Galactic Waltz  Dr.アインとデブリの主

桃馬 穂

第1話 10億クレジットと神の設計図

 宇宙は、音のない廃墟みたいな顔をしていた。

 フリンジ・リングと呼ばれる外縁軌道には、役目を終えた船体やステーションの骨組みが、錆びたレコードのように何層にも重なっている。かつて誰かが乗っていたはずの居住ブロックも、今はただの金属と氷と真空の塊だ。そこを抜けていくたび、ゼノはいつも、自分の人生も似たようなものだと考えた。

 ゼノの愛機ハイ・デブリは、その名にふさわしくボロボロだった。片側のマニュピレータは油まみれで、姿勢制御スラスターは時々死んだふりをする。船体を叩く微小デブリの音が、安物のジャズのドラムみたいに、間の抜けたリズムで響いていた。

 「……よし、まだ死んでねえな。」

 ゼノは操縦席の計器をひととおり眺め、息を吐いた。酸素リサイクルの警告灯は黄色のまま点滅している。口座残高のホログラムは、見慣れた赤字を静かに示していた。

 「帰ったら、まずツケの整理だな。で、あのレプリカントの野郎に、ちゃんと分割の相談をして――」

 自分で言って、自分で苦笑する。

 Dr.アインは、分割という概念にあまり興味がない。彼にとって、借金は数値でしかなく、数値はゼロかゼロ以外のどちらかだった。ゼノは、そのどちらでもない「なんとかなるさ」という種類の考え方で生きている。

 ジャンクヤード・シティの灯りが、フロンティアの闇の向こうに滲んで見え始めた。砕けたステーションの骨組みを継ぎ接ぎして造られた都市は、遠目には一つの巨大なゴミの塊に見えるが、近づけばそこに人の暮らしが貼り付いている。違法改造されたドック、酒場、臓器屋、メカ屋、そして、レプリカント専門の闇診療所。

 「ただいま、ゴミ山。」

 ゼノはそうつぶやき、《ハイ・デブリ》をジャンクヤード・シティの第七ドックに滑り込ませた。着艦シークエンスの途中で左前脚の油圧が抜け、船体ががくんと傾く。

 「おいおい、ここで死ぬなよ……修理代、誰が払うと思ってんだ。」

 ブレーキスラスターを無理やり吹かし、金属同士が擦れる嫌な音を聞きながら、なんとか固定アームに機体を引っ掛ける。ドックの空調が作動し、薄汚れた空気が流れ込んできた。

 エアロックが開くと、機械油と酒と焦げた何かの臭いが、一度に鼻を刺した。ゼノは肩をすくめながらタラップを降りる。作業服の裾は破れ、ブーツのソールは半分剥がれかけている。

 借金は増え、船は壊れ、睡眠は足りない。

 それでも、ミシェルがこの街のどこかで自分の帰りを待っている、という事実だけが、ゼノをギリギリ人間の側に留めていた。

 まず向かうべき場所は決まっている。

 地下三階、照明不良、冷蔵庫のように寒い廊下。その一番奥に、レプリカント医師の診療所がある。

 ジャンクヤード・シティの喧騒を背中に押されるようにして、ゼノは薄暗い階段を降りていった。

     *

 診療所のドアは、今日も半分だけ開いていた。

 中からは、工具のかすかな音と、合成麻酔の匂いが漏れている。

 「おーい、先生。患者の生存率と、俺の残高のどっちが危ないか、診断してくれよ。」

 ゼノが軽口を叩きながら中に入ると、Dr.アインは振り向きもしなかった。手術台の上には、人間のサイボーグが横たわっている。腹部の装甲が開き、その下にある灰色の疑似筋肉と、さらに奥のメカニカルな骨格が露出していた。

 アインの手は正確だった。レプリカント特有の無駄のない動きで、細い金属の糸を神経束に繋ぎ込んでいく。彼の白い指先からは、血も汗もこぼれない。代わりに、冷たい光だけが機械の内部を照らしていた。

 「勝手に入るな。消毒の意味がなくなる。」

 アインはそう言うと、ようやく横目でゼノを見た。虹彩は人工石みたいな淡い色をしていて、その中に数字のような光が瞬いている気がする。

 「お前の残高は、今日のこの患者より危険だ。少なくとも、こいつは支払いの見込みがある。」

 「ひでえな。俺だって、明日には稼ぐ予定だったんだよ!」

 「予定は、統計に含めない。」

 レプリカントらしい返事だった。

 ゼノは壁にもたれ、タバコを取り出しかけて、アインの視線に気づいてやめた。

 「で、修理だ。ハイ・デブリの脚がまた死にかけた。あと、酸素循環も――」

 「見れば分かる。」

 アインは手術を終えると、手袋を外し、簡素な消毒を済ませた。サイボーグの男は、安物の麻酔からゆっくりと覚めつつある。アインは看護用の古いドローンに後処理を任せ、ゼノのほうに近づいた。

 「脚の油圧系統、右側を丸ごと交換だな。循環系は、あと二回までは誤魔化せる。」

 「二回って、そんな細かい数字が出るのかよ。」

 「出る。お前の操縦パターンと、船体の劣化率からの推計だ。」

 アインはモニターに何かを打ち込み、修理見積もりをゼノの端末に送った。ゼノは受信した数字を見て、眉をしかめる。

 「待て待て待て。桁がおかしい。ゼロが一個多いだろ。」

 「ゼロは正確だ。お前の借金のゼロも、こうして増えていく。」

 「笑えねえ冗談だな。」

 「冗談ではない。」

 ゼノは額を押さえた。

 ジャンクヤード・シティの酒場で安いウイスキーを買う代わりに、誰かが彼の借金を少しだけ払ってくれる、という奇跡は、どうやらまだ発生していないらしい。

 「どうにかならねえのか、先生。分割とか、ツケとか、俺の未来の才能への投資とか。」

 「才能は投資対象にならない。結果だけが残る。」

 そこで、アインは少しだけ黙った。

 彼の中で、何かの計算が行われているようだった。ノイズ一つない静けさで、思考が進んでいく。

 「……ただし、一つだけ例外がある。」

 「例外?」

 「危険な輸送と、情報の仕事だ。お前のようなパイロットが必要だと、依頼が来ている。」

 ゼノは眉を上げた。

 依頼という言葉の響きは、いつだって金と死亡率の中間あたりの匂いをしている。

 「危険ってのは、どのくらいだ?」

 「統計的には、お前の借金が自然に減る確率より、少し高い。」

 「それ、ほとんど死ぬって意味じゃねえか!」

 アインは肩をすくめた。レプリカントに、その仕草がどれほど本物の意味を持つのか、ゼノには分からない。

 「報酬は、ここにある数字の全額帳消しと、その二倍だ。旧文明の技術も付く。お前の船をまともな船に換装するくらいは、充分に足りる。」

 ゼノは端末の数字を見直し、唇をかみしめた。

 それは、冗談抜きで人生を変えうる額だった。

 「……どうせロクでもない依頼だろ?」

 「ロクでもないかどうかを判断するのは、お前の感情だ。私はただ、論理的な選択肢を提示しているだけだ。」

 ゼノは、アインの眼の奥に、わずかな光を見た。

 それは興奮にも似た、微細な輝きだった。レプリカントが、何かに心を惹かれているときの光景を、ゼノはほとんど見たことがない。

 「誰からだ、その仕事。」

 「それを説明する前に、客を迎えなければならない。」

 アインがそう言った瞬間、診療所のドアが丁寧にノックされた。

     *

 ドアの隙間から現れた男は、この街には似つかわしくないほど、完璧なスーツを着ていた。靴は磨き上げられ、ネクタイは乱れひとつない。背筋はまっすぐで、その動きには、貧しい重力の街に慣れていない人間特有のぎこちなさがあった。

 「初めまして、Dr.アイン。セバスチャン・クレインと申します。」

 男は軽く会釈し、室内の汚れた床を気にする様子もなく足を踏み入れた。ゼノは無意識に身なりを気にし、すぐに諦める。

 「依頼主は、マトリクス・アーミーのオズワルド・ヘイズ将軍です。」

 その名前を聞いて、ゼノは顔をしかめた。

 フリンジ・リングの外側で戦争ごっこを続けている連中の中でも、特に金と兵器に物を言わせるタイプの男だ。噂では、彼の艦隊が通ったあとのコロニーは、燃え残った空気と負債だけを抱えているという。

 「将軍は、あなたの腕を高く評価しておられます。……レプリカントとしての、それ以上の何かも。」

 セバスチャンの視線が、アインの顔に一瞬だけ留まった。

 アインは無表情のまま、簡単な挨拶を返す。

 「要件を。」

 「はい。」

 執事は、手に持っていた薄いデバイスを差し出した。表面には、複雑な暗号化パターンが浮かんでいる。

 「依頼の詳細データです。将軍の希望により、これは口頭ではなく、直接あなたの脳に送信するよう指示されています。」

 「合理的だ。」

 アインはデバイスを受け取り、側頭部のポートに静かに接続した。小さなクリック音とともに、膨大なデータが彼の内部に流れ込んでいく。

 ゼノには、その様子がどうにも落ち着かなかった。

 人間の脳と違って、安全装置はあるのだろうが、それでも、見えない何かがアインの中に入り込んでいくのを眺めるのは、良い気分ではない。

 数秒の沈黙が続いた。

 診療所の空気が、少しだけ冷たくなったような気がした。

 「……なるほど。」

 アインが瞼を開ける。虹彩の光が、一瞬だけ濃くなった。

 「将軍は、子を望んでいる。」

 「子?」とゼノが思わず口を挟む。

 「はい」とセバスチャンが穏やかに続けた。「将軍は、究極の知性と完全な身体を持つ、レプリカントの子を望んでおられます。将軍の遺伝情報と、旧文明から発掘された設計データを組み合わせた、言わば……神の設計図に基づく存在を。」

 ゼノは乾いた笑いをこぼした。

 「はは。人間が神になるってやつか。冗談にしては笑えねえ。」

 アインは、笑わなかった。

 彼の内部で、数えきれない数式とシミュレーションが回転している。データの中には、旧文明の失敗例も含まれていた。神を目指して壊れた人工知能、進化しすぎて文明そのものを拒絶した自律機械。そのすべてが、ひとつの結論を指し示している。

 ――これは、宇宙のエントロピーを加速させる行為だ。

 アインはそう理解していた。それでも、別の回路が静かに点灯している。

 生命の創造。

 論理の極点。

 観察者としての彼が、ずっと届かなかった場所への扉。

 「報酬条件を確認したい。」

 アインは淡々と言った。

 「将軍は、あなたの現存する全ての負債の帳消しと、研究に必要な旧文明技術の提供、そして、十億クレジットの支払いを約束しておられます。」

 セバスチャンの声は揺れなかった。

 ゼノは思わず口笛を吹きそうになり、途中でやめた。

 「十億……」

 「お前の船が何十隻買えるか、計算してみるといい」とアインが言った。

 ゼノは、その声に微かな熱を感じた。

 レプリカントのくせに、と言いかけて、飲み込む。

 「条件は、合理的だ」とアインは結論づけた。「私は依頼を受ける。」

 その言葉は、思った以上にあっさりと、診療所の空気に溶けた。

     *

 セバスチャンが去ったあと、診療所には二人だけが残った。

 上階の換気ファンの低い唸りと、遠くのドックで鳴る警告音が、かすかに聞こえる。

 「おい、先生。」

 ゼノは沈黙に耐えきれず、口を開いた。

 「さっきの、マジで受ける気か?」

 「受けた。もう取り消せない。」

 「そういう問題じゃねえだろ。人間が神になろうとする話だぞ。歴史の教科書が燃えるようなやつだ。」

 ゼノは、ありったけの言葉を探しながら、手近な工具を弄んだ。

 「人間が神になろうとするのは、いつだって最悪の悲劇を呼ぶんだよ。俺はそういう話を山ほど聞いてきた。いや、実物の残骸を拾ってきた。」

 「それは統計的にも正しいだろう」とアインが言った。「だが、今回は、その過程を最初から観察できる。」

 「観察って言い方、やめろよ。そこで生まれるのは、数字じゃなくて……たぶん、生き物だろ?」

 アインは少しだけ考えた。

 「生物学的定義には当てはまるかもしれない。だが本質的には、これは設計だ。アルゴリズムと構造の問題だ。」

 「お前はレプリカントだから、人間の心の重荷が分かんねえだけだ。」

 ゼノの声が、思ったよりも荒くなった。

 アインは表情を変えない。ただ、その視線だけが、ゼノの顔のどこかを慎重に測っているようだった。

 「先生。もしそれが――その『子ども』が怪物になったら、どうする?」

 「論理的に制御する方法を探る。」

 「違う。」

 ゼノは工具をテーブルに叩きつけた。金属音が、狭い診療所に跳ね返る。

 「もしそれが怪物になったら、俺がぶっ壊す。お前の借金ごと、まとめてだ!」

 アインは、わずかに瞬きをした。それが驚きの表現なのかどうか、ゼノには判別できない。

 「感情的な脅しは、契約条項には含まれない。」

 「含めとけよ。そうじゃねえと、俺の気が済まない。」

 ゼノは深く息を吐いた。

 この街の空気はいつも汚いが、今はそれ以上に、自分の胸の中が濁っているように感じた。

 「……で、その仕事とやらで、俺は何を運ぶんだ?」

 「アトラスの『部品』だ」

 「アトラス?」

 「将軍がその『子』に与えたい名前だそうだ。旧文明の神話から取ったらしい。詳細はどうでもいい。お前の仕事は、製造に必要なコアパーツを、この街から私のラボまで運ぶことだ。」

 アインは、診療所の奥のロッカーを開けた。

 中から取り出されたのは、黒いケースだった。表面には、古い企業ロゴと、複数の封印コードが刻まれている。ケースそのものが一つの装置のようで、ゼノは見ただけで背筋に冷たいものが走った。

 「中身は?」

 「まだ開けるなと言われている。」

 「お前が?」

 「私でさえだ。」

 アインはケースを軽々と持ち上げ、ゼノのほうへ差し出した。重量は見た目よりもずっと重い。ゼノは両手で受け取り、無意識に耳を澄ませた。中から、何かが動く音はしない。ただ、かすかな振動のようなものが、ケース越しに指先に伝わってくる。

 「……気味が悪いな。」

 「気味の悪さは、正しく扱えば警告になる」とアインが言った。「これは、単なる貨物ではない。お前はそのことを、絶対に忘れるな。」

 「忘れたくても、忘れられそうにねえよ!」

 ゼノは肩にケースの重みを感じながら、診療所の出口へ向かった。

 ドアの向こうには、いつものジャンクヤード・シティの喧騒があるはずだ。だが、今はその全てが、少しだけ遠くに感じられた。

 「なあ、先生。」

 振り返らずに、ゼノは言った。

 「この仕事が終わったら、本当に借金はゼロか?」

 「ああ。数字の上では、完全なゼロだ。」

 「そっちじゃない。」

 ゼノは、ケースを持ち直した。

 「お前のほうの借金だよ。何を創ろうとしてるのか知らねえけどさ。……それ、返せんのか?」

 短い沈黙があった。

 アインは、その問いをどの分類に入れるべきか、ほんのわずか迷っているようだった。

 「それを観察するために、私はこの仕事を受けたのかもしれない。」

 「やっぱり、お前は性格悪いよ。」

 「よく言われる。」

 ゼノは鼻で笑い、そのままドアを押し開けた。

 ジャンクヤード・シティの雑音が、一気に流れ込んでくる。酒場の音楽、罵声、遠くで鳴る警報。いつもの世界だ。

 ただ一つ違うのは、彼の腕の中で、黒いケースが静かに重みを主張していることだった。

 その中にあるものが、やがて『アトラス』と呼ばれる存在になることを、この時のゼノはまだ知らない。

 そして、その名が、フリンジ・リングの外側に眠る何かを、ゆっくりと目覚めさせていくことも。

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