[エッセイ]スペイン・セビリヤに滞在していた頃
レネ
🎸
1、マリーという女の子のこと
私はわりと女性にだらしない。
今まで何人もの女性と付き合ったのが、その証しだ。そしてマリーというのは、私が唯一付き合った金髪の女の子のことだ。
私は当時19歳で、スペインのセビリヤという町に住んでいた。マリーは、とあるスペインの地方都市からセビリヤにバカンスでやってきて、私と同じ宿に泊まっていた。姉と、2人の友人と、女の子4人で来ていた。まだ17歳だった。
金髪の女の子というと、大柄な子を何となく想像するかもしれないけど、マリーはいたって小柄で、細かった。とても繊細な印象で、人知れず咲いた花のように控えめで、その点ではあまりスペイン人らしくなかった。
私はその頃、セビリヤ大学のスペイン語クラスに通っていたのだが、おなじコースにいた、私以外の唯一の日本人、Tさんとその女の子たちとよく6人で、映画を観に行ったり、街をそぞろ歩いたり、川辺を散歩したりと、のんびりとした交遊を楽しんでいた。
そんなふうに過ごすうち、なぜか私とマリーは親しくなり、他の2人の友人も姉も認める正式の彼女のボーイフレンドということに私はなっていた。
ある夜、町の中心を流れる川辺を散歩している時、マリーは「寒いからもっと私にくっついてよ」といい、私は初めて彼女を抱きしめた。
Tさんとマリーと、なぜだか覚えてないけどもう1人のマリーの友人と私の4人で、私たちはホテルの私の部屋に戻り、4人寝転んで話をして過ごした。そのうちに私とマリーが、Tさんともう1人の子がくっついて寝る形になり、その夜はそのまま何もなく4人寄り添って静かな一夜を過ごした。
その数日後、バカンスが終わるというので、マリー以外の3人は地元に帰り、私はマリーと一緒に2人部屋に移った。そして1週間くらい、毎日ぶらぶらして、夜は部屋で一緒に寝るという生活をしていた。
でも、私も彼女もそんなにぷらぷらばかりしているわけにもいかない。
彼女は列車で地元へ帰って行った。
私は、寂しかった。私は生まれて初めて、「女性と別れる」という経験をその時したのだと思う。それも互いに想いあったまま。
私はヨーロッパの映画によく出てくるようなセビリヤの駅で、彼女を見送り、列車が見えなくなると、人目を憚らず泣いた。
まさに、号泣というにふさわしかった。
今、マリーはどうしているだろう。
僅かに残った何枚かの写真は、今も私のアルバムの奥にしまってある。
マリー。金髪の女の子だった。
2、スペインの田舎の子供たちへ
それから少しして、セビリヤ大学の夏期講習受講生向けの遠足で、アルコス・デ・ラ・フロンテーラという町に行った。それはスペイン南部の都市・セビリヤよりさらに南に位置する小さな町で、バスに揺られる、のどかな、ちょっとした遠出だった。
100人か、200人位いるスペイン語科の受講生の中で、日本人は私を含め2人だけだ。あとはドイツ、ベルギー、オランダ、アメリカ、カナダなどからの留学生だった。
現地に着いてお昼を食べた後の自由時間、私は皆から離れ、1人で街中を散策した。スペイン南部の家屋は皆白壁のこじんまりとしたもので、その日は天気も良く、青い空とのコントラストが実に美しかった。
私は吸い込まれるように家々の間を歩いていた。と、突然子供たちの一団と出くわした。上は10歳位から、下は4、5歳位までの可愛らしい子供たちだった。
私が写真を撮ってあげるよ、と合図してカメラを構えると、1番大きい10歳位の女の子が素早く皆を集め、すぐに7、8人の塊ができた。私は白い背景に少しだけ青空が入るよう工夫しながら2、3枚の写真を撮った。
「写真を送ってあげよう。自分の住所分かる?」
現代の感覚では全く不審者の振る舞いだが、その頃はまだ彼女らにとってカメラ自体が珍しかったし、少しも不自然ではなかった。子供たちも、ひどく喜んでいた。
暫く日にちが経って、現像した写真を見ると、なかなかいい写真だった。控えめながら生き生きとした子供たちの表情もよく写っていたし、背景の白と青も良かった。
私は簡単な手紙を書き、その少女が教えてくれた住所に写真を送った。
読者諸兄姉は、子供たちからお礼の手紙でも来たか、と期待されるだろうか。
実は私はその頃、セビリヤでの講習が終わったらバルセロナに住まなければならず、まだバルセロナの住所も決まっていなかった。たとえ決まったところで、私はペンションを転々としていたから、自分がいつ、どこに移るか分からないのだった。
「日本人の旅行者より」
それが手紙の差出人の住所氏名となった。
あの写真は、子供たちの手に無事届いただろうか。
今思うと、スナップ写真のような、懐かしい人生の一場面である。
3、ポルトガル幻想
セビリャに住んでいたころ、ほんの2、3日ポルトガルに出たことがある。
当時、ビザがないと、スペインには3ヶ月までしかいられない。それでとある日本の友人と、バスでポルトガルに行った。バスボートにスタンプを押してもらえれば用は済む。国外に出た証拠があれば、また3ヶ月スペインにいられるわけだ。気楽な、安い旅だった。
随分揺られたと思う。いよいよポルトガルに入るまで、意外に長い旅になった。
そしてバスから降り、いよいよ通関という時、日本人はかなり信用されていたらしく、むこうはチラとパスポートを見るなり、はいどうぞ、と通してくれた。通してくれたはいいが、パスポートにスタンプさえ押さないので、わざわざスペイン語で、記念にスタンプをくださいと頼まなければならないのだった。
乗客全員の通関が終わると、再びバスは出発する。
ここからが良かった。ポルトガルの田舎町をバスは延々と走る。窓外には、さわやかな青い空と、白くて可愛らしい田舎の家々が続く。うかつにもカメラを持って来なかった私は、友人のカメラ借りてその風景をフィルムに収める。運転手も心得たもので、特に美しい場所や、黒いシルクハットのような帽子をかぶった老人たちがカードに興じている小路などではわざわざバスを止めて乗客の写真撮影をのんびり待っていてくれるのだ。
私は見たこともない貴重な写真が何枚も撮れて、とても嬉しかった。
バスはポルトガルのベージャという田舎町に到着した。ここが終点である。
私と友人は、小さな民宿に泊まることにして、さっそく街を散策した。
甘かった。優しかった。とろけそうだった。
道を聞いても、食事をしても、コーヒーを飲んでも、この人々の優しさと親愛の感覚は一体何なのだと思わされた。本当に、落ち着く、親しみのあふれる街だった。写真もたくさん撮った。この写真は、思いがけず、私の一生の宝物になるだろう。
夜、ベッドの中で、現像代も、プリント代も、全部俺が出すから、というと、友人は、いいよ、俺もたくさん撮ったし、俺が出すから。気にしないで。と、いってくれた。
そして約2日間をそこで過ごし、セビリヤに帰って来たわけだが、セビリヤでの夏期講習の終わった私はバルセロナに戻らなければならない。
写真は現像したらバルセロナに送るから、住所おしえてくれ、という友人の言葉を信じて、私は1週間後、バルセロナへ発った。
この頃の私の本拠地はバルセロナで、私はバルセロナの語学学校の新学期に臨んだ。
しかし、気になるのはポルトガルの写真である。
しかし友人に何度手紙を書いても返事はなかった。私はセビリヤに、辻谷さんという親友がいたので、彼に尋ねると、その友人はマドリードに移ってしまい、住所も分からないということだった。
何てこった!
以来40年間、私はその友人に会えず、写真も手にしていない。
ポルトガルの遠い懐かしさは、私の記憶の中だけに残されている。
今はその友人の名前も忘れてしまったが、
もしこれを読んでくれたら、今からでも遅くない、あの懐かしい写真を送ってくれ!
心底そう叫びたいのだ。
おしまい
[エッセイ]スペイン・セビリヤに滞在していた頃 レネ @asamurakamei
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