ジョンソンさん

柊木ふゆき

ジョンソンさん

 ジョンソンさんがなぜジョンソンさんと呼ばれているのか、同僚や部下はおろか、友人と呼べるかもしれない人々でさえ、知らない。それなのになぜか、みんな揃って彼を「ジョンソンさん」と呼ぶ。彼の名前は吉田孝よしだ たかしというので、名前をもとにしたあだ名というわけでもなさそうだ。ジョンソンさんの風貌はというと、あまり「ジョンソン」らしくない。取り立てて語るところのない五十がらみの男性で、清潔感はあるが、人の目を惹くような魅力はない。その顔立ちは、個性がないわけではない。遠目で見かけても、「ジョンソンさんだ」と気付かれるだけの特徴的な何かがある。それが何なのかはわからない。ジョンソンさんを知らない人が彼のそばを通って、次の日に顔写真を見せられても、誰も思い出せないだろう。

 ジョンソンさんは若いころから同じ市役所勤めだが、思い出せる限り家族と呼べる人がいたことはない。果たして地元の人間なのか、よそからやってきたのかも、誰も知らない。だが、同じ課に配属されたことのある人間は、彼がどこに住んでいるのかは知っている。職場から歩いて十分程のところにあるマンションだ。右隣は畑で、反対側はそこから駅までずっと住宅街が続いている。彼はこのグレーのマンションに一人で暮らしている。役所とマンションを繋ぐ一本道の中程にはスーパーもあり、なかなか便利なところだ。しかし、駅は遠い。このあたりの人間は、少なくとも一家に一台、成人ばかりの家族なら一人一台車を持っているが、ジョンソンさんは持っていない。もちろん、そのマンションにも駐車場はある。それに、近隣には貸し駐車場も多い。マンションからそれほど遠くないところにある畑も、高齢の持ち主によってつい最近、月極の駐車場になったところだ。早速車がいく台も停まっている。敷地を囲う黒いフェンスには、契約者募集の広告が貼り付けられている。

 近所のアパートに暮らす部下の加茂かも君は、それなりの割合でジョンソンさんと鉢合わせる。ふたりは同じスーパーで買い物をするのだから、当然かもしれない。加茂君は三十を越えたばかりで、いよいよ頼もしさを感じられるようになってきたと、ジョンソンさんの同僚の神谷かみやさんは言う。彼は隣の市出身で、家族もそこに住んでいる。新卒で就職したばかりのころは、それこそ毎週のように実家に帰っていたが、今では二、三ヶ月に一度になってしまった。しょっちゅう、母親から電話がかかってくる。彼の住むアパートにも、もちろん駐車場がある。アパートに向かい合う形で、真ん前の敷地に横並びで車が停まる。加茂君は車を持っている。今年ついに、引っ越しのときに一緒にやってきた軽自動車から、白の乗用車に乗り換えた。五人乗りで、シルバーに青のエンブレムが美しい。まだ新車の匂いがする。「まだ運転が怖いんです」と彼が恥ずかしげに言うと、彼の上司たちは競って彼にアドバイスをする。大抵は結婚していて、子供がいる。当然、加茂君もいずれはそうなるのであり、新車はそのための第一歩だと、彼らは思っているに違いない。ジョンソンさんは車も家族も持っていないので、何も言わない。

 ジョンソンさんは、決して侮られているわけではない。しかし、尊敬を集めているのでもやはりない。


 さて。ある日曜日の午後のことである。山手に歩いて二十分程のところにある駅前の商店街に、加茂君の行きつけのカフェがある。加茂君の学生時代に比べ、ここ数年でぽつりぽつりと、現代的な個人店が目立つようになってきた。彼よりも十か二十ほど年嵩としかさの、大抵は地元の人間が経営している。加茂君行きつけのこのカフェもそんな個人店のひとつである。月に一度は訪れる。その日も、彼は昼下がりの散歩ついでに、通い慣れた店に入った。店主は、若く見えるがおそらく四十代も半ばの男性で、眼鏡をかけた顔にはホクロが多い。痩せ気味で、顔立ちはさっぱりとし、髪も細く柔らかい。身長が高いのと、肩幅がそれなりにあるので、弱々しくは見えない。冬場はいつも、クリーム色のスウェットかニットセーターに、深い茶色のコーデュロイのパンツを履いている。店長以外はみな若い。二十そこらの人間ばかりだ。それもそうだろう、このあたりでおしゃれなバイト先なんてそうそうないのだから。休日の午後は当然混み合う。だが、一人客であれば、運が良ければ空いたカウンター席などに滑り込むことができる。席がない時は、テイクアウトでコーヒーだけ買って帰る。その日の加茂君はついていた。日曜日にはめずらしく、客はまばらで、カウンター席にひとり、四人がけの席にふたり、そして奥のふたりがけの席に男性が一人いるだけだった。

 彼はいつものごとく、扉の取っ手を握ったまま、しばし店内を眺め、その男性に視線が釘付けになる。

 ジョンソンさんだ!

 紛れもなく、ジョンソンさんである。役所で働いている時とあまり変わらない格好だ。深い緑のセーターに、黒のパンツ。いつも持っている黒革の鞄は持っていない。彼は通路側の席に座り、何かを飲んでいる。テーブルの上には、コーヒーカップ、水の入ったグラス、手を拭いたウェットティッシュ以外、何も乗っていない。意外にも店に馴染んでいる。

 「おひとりですか?」

 若い店員が笑顔で声をかけてくる。古株のひとりで、おそらく加茂君のことを覚えている。

 ジョンソンさんから一番離れた、窓際の席に通されて、彼は壁側のソファに座った。ちょうど斜め向こうにジョンソンさんが見える。思わずこの席を選んでしまったことに、多少の羞恥心を感じ、彼はジョンソンさんから顔を背けた。

 この地域の住民なら誰でも知っているような店だ。田舎とも都会ともいえないようなベッドタウンで、新しい店はすぐに知れ渡る。ジョンソンさんが来たって、なにもおかしいことはない。ないのだが、スタイリッシュなカフェにいるジョンソンさんというのは、なんだか絵柄の違う漫画にいるみたいだ。そのうえ、ここの店主はコーヒーに凝っていて、ひとりで来る客の多くが、それが目当てである。ジョンソンさんはコーヒーが好きなのだろうか? 個人のコーヒー専門のカフェを休日に巡るジョンソンさん。考えてみるだけで、加茂君はなぜか叫び出したいような気持ちになった。

 役所では、昼食に弁当を頼むことができる。朝一番に電話で注文して、大体十一時前後に届けられる弁当を、ジョンソンさんは毎日食べる。他愛のない世間話の一環として、ジョンソンさんに何を注文したのか訊ねたことがあった。シャケ弁か、唐揚げ弁当あたりだろう、と無意識にあたりをつけながら。ジョンソンさんは、抑揚のない声で「いつも日替わりです」と答えた。

 なるほど、日替わりなわけか。加茂君は思った。一番個性が出ず、考える労力も必要ない選択だ。ジョンソンさんが、「加茂君は?」とは訊ね返すことはない。ジョンソンさんから、仕事に関すること以外の質問が投げられることはほとんどない。他の上司なら、「加茂君はどうなの?」「パン買ってるの? 身体に良くないんじゃないか」などと、お節介が続くことだろう。加茂君は、自分が年上の男性から可愛がられやすい性質だというのを十分理解していて、まんざらでもないと思っている。仕事をする上で物事がスムーズに進むし、不躾な質問をうまくかわすのも苦手ではなかった。

 ジョンソンさんは仕事が丁寧で、そのうえ早い。加茂君もそうだが、彼の同僚たちのようなせっかちな中年の男性には、そのことが何より重要なのだ。寡黙で盛り上がりにかけるとはいえ、簡潔で迅速な返答を期待できる。それに、飲み会への出席率も高い。ジョンソンさんは、特別好感を抱くような長所がないかわりに、疎まれるような欠点もないのだ。

 そう、そんな無色透明なジョンソンさんが、コーヒーが好きだとしたら。それもこだわりのコーヒー通で、豆の挽き方なんかにまでうるさくて、万が一にも店主に蘊蓄をたれるような人だとしたら? いや、さすがにあのジョンソンさんがそんなことをするわけがない。しかし、この洒落た店に来るなんて。加茂君の頭の中はいま、普段気にもかけない、面白みのない上司のことでいっぱいだった。彼は一体何を注文したんだろう。この店にはいろんな種類の豆が置いてあって、メニュー表にはそれぞれの特徴が簡潔に記されている。加茂君はコーヒーに詳しくないので、いつもオリジナルブレンドコーヒーを注文する。豆のことはわからないが、この店のコーヒーは美味しい気がするのだ。もしかしたら、店の雰囲気に飲まれているだけかもしれないが。彼はいつもタブレットを持参していて、それで事前にダウンロードしておいた映画を観るのが好きだった。あんまり混み合っているとゆっくりできないが、コーヒーを飲み終わるまでの間、ヘッドホンをつけて映画の世界に浸るのだ。その日も、彼のカバンの中にはタブレットが入っていた。しかし、そんなことも忘れてしまって、物思いに耽っている。

 加茂君にこだわりがあるとすれば、それは映画だった。幼い時分から、父親の影響で洋画が大好きだった。小学生の頃には父親に連れられて、映画館で字幕映画を観ていた。それが自慢だった。他の子どもはアニメ映画やアクション映画が好きだったし、海外の映画は吹き替えで観ている子がほとんどだった。大学生のころは、小さな映画館でしか上映されないような作品を鑑賞するのに凝って、毎週のように観に行っていた。映画サークルには入らなかった。彼はそんなものを軽蔑していたのだ。父親世代の観る映画に詳しいのは、上司に気に入られる要因の一つだった。特に、小難しい映画の話は受けがいい。理解している必要も、持論を展開する必要もない。ただ観たことがあればそれでいいのだ。歳の近い人間と話をするよりずっと気が楽だ。たとえ彼らの話が見当違いだったとしても、穏やかな気持ちで許すことができる。同級生にはそれができない。

 どんな人間にだって、ひとつやふたつ、こだわりがあったって不思議ではない。むしろその方が人間らしいと言えるかもしれない。ジョンソンさんがコーヒーに凝っていることの、何が悪いと言うのか。でもジョンソンさんに限っては、やっぱりなんだか嫌だった。そう、彼はどちらかといえば、背景のようなものなのだ。なければ困ってしまうが、殊更に目立ってはいけない。そうであってもらわなければ困る。ジョンソンさんには日替わり弁当を毎日食べてほしいし、スーツの色は常に紺色かグレーがいいし、行きつけの美容室でいつも同じ髪型にしてほしい。週末の映画番組でしか映画を観ないでほしいし、小難しい監督の代表作が放送されて、「なんだかわからないが、おもしろかったな」と思ってそのまま忘れてほしい。そして、コーヒーはブレンドコーヒーか、せめてアメリカンであってほしい! 特色あるのは、あだ名だけで十分なのだ!

 彼がそんなことをぐるぐると考えている間に、彼の注文したブレンドコーヒーは少し冷めて、ジョンソンさんはついに席を立った。ジョンソンさんはポケットから黒い折り畳みの財布を取り出し、レジへ向かって遅すぎず速すぎない歩調で歩いて行く。彼は席の番号とキューアールコードの印刷されたプレートを店員に差し出して、会計をする。加茂君は、じっとその様子に目を凝らし、聞き耳を立てる。レジに表示された文字は読めない。だが、店員の声はよく聞き取れた。

 「オリジナルブレンドコーヒーが一点で、五百五十円になります」

 やった! 加茂君は、背もたれに身を預けた。緊張で肩がこわばっていたのだ。会計を済ませ、店を出るジョンソンさんには、もはや関心がなかった。彼は再び穏やかな気持ちになって、やっとタブレットのことを思い出した。コーヒーを一気に飲み干し、おかわりを注文する。新しいコーヒーが届くまでの間にタブレットを取り出して、ヘッドフォンをつなげ、映画を選んだ。昨日の晩に半分まで観たものだ。彼と彼の父親の好きな監督の最新作で、登場人物はみな仏頂面で、希望がなく、深く暗い物思いに沈み、あまり喋らず、口を開いたかと思えば、ぽつりとその思考の切れ端でしかないことをこぼすだけ。そんな映画である。

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ジョンソンさん 柊木ふゆき @daydreamin9

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