第8話 「魂の揺らぎ ― 紬の記憶が色を持ちはじめる」

 その夜、メアリーは眠れなかった。

 寝台に横たわっても胸の奥がざわつき、呼吸をするたび肌の内側を擦られるような痛みが走る。十九柱の調律が静かに波打つたび、現実の時間が歪んで感じられた。


(……眠らなきゃ……でも……)


 まぶたを閉じると、すぐに“あの光景”が現れた。


 ――暗い路地。

 ――濡れたアスファルトの匂い。

 ――コンビニ袋を持ち、夜の帰り道を歩く女性。

 ――背後から足音。

 ――沈黙。

 ――刺突。


(やめて……もうやめて……!)


 叫んだつもりだったが、声は出なかった。

 代わりに、映画のように鮮明な映像が再生され続ける。

 紬が大学院の研究室で笑っている。

 大好きな家族との食卓。

 母の柔らかい声。

 父の大きな手。

 問題を解く速度の速さから「AIみたいだな」と教授に笑われた日。

 レポート提出で徹夜した夜のコーヒーの香り。


 そのどれもが鮮やかで、メアリー自身の記憶よりも色濃い。


(これは……誰の記憶?

 私? 紬? それとも……)


「姉上……?」


 微かな声が聞こえ、メアリーは顔を上げた。

 クラリスが扉の前に立ち、心配そうにこちらを見ていた。


「眠れないのですか……?」


「……眠ったら、紬が……あの日を私に見せるの」


「紬さん、ですか……?」


 クラリスは一歩近づこうとしたが、また“透明な壁”に弾かれた。

 その衝撃に思わず涙が滲む。


「どうして……私は姉上に触れられないんですか……?」


「クラリス……ごめんなさい……」


 メアリーは腕を抱え込み、膝を抱いた。


「紬の魂が……私に同化しようとしている。

 あの子の痛みが……全部、私に流れ込んでくるの。

 私が自分のままいられる時間が……少なくなってきている……」


「そんな……!」


(嫌だ……嫌だ……姉上が消えてしまう……)


 クラリスの胸が締めつけられる。


◇ ◇ ◇


 メアリーはふいに窓辺へ歩み寄り、夜空を見上げた。

 王都の上に薄い霧が立ち込め、月の輪郭が歪んでいる。


「クラリス……見える?」


「え……?」


 クラリスが窓辺に立つと、遠くの塔屋が揺れるように見えた。

 いや、揺れているのではない。光が“割れている”のだった。


「これは……?」


「十九柱が……動いているの。

 紬の痛みが強まるほど、この世界の“因果の結び目”が震える……」


(また誰かが嘘をついてる……

 また誰かが誰かを追い詰めようとしてる……

 許せない……)


 紬の声が、鼓動と同調する。


「姉上、お願いです……! 紬さんを抑えられないのですか……?」


「抑えようとすると……余計に痛むの。

 まるで、自分の心臓を握りつぶされるみたいに……」


(抑えないで……抑えたら消える……

 私は消えたくない……)


 紬の声が涙を含んで響く。

 メアリーは胸を押さえ、顔を歪めた。


「わたし……どうすればいいの……クラリス……」


「姉上……!」


 クラリスは涙を拭いながら言う。


「紬さんは……姉上の中で泣いているんです。

 守られなかった痛みと、理不尽への怒りを抱えて……

 でも、だからこそ姉上が必要なんです!」


「……私が……紬を支えられる……?」


「はい……! 姉上だけが、紬さんの“新しい世界”なんです……!」


 メアリーの胸が強く脈打つ。


(新しい……世界……?

 私は……また誰かと……

 生きてもいいの……?)


 紬の声が、一瞬だけ柔らかくなった。


◇ ◇ ◇


 だがその瞬間、別の光景が紬の記憶として再生された。


 ――大学院での陰口

 ――「デカメガネ」「ブス」

 ――噂がネットで拡散

 ――父親が抗議に動き、男子学生が逮捕

 ――逆恨み

 ――刺殺


(痛い……怖い……怖い……!)


 メアリーは悲鳴を上げるように胸を抱いた。


「っ……ああああ……!」


「姉上!!」


 クラリスは必死に抱きしめようとしたが、

 拒絶膜が強く張られ、彼女の身体が弾き飛ばされた。


「クラリス……近づかないで……!

 紬が……あなたを巻き込みたくないの……!」


「巻き込まない……? それは……!」


(奪われるのはいや……

 また失うのはいや……

 だから……近づかないで……)


 紬の声は、愛情と恐怖が混ざった悲鳴だった。


◇ ◇ ◇


 その夜、王都には奇妙な現象が多発した。


・嘘をついた商人が突然声を失う

・夫婦喧嘩をした家の窓だけ風が止まる

・罪悪感を抱えた兵士が原因不明の発熱

・議会塔の上で光が二度、点滅する


 いずれも小規模で、命に関わるものではない。

 しかし王都全体が――

 “王女の魂”に反応し始めている。


 黙示録はまだ姿を見せていない。

 だがその影は、確実に世界へ伸びていた。


◇ ◇ ◇


「クラリス……」


 メアリーが震える声で呼ぶ。


「私は……私でいられるの……?

 紬と溶け合って……どこまでが私なの……?」


 クラリスは涙をこぼしながら、


「わたしが姉上を繋ぎ止めます……

 どれほど世界が揺らいでも……

 姉上が誰であっても……!」


 その言葉に、紬の声が静かに揺れた。


(……妹……

 守りたい……

 今度こそ……)


 その一瞬だけ、メアリーの瞳から“紬の色”が消え、

 元のメアリーが戻る。


「クラリス……ありがとう……」


 だが次の瞬間、胸に鋭い痛みが走る。


(まだ……終わってない……

 世界の“偽り”が……満ちている……)


 紬と十九柱が同時に囁いた。


【調律:第二段階 準備】


 第8章は――

 黙示録の本格始動へ向けた“魂の崩壊前夜”となる。

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