砕けた魂の微積分
青柳恭夜(あおやぎ きょうや)
プロローグ ― 意図よりも結果を
プロローグ ― 意図よりも結果を
アーカイブ記録-001
体育館の扉が、午前10時ちょうどに閉じられた。
一秒早くもなく、
一秒遅くもない。
金属が金属に打ち付けられる音が反響する。
その音は、集まった人数に対してあまりに大きく、
初日にしては、あまりに決定的だった。
会話は途中で途切れ、
靴底が磨かれた床を擦る音も止んだ。
新入生九十名。
彼らはコートに点在するように立ち尽くし、
希望よりもはるかに多くの身体を想定して設計された空間に、
静かに飲み込まれていた。
ゼニス・アカデミーの体育館は、
士気を高めるための場所ではない。
集会のために造られていた。
露出した肋骨のように天井を走る鉄骨。
奥には高く設えられた舞台。
その背後には、今はまだ沈黙を保つ巨大な表示パネル。
空気には、かすかに消毒液と新しい塗料の匂いが混じっていた。
まるでこの建物自身が、
自分がどのような教育機関になるのか、
まだ決めかねているかのように。
最初の世代。
創設初年度。
上級生はいない。
伝統もない。
噂が誇張だったという証拠もない。
扉が閉じられてから三十秒後、
脇の出入口が開いた。
一人の教員が、舞台へと歩み出る。
自己紹介はなかった。
歓迎の言葉もない。
教員は演台の背後に立ち、
背筋を伸ばし、
両手を平らに置いたまま――待った。
沈黙が伸びる。
最初は気まずく、
やがて重く。
体重を移す音。
誰かが唾を飲み込む音。
この空間が、
ゼニスが好む沈黙の質を、
学生たちに教えていた。
やがて、教員が口を開いた。
声は、力を込めずとも体育館全体に届いた。
「おはようございます」
返答はない。
「数分後、オリエンテーション評価を開始します」
「最善を尽くしてください」
即座に混乱が広がった。
質問。
抗議。
神経質な笑い声。
教員は、応じなかった。
午前10時20分。
全員の端末が、同時に点灯した。
――――――
課題:オリエンテーション評価
制限時間:10分
追加説明なし
――――――
行動の差異は、即座に現れた。
即入力を始める者。
固まる者。
手を挙げる者。
互いの顔を見て確認し合う者。
質問は投げられた。
返答は、なかった。
午前10時24分。
一部の端末に、入力の痕跡が見られなかった。
午前10時26分。
不安が音を持ち始める。
浅い呼吸。
椅子の軋み。
速すぎる指の動き。
0.9秒間。
システムは、有効な出力を返さなかった。
一名の学生が、分類不能と判断された。
処理は続行された。
その事象は、当時は重要視されなかった。
午前10時30分ちょうど。
評価は終了した。
教員が再び演台に立つ。
「初期適性の取得は完了しました」
「本日のオリエンテーションは以上です。結果は数分以内に反映されます」
そう言い残し、
舞台を後にした。
ざわめきが広がる。
緊張は困惑へと変わる。
視線を交わす者。
眉をひそめる者。
これは演出だと、静かに笑う者。
午前10時45分。
教員が戻ってきた。
演台の端末を操作すると、
背後の画面が点灯した。
数字。
記号。
解析不能なほどの情報。
心拍数が上がり、
呼吸が乱れる。
「評価中、意図は記録されました」
「努力も」
「感情反応も」
一拍。
「いずれも、加味されていません」
画面が切り替わる。
白線の上に、五十五名。
黄色で示された三十名。
そして――
細い赤線の下に、四名。
一拍の沈黙。
次の瞬間、体育館が爆発した。
「どういうことだ」
「名前がある、なぜだ」
「冗談だろう」
教員が片手を上げる。
沈黙が戻る。
完全ではないが、即座に。
「赤線以下に表示された者は、
ゼニス・アカデミーの最低到達基準を満たしませんでした」
赤線が、太くなる。
「よって、当校から退学とします」
言葉に感情はない。
残酷さも、謝罪もない。
ただの手続きだった。
笑い出す者。
崩れ落ちる者。
誰かの名を、何度も呟く者。
警備員が側面の扉から現れる。
急がず、乱暴でもなく、
ただ効率的に。
退学者は連れ出された。
説明はない。
抗議は受理されない。
扉が閉じると、
体育館はわずかに狭くなった。
教員は沈黙を意識しない。
画面が再び更新される。
――――――
無効変数
――――――
三十名。
強調はない。
排除もされない。
ただ、黄色で示されている。
「これらの者は、在籍を継続します」
安堵の息が漏れる。
だが、それは脆い。
「ただし、標準進行モデルからは除外されます」
困惑が戻る。
今度は、より鋭く。
「どういう意味ですか」
教員は全体を見渡した。
「ゼニスは、あなた方の進路を予測しません」
言葉が、ゆっくりと沈む。
「適応するかもしれない」
「停滞するかもしれない」
「想定を超えるかもしれない」
一拍。
「あるいは、後に排除される」
誰も、口を開かなかった。
「残りの学生は、明日から通常通り授業を開始してください」
画面が最後に切り替わる。
――――――
観測継続
――――――
残された名が並ぶ。
称賛はない。
保証もない。
ただ、記録されるだけ。
「念のために言っておきます」
教員は続けた。
「当校は、意図を評価しません」
最後の間。
「結果を評価します」
体育館の下、
コードと閾値と数値の確信のさらに奥で、
何かが、わずかに躊躇した。
警告は出なかった。
修正も行われなかった。
学生たちは動けずに立ち尽くす。
四人が立っていた場所の空白と、
自分たちが意味を持たないかもしれないという、
より静かな恐怖に囲まれて。
それが、
ゼニス・アカデミーの始まりだった。
後年、
この組織が軟化したのか、
あるいは効率化しただけなのか、
議論されることになる。
記録は、その問いに答えない。
ただ一つ、確認できることがある。
ゼニスは、理念を変えなかった。
手法を、洗練させただけだ。
砕けた魂の微積分 青柳恭夜(あおやぎ きょうや) @AoyagiKyouya
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