第3話 もう一人のレオ
七色の光が視界を覆った次の瞬間、目を開けると――。
天井が、やけに低い。
まるで王妃様が趣味で離宮の庭に造らせた、あの「庶民の家」みたい。
鼻をくすぐるのは、草を乾かしたような青い匂い。
麦の収穫は、まだ先のはずなのに……。
……夢? それとも、死後の世界?
「セリ、起きた?」
のっぺりとした顔立ちの女性が覗き込んできた。
明るいブラウンの髪はくねくねと波打ち、眉は太く、口紅は少し濃いローズ。
肩が大きくせり出した奇妙な上着に、舞踏会でも映えそうな大ぶりのイヤリング。
「――無礼ね。どなた?」
思わず王国式の言葉遣いが出ると、その女性は眉を釣り上げた。
「幸子さんに向かって、その口のきき方は何? 今はソース顔が流行ってるけど、私はね、あっさりした醤油顔なの!」
――醤油? 顔? 王国では聞いたこともない言葉だ。何を言っているのか、まるで分からない。
見慣れない小屋の中で、私は混乱するばかりだった。
外からは鍛冶屋のように鉄を叩く音、人々が行き交うざわめきが聞こえる。
王宮には決して届かない、庶民の生活音。
「えーっと、ここは……どこかしら?」
すると、幸子さんとやらが胸を張って言った。
「ここは東京の中心地、古書と学生の街! あんたが寝てるのは、昨日張り替えたばかりの畳の部屋。いい匂いでしょ? 瀬戸内の島の分校が廃校になったから、今月から私の家で暮らすことになったんじゃない」
……これは夢じゃない。黒潮セリという少女の記憶が、私に重なっていく。この女性は、母の妹の――
「幸子おば様」
「幸子さん。幸せな子と書いて、さちこさん。『叔母さん』呼びはやめてよ。私、まだ29なんだから」
「『まだ』? 『もう』じゃなくて?」
だって。29歳といえば、王国では既に“落ち着いたご婦人”の域だ。
貴族の婚姻は早い。29歳は、もはや――
「あんた今、『後妻枠』って言った!? 喧嘩売ってんの!? 明日が転校初日でしょ。さっさと着替えて降りてきなさい!」
私は、掛け布を押しのけて立ち上がる――つもりだった。
あら? ベッドじゃない。
まさか……床に寝かされていたの?
「最下層の使用人よりもひどい扱いだわ……」
「はい!?」
「幸子さん、侍女を呼んでもらえるかしら? 洗顔用の手桶をお願いしたいの」
「セリ、あんた豆腐の角に頭ぶつけた?」
「とうふ……それって硬いの?」
「はぁ~~っ。寝ぼけるのも大概にしなさいよ? 私、仕事あるんだから」
「……あなた、職業婦人でいらして?」
「そうよ。あいにく独身でね」
「……行かず後家なのね。仕事をしているなんて、立派だわ。『幸せな子になりますように』と願いをかけたご両親の愛情をちゃんと――」
「ちょっと待った! 『幸せな子』の説法ならやめてちょうだい! 今まで『君を幸せにする』って言った男どもは、みんな私の元から去って行ったんだから」
「説法だなんて。素敵な名ではありませんの。――それに、誓いの言葉を容易く破るなんて。どちらの家門の方ですの? わたくしが一言、苦言を呈しましょうか?」
「呈さなくていい! それより
――レオ?
その名前を聞いた瞬間、胸の中をヒュッと風が通り抜けた。
呼吸が止まるほどの痛みと、懐かしさが同時に押し寄せる。
まさか、そんなはずはない。
でも、あのとき。彼の魔法に包まれていた気がした。もしそうなら――。
ダダダダッ、ダン!
転がる勢いで急な階段を駆け下りると、寝グセのついた黒髪の少年が呆れたようにこちらを見ていた。
私は、彼に近づきながらも、言葉に詰まる。
レオ? レオ……なの?
レオナールは黄金色の髪に、淡い青色の瞳をしている。
目の前にいるのは、彼のはずがないのに――
黒髪の少年の眼差しが、どこかレオに重なる。
もしかしたら、これは、母が最期に見させてくれた夢なのかもしれない。
ふと右手の人差し指に視線を落とすと、指輪が一瞬七色の光を放ち――この世界に私を縫い止めるように鎮まった。
空間の輪郭が、先ほどよりずっと、濃くなっていく。
それにしても、彼が着ている服装の奇妙なこと。
――白シャツに青いズボン。
まるで厩舎係の少年が着るような、簡素な作業服だ。
「パジャマのままって……年頃の男女って自覚、ないのかよ?」
「レオナール……若公爵」
思わず口にすると、彼は目を丸くした。
「お前もか! てか、なんで俺の
「玲央って
彼の名は「
幸子さんの家の隣に住む、同い年の男の子。
日本人離れした華やかな顔立ちのせいで、同級生から「若」「殿」、そんなふうに呼ばれているらしい。
「玲央、ごめんねー。うちのセリが変なこと言って。まだ、時差ボケみたい。島時間で生きてきたからさ、大目に見てやって」
幸子さんが笑いながらエプロンを外す。
「じゃ、私は仕事行くから。あんたたち、朝ごはん食べたら制服取りに行くんでしょ?」
「制服?」
「そう。セリの分、昨日届いたって。玲央が案内してくれるから」
幸子さんは、彼のことを「玲央」と呼ぶようだ。
だったら、私も――許されるのかな。
「……ありがとう、玲央?」
『
一瞬、馴れ馴れしかったかなって心配したのに。
「いや、別に。ついでだし」
そう言って、視線を逸らす玲央をみて、途端に嬉しくなった。
勇気を出してみてよかった。
拒まれないことが、こんなに嬉しいことだなんて!
思わず涙ぐんだ私に、玲央がたじろいだ。
「とにかく、顔くらい洗えよ」
洗面所に案内されると、水道の蛇口から勢いよく水が流れ出した。
すごい……。
宮殿の庭園にある噴水とは違って、優雅さは皆無だけれど。
ミルクのように甘やかな香りがする石鹸は、気に入った。
後に知ったことだけれど、これは古代オリエントの女王が愛したという高級品らしい。夜帰ってきた幸子さんが半分になった石鹸を見て、私の使用を禁じたほどだ。
ちなみに、この世界の「お風呂の作法」を覚えるまでは自宅での沐浴を許されず、庶民が通う「銭湯」という公衆浴場にデビューを果たすことになった。
肌を見せることに抵抗はないけれど、見知らぬ人と肩を並べて自ら身体を洗う日が来るなんて。
本当に得難い経験だ。
話は戻るけれど、田舎の領地といえども伯爵令嬢として育った私は、自分で顔を洗ったことなどない。
だから――まるで水浴びをしたように全身が濡れてしまった。
「……おい。風呂じゃないんだぞ、ここは!」
呆れながらもタオルを差し出してくれる玲央。
言葉とは裏腹に、その仕草は優しい。
私が、もう一度見たかったもの。
自然体で、温かくて、私の世界をじんわりと照らしてくれる笑顔。
玲央の言動一つひとつが、幼かった頃のレオを想い起こさせる。
もう二度と叶わないと思っていた、「レオ」との時間。
玲央といると、まるで昔をやり直しているような気分になる。
お母様。
ただ呼び名が同じなだけで、玲央はレオではないけれど。
これが夢だと分かっているけれど。
もう少しだけ、この幻の世界に。
あと少しだけ――彼の隣にいても、いいかしら。
――パサリ。
「お前……頭おかしいんか? なんでパジャマを脱ぐんだよ!」
「え? 玲央って……侍従じゃなかったの?」
「俺、男子! お前、女子!」
「だからなあに?」
「男の前で、肌を見せるんじゃねぇ! ……ったく、姉ちゃんで見慣れてるからいいけど。他の男の前でやんなよ?」
「玲央ってば、耳まで真っ赤。怒らないでちょうだい。それとも……照れてるの?」
「ばっ! そういうことは、いちいち言わなくていーんだよ!」
「言わなくてどう伝えるの? ……私、魔力がないの。テレパシーとか無理だから」
「お前、ほんとどうしちゃったのよ」
王国と昭和の常識が、ぶつかり合う。
なのにその衝突音は、なぜか優しい。
王宮では常に監視の目にさらされ、人に弱みを見せることなどできなかった。
魔力なしの私は、特にそうだ。
肩ひじ張って、必死に淑女の仮面をかぶっていた。
そうしないと、レオナールのそばにいれないと思ったから。
――でも、ここでなら。
素顔の私でいても、許される気がする。
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