文芸同人誌即売会銃乱射事件

にゃんしー

文芸同人誌即売会銃乱射事件

 殺害予告を貰った。その相手は、おれだ。

『アシタジュウニジ、オマエノミケンヲジュウデウツ』

 という具体的なメール。件名はなし。メールのヘッダを追ったが、素人にはよく分からなかった。こういう類いの事件は昨今増えてるので、警察に相談すれば、サイバー犯罪に詳しいチームが犯人を特定してくれるだろう。逆に鷹揚な対応をされる事案も聞かないではなかったが、おれがもらったのは文面からして明確な殺害予告である。さきの元総理の銃撃事件でも、警備の不手際が世論に叩かれていた一幕もあり、世情的にも銃撃には敏感なはずだった。

 ポメラを抱え、家を出る。ポメラという、かわいらしい犬を思わせそうな名前のとおりちっちゃなデバイスは、昔風にいえばワープロである。もともとはサラリーマンが手軽なメモに使う用途として開発されたものらしかったが、セキュリティにうるさい昨今、うっかり紛失でもすれば機密事項がいくらでも漏れてしまうそんなデバイスが旧態依然とした日本のサラリーマンに受けるはずもなく、いまはあまりお金のないアマチュアの小説家のあいだでウケがいいらしい。おれもまだ売れていない頃からこのポメラのお世話になっていた。これを持って出かけるということは、原稿を書くということだ。明日は界隈でいちばん大きな文芸同人誌の即売会に参加することになっている。プロになってまでいまさら、という気分はないではないし、実際に編集者とか作家仲間から揶揄されることもあったが、おれの原点だし、明日はどうしても出たかった。

 十二時に銃で撃つ、というメールの文面が正直なものならば、おれは明日、文芸同人誌即売会で本を頒布しているところを狙われるのだろう。この界隈では最大規模の即売会とはいえ、文芸というクラスタ自体がささやかなものだし、運営している母体もいかにも素人仕事といったぐあいで、ミスや行き違いはよくあるし、ましてや警備になど手が回るはずもない。おれを狙撃しようと思えば、まったくのノーマークで文面にあったとおり「眉間」に銃弾を入れることができるだろう。いや、銃がなかったとしてすら、ちいさな果物ナイフで首を切られただけでもおれは死ぬ。あっけない。

 明日しぬんだ。いま書く文章がさいごになるかもしれない。と思えば、無料配布で付ける予定のわずかA4一枚の文章の「てにおは」にすら慎重になる。そこに書けるのはせいぜい千文字、おれはなにを書き残すべきだろう。しろい紙に刻まれた游明朝が血まみれになる場面を想像した。文芸同人誌即売会の会場にひびきわたる悲鳴。あの場所では「文学」しか売ってはいけないという。

 警察に行かなかった理由はふたつある。ひとつは、おれには犯人の目星がついていたこと。もうひとつは、おれは警察に行けるほど潔白な身の上ではなかったことだ。

 とりわけ文芸同人誌界隈で小説を書いていれば、本を売り買いしていくなかで横のつながりは増える。義理で本を交換しあうような、まったく生産的とは思えないつながりもないではなかったけれど、なかには小説を読んで本気の駄目だしをしあえるぐらい一生の友といえる仲間ができることもあったし、小説を出すたび小さな文字でみっちり埋まった感想の手紙を渡してくれるような熱心なファンとの出会いもあった。かのじょは最初、おれのファンだった。おれはそのころ、純文学の新人賞への投稿をはじめて十年近く経っていた。三十歳。小説家としては若くない。この界隈では「初めて書いた小説が受賞するぐらいでも才能としては並程度」と言われる。十年、およそ五十作近くを書き連ね、よくてせいぜい一次通過、受賞はおろか、地方文学賞の最終候補にも残れないという風体は、どうしようもなく才能のなさを示しており、かといって諦めることもできず、惰性のように代わり映えのしない小説を書いていた。文芸同人誌即売会への参加は楽しかった。みんな読んでくれる。感想をくれる。ただそれだけのことが、なにひとつ反応を返してくれない壁打ちを新人賞への投稿として繰り返している身からしたら、初めてテニスコートに出て相手と戦ったプレイヤーぐらいうれしかったと思う。そのなかで、かのじょに出会った。当時は女子高生だったか、けっして可愛くも美人でもなかったが、自分の商品価値をわかってるといおうか、セーラー服で文芸同人誌即売会に来ることもあった。やはりその姿はいい意味で目立つもので、机から身を乗り出して本を売ろうとする男たちに見向きもせず(小説を書く男たちは、モテない。モテないから小説を書くのか、小説を書くからモテないのかは分からない)、おれのブースにまっすぐ来てくれたのは、ちょうど電車でとなりの席にかわいい女の子が座ってくれたときのような承認欲求の充足があった。かのじょはくりっとした焦げ茶色の瞳をいっそう大きくひらき、おれをまっすぐに見据えて言った。

「ここにある本、ぜんぶください」

 おれがウェブの小説投稿サイトに連載していた作品を読んで好きになってくれたのだという。その作品は、一次通過作品数が大手ではいちばん多いことで知られる純文学の新人賞をド派手に落ちたものであったから、気恥ずかしいというより騙しているような気持ちになったが、率直に好きと言ってくれるのはうれしい。いろんな感想をもらったことがあるけれど、率直な「好き」を上回るものはないと思う。その言葉のまえでは技術のつたなさもストーリーの平坦さも、すべて免罪される。「でも、好きなんだもの」、なんと高揚させられる感想であろうか。そしてその言葉を、誰よりもまっすぐにぶつけてくれたのがかのじょだった。すぐに仲良くなった。文芸同人誌即売会に出るたび、かのじょが来てくれて、開場直後まっさきに駆けつけてくれたこともあり、台風があって来場客が少ない回には机をはさんで好きな表現をあつく語り合い、やがてブース内に入り店番してもらうこともあった。逢瀬の場所がかのじょの家に変わるまで、それほどながい時間はかからなかった。そして、しあわせな時間はそれほどながくはつづかなかった。

 かのじょが小説を書くようになったのだ。おれの小説を読んでるうちに自分でも書きたくなった、というのは、素直に喜んでいいのか分からなかったが、かのじょが書き始めたころの、小学生みたいなたよりない筆致は、ひとりだちする雛を見守っているようで愛おしかった。おれが主宰しているアンソロジーにかのじょを誘ったり、かのじょの小説ともいえない手製本の小品をおれのブースに置いて宣伝してやったこともあった。その本が閉場間際の投げ売りでようやく捌けると、おれたちは人目もはばからず抱き合って喜んだ。打ち上げでは高いものではなかったけれど赤ワインのボトルを入れた。

「どこで間違ったのかな」

 これはかのじょがおれに残したさいごの台詞である。正確には、かのじょがさいごに書いた小説のタイトルだ。おれはだんだんと書けなくなっていった。それはかのじょの小説がうまくなる速度ときれいに反比例していた。文芸同人誌即売会で本が売れる冊数も、おれのよりかのじょのほうがとっくに多くなっていたのは、机のうえに残る在庫の嵩を見るからに明らかだった。かのじょ目当てにブースを訪れるお客さんが増えた。おれがかのじょの本を推薦するときよりも、かのじょがおれの本を推薦するときのほうが増えた。かのじょの口調に籠もる熱をつめたく感じた。

「わたし、賞に投稿しようかと思って」

 そう言われたとき、おそれていたことが現実になった、と思った。おれは慌て、おれが絶対に出さないようなライトノベルの賞を「いまはこっちのが売れるから」と紹介するも、かのじょは「君とおなじ賞に出したい」と言ってはばからない。まだおれのファンだったころの、あるいは、生まれたてのヒヨコのような文章を書いていたころのかのじょの姿はそこになかった。「このまま賞を取れる」と現役作家が小説の添削をしてくれるサービスで太鼓判を押してくれたとおり、なにひとつ迷いのない重厚な文体は、行き末をはっきりと見据えたかのじょの姿そのものだった。

 文芸同人誌即売会はしばらく休み、原稿の執筆に集中することにした。家で書くときも、カフェで書くときも、となりには並んでポメラを叩くかのじょの姿があった。おれよりもかのじょのほうがずっと書くのが速くなっていた。かのじょの華麗なキータッチから逃げるように原稿を書いた。

 それが、おれがさいごに賞に出した原稿である。とりわけひどい出来だった。いまどきのフェミニズムを上澄みだけさらったテーマはうすっぺらく、書くことと書かないことの整理ができていない冗長な文体で、無理にウケを狙おうと散発的に入れたパンチラインがことごとく滑り、オチの直前に新しい登場人物があらわれるハードランディングっぷりで、筆ばかり焦り、まったく作品の客観視ができていない。かのじょの原稿も読ませてもらった。一枚目、いや、一行目から「住む世界が違う」と思った。言葉が光っている、そんな原稿を、商業作品以外で初めて読んだ。比喩・表現のすべてが、往年の芥川賞作家に勝るとも劣らない手応えで、抑制のきいた文体には淀みがない。なにより、人物だ。主人公は、文芸同人誌即売会に出ながら作家を目指しているしがないアマチュアだった。すぐにおれのことだと分かった。おれはこんなに駄目な奴だったのか、と、怒るよりもさきに、私小説がルーツにあるという純文学としての人物描写の細密さに舌を巻く。ずっと賞を必死に追い求めてきたおれの半生が、かのじょに話さなかったものも含め、すべて128枚の四百字詰め原稿用紙のなかにペン先で食んだ切り傷のように刻まれていた。もちろん作中で、彼は受賞をしない。ずっといっしょに書いてきた彼女とさいごには別れ、ひとりでも書いていこうと決める。ひとりの部屋の空気感がよく出ていた。あえて難をいえば、ハッピーエンドとして凡庸すぎるように感じたが、それも含めて主人公の凡庸さを現したかったのだろう。

 この作品は受賞する。それははっきりと分かったし、結果おとずれるおれたちの別離も、「書かずに書く」かのじょのうつくしい文章ぐらい明白だった。留めたかったのか、留めたいとすればそれはなんだったのか、目的は不明瞭なくせ、手段としてはたったひとつしかない。それは、小説を書き始めるときの感覚によく似ていた。あの天才作家をしてすら「最初に取り得る文章のパターンはいくつかしかない」と言わしめる。凡庸なおれにできることは、それしかなかった。小説を投函する日、おれの表紙と、かのじょの表紙をすり替えた。おれたちはまったく同じタイトルの小説を書いていたから、ペンネームと本名、住所、電話番号だけが互い違いになった。おれの小説がかのじょの小説として、かのじょの小説がおれの小説として、ポストに投函された。

 誰がそのことを責めることができる? おれは責められてもいないのに弁明している。たしかに、おれがデビューしたのは、かのじょの小説によってだった。しかし、二作目、三作目を出し、それらが評価され、ときに賞を取り、生き残ってきたのは、ほかならないおれの力によってなのだ。小説を書いているとき、いまも変わらずかのじょのタイピングに追われている。あのころと違うのは、そのようにして書かれた小説は、自分で書いたのではないぐらいの名作に仕上がっている点だ。あれ以来、かのじょには会っていない。一度、ウェブの投稿サイトに上がっている短篇を読んだ。おなじ人が書いたのではないと思うぐらい下手になっていた。おれたちの小説の表紙を交換することは、おれたちの人生を交換することに等しかった。

 と、そこまでを書いて、そろそろ返してもいいんじゃないかと思う。たったひとつ言えること、おれはかのじょを好きではなかったが、かのじょの書く小説が好きだった。明日の十二時だ。かのじょに、銃口を眉間に突き付けられ、おれはなんと言えばいいだろう。

 わからないでいる。さいしょに書かれるべき言葉のパターンは限られているが、さいごに書かれるべき言葉のパターンは、無限に多い。

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