食い千切って、星を見た

@kei_aohata

1-1【穴】

 夫が出勤するのを見送ったあと、すぐにスコップを持って庭へ出た。

 縁側から禿げた芝生の地面に降りると、濃い灰色の雲が頭上を覆っていた。まだ雨も降らないうちから湿気た匂いがする。

 我が家の庭は、玄関脇の百日紅の木と角のスチールの物置を除けば雑草以外ほとんどなにもない。殺風景なせいで広く感じるが、せいぜい軽自動車を二台停められる程度のスペースだろうか。その周囲を格子の柵が取り囲んでいるものの、錆びた鉄と鉄の間隔が広くて目隠しとしては少し心もとなかった。

 長靴を履いて軍手をすると、不思議と今日も一日がはじまる、という気持ちがした。朝食とお弁当を作って夫を送り出すよりも、これからする作業をわたしは日々の要だと感じている。そのくらい生活に馴染みはじめている。

 全身にぐっと力を込める。わたしは身の丈ほどもある大きなスコップの柄を引きずるようにして抱え、えいやと地面に突き立てる。先端が窪んだ地面に潜ると、じゃりじゃりした土の匂いと共に、手のひらから湿った感触が吹き出した。そうだ、この感覚。よそ事など考えさせまいとするこの感覚が、私に日々の手応えを感じさせているのだ。

 近くの小学校へ通う黄色い帽子が賑やかに縦列するのを横目に見ながら、ザクザクと庭の土をひっくり返していく。ひっくり返したら今度はそれを脇に避ける。避けた分だけ段々と地面が抉れる。スコップから零れた砂粒が円の中心部へ転がり落ちる。緩やかにカーブを描きながらも、穴底は見た目よりもだいぶ深い。猫一匹、犬一匹、それどころか子供ひとりくらいなら入れるかもしれない。試したことがないので確証はないけれど。

 夫が出勤してから帰るまで、家事をする以外はこうして穴を掘っている。晴れの日は当然のこと、風の日も、雨の日も。そうした生活をはじめてもう一週間が経つ。

 穴はみるみるうちに大きくなり、平凡で穏やかな住宅街の一角に直径一メートルほどの窪みが口を開けた。子供たちは通りすがりにクスクスと笑い、露骨にはしないものの大人たちが気味悪そうに噂しているのも薄々わかっている。そして何よりわたし自身もこれの存在を異様に感じはじめていた。猫一匹、犬一匹、もしくは子供がひとり。それらが収まっていく様を想像してぞっとする。それくらい大きくなってもなお、夫はまだ足りないというのだ。

 月曜日の朝、埃にまみれて茶色くなった汗を拭いながら掘り続ける。重みに身体がふらつき、長靴の足でどうにか支えた。薄いゴムがべったりと地面を踏むと、足の裏側から何かを踏みにじるような嫌な感触がする。これは恐れかもしれないし、あるいは緊張かもしれない。わたしはまめの潰れた手でスコップを握り直した。

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