“アンタ”でもない」
ぐいぐいと詰め寄られて、
思わずたじろいでしまう。
「ましてや“お嬢ちゃん”だなんて呼んだ日には、……あなたのその眼鏡、ねじ切るわよ」
「なにそれ!?」
俺の身体の一部とも言える眼鏡を
ねじ切る…だと…?
なんて恐ろしいやつだ。
思わず手で、眼鏡をガードする。
「わ、わるかった。それはやめてくれ。でも、そこまで言うなら、名前を教えてくれよ」
「それはイヤ」
「っ!?」
即答。
なかなかふざけたやつだ。
「あのな、こっちが名乗ってるんだから、そっちだって教えてくれてもいいだろ」
「嘘よ」
「っ!?」
「ふふ。リアクションがかわいいから、ちゃんと教えてあげる。」
…くそう。どうも揶揄われているようだ。
完全に向こうのペースじゃないか。
ここはちょっと落ち着こう。
「ナギサ」
……え?
今なんて言った?
俺は耳を疑った。
聞き間違いかと思った。
でも、
彼女は、得意げに、
もう一度確かにその名前を告げた。
「私の名前は“ナギサ”よ———」
第3話に続く。
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