@take_Gunners23

 美咲の恋人・竜次には、部屋へ侵入したネズミに毒の餌を与えるという趣味があるかもしれなかった。

 断定できないのは、彼自身から聞いたのではなく、彼の高校時代の同級生から聞いた話だからだ。ネズミの好む餌に何らかの毒を練り込み、ネズミの通り道へ置いておく。さらにそうして殺したネズミの死骸をタッパーか何かに詰めて持ち出し、近くの公園の池に放り投げるらしい。竜次と美咲がまだ交際を始める前、酒に酔った彼がその同級生にそう話したことがあるのだという。同級生はそのことがどうしても忘れられず、一年ほど前、竜次に美咲を紹介された際、そのことを彼女に伝えたのだ。

 美咲は大きなショックを受けた。普段の竜次は、これまで交際した誰よりもきわめて温厚な人間だからだ。食べ物を切り分けたときは必ず大きい方をくれるし、待ち合わせに一時間遅刻しても怒らず、「何かあった?」と心配してくれる。最初の頃だけそうした優しさを見せる男性はこれまでにもいたが、交際を始めてから二年間ずっとその調子が続くので、そういう人間なんだろうと信用できた。竜次はこれまでの恋人の中で最も長く関係が続いたいわば「優良物件」だった。だからショックは受けたがすぐに別れようとはせず、何も知らない振りをして、関係を継続している。

 二十八という年齢も、そうさせた要因の一つだ。気がつけば周りは既婚者が増え、子どもが二人いる友人もいた。将来の夢を聞かれて「お嫁さん」と答えたことはないし、別に何歳までにという理想があるわけではなかったが、母が二十六で結婚し、二十八で自分を産んだという事実は、嫌いで皿の端によけたブロッコリーのようにいつまでもそこにある。考えすぎて眠れない時は、竜次との結婚生活を夢想して凌いだ。家は日当たりの良い三階以上で、近くには地元で愛されるパン屋があってほしい。毎日同じベッドで寝て、早く帰った方が夕食を作り、休みが合えば外食にも行きたい。チェーンの回転寿司だって構わない。「帰りに牛乳買わなきゃね」「まだ半分ぐらい残ってたよ」とか言い合いながら、ネギトロ軍艦を頬張りたい。そんな時、いつの間にか死んだネズミが部屋の床に横たわっている。彼が死骸を投げ捨てた池の底から、生き返ったネズミたちが飛び出してくる。生まれてきた子どもの顔がネズミそっくりになっている。そんな妄想をして余計に眠れなくなるのだった。


 美咲は新卒で入社して四年間働いた大手商社を一年前に退社し、今は最寄り駅にあるチェーンのコーヒーショップで働いている。働いていた商社は何もかもがハイペースで進み、どの社員も向上心を持ちライバルを蹴落とすことに必死で、どうにもついていくことができなかった。必死に面接対策をして滑り込んだ会社だからとだましだまし働いていたが、ある冬の朝、ついにベッドから出られなくなった。電話は何度も鳴ったが、布団を頭までかぶって無視し続けた。そうやって数日にわたり出勤を拒否して布団にくるまり続け、なんとかテレビを見て笑えるまで回復した日の夕方、上司に電話して退職することを伝えた。お前は社会人に向いていないと怒鳴られた。声の大きさには驚いたが、内容には何の反論も浮かばなかった。事務的な手続きと荷物の回収のため会社には一度だけ顔を出したが、私がいたこと、そして突然いなくなったことなどお構いなしに皆普通に働いていた。数年で辞める人なんてまったく珍しくないのだと悟った。自分だけが特別ではなかったことに気がつき、ほっとするような悲しいような気持ちになった。

 竜次とは商社で悪戦苦闘していた頃にマッチングアプリを介して付き合い始めた。それまでこの手のアプリとは無縁だったが、半ば逃避のように始めたのだった。今振り返ると、竜次にはかなりもたれかかっていた気がするが、竜次は嫌な顔ひとつしなかった。合間にネズミを殺害していた可能性はあるものの、何時に電話しても出てくれたし、ミスドを買って部屋に来てくれたことも三度ほどあった。そのときは必ず複数の種類を買ってきて、美咲が選ばなかったものを彼が食べた。彼がいなければ、美咲は彼が殺したネズミの如く底の底まで沈んでしまっていただろう。その頃にお互いの合鍵を交換した。彼と一緒に暮らす未来を少しずつ考えるようになった。


 朝竜次のマンションで目を覚ますと、先に起きていた隣の彼が美咲をじっと見ていた。

「何?」

「いや」

 彼はしばらく黙った後、僕と結婚するっていうのはどうかなと言った。起き抜けに言われるとは思わず、言葉を返せずにいると、彼はベッドから抜け出していつものように出勤の準備を始めた。

「どうかなって何?」

「どうかなってことだよ」彼は笑った。美咲は掛け布団を頭までかぶった。心臓の音が驚くほどよく聞こえた。今すぐにでも返事をしたかった。するべきだった。だがここにもネズミが出た。無邪気に毒の餌を食み、灰色の身体をよじらせて悶える哀れなネズミ。いやでも、と思う。竜次の住むアパートは築年数も浅いはずで部屋も三階だし、ネズミが現れることなど本当にあるのだろうか。何度も宿泊しているが実物を見たことがない。あの同級生は嘘をついているのではないか。そう思うと、そうに違いないと思えた。実質的なプロポーズを唐突に受けたばかりの浮かれた頭では、その結論以外見つからないし探そうとも思わない。

 市役所勤務の竜次は、出勤前のルーティーンさえも毎日寸分違わずきっちりとこなす。慌ただしく動き回る彼を、ベッドから目で追う。

「悪いけど、皿置いてくね」

「うん」

「返事聞かせてね」

「うん。私も仕事終わったらまたここに戻ってくる」

 わかったと言って彼は家を出る。しばらく布団にこもった後、美咲もゆっくりと起き上がる。今日は午後からシフトが入っていた。勢いよく滑るようにベッドから降りて、閉めっぱなしになっていたカーテンを思い切り全開にする。外には集団登校する黄色い帽子の小学生たちがいて、しばらくじっと見て、手を振りたい気分になった。とにかく落ち着かず、動物園で見る檻の中の猿のように、部屋中を行ったり来たり歩き回る。

 ネズミ以外に逡巡する理由はなかった。こういう時に相談できていたはずの友人たちはそのほとんどが子育て中で、話してみてもいつの間にか自分の旦那への愚痴に話がすり替えられそうで、当てにならない。皆自分の人生に精一杯なのだ。

 とにかく自分で証拠を見つけてはっきりさせたかった。ネズミ、ネズミの死骸、毒入りの餌、いずれかがこの家に存在しているはずだった。このワンルームは整理が行き届いており、何かを隠すには不向きだ。出てきて欲しいような、出てきて欲しくないような中途半端な気持ちでベッドの下やテレビの裏、ソファの下などを見て回ったが、何も見つけられない。しばらくそうして、馬鹿らしくなってやめてしまい、支度をして家を出た。


 仕事中も上の空で、ミスばかりした。「何かありました?」と誰かに聞かれれば、すべて話してしまいそうだったが、今日のシフトは学生ばかりで、学生は学生同士で話すことがほとんどなので、美咲に業務以外で話しかけてくる人はいない。学生から見れば無気力なアラサーで、いつもより多少ミスが多くとも、それが決定的なものでなければ気にならないだろう。

 三十分の休憩時間で、竜次の同級生に電話をかけてみた。一度しか会ったことはなかったが、連絡先は一応交換していた。ラインの名前が「akihiro taguchi」となっていたせいで、検索してもなかなか引っかからず腹が立った。田口はワンコールですぐに出た。突然の電話に驚いた様子だったが、美咲が事情を説明すると、なるほどねえと落ち着いた反応だった。

「あのとき話してくれたことって、本当に本当ですか? 本当なら結婚のこともちょっとどうかなって感じで」

「本当というか、俺も竜次から聞いただけで、現場は見てないんだよね」

「じゃあ嘘かもしれないってことですよね」

「でもなあ。そんな嘘つく奴じゃないんだよな」

「じゃあ、竜次はそんなことしそうに見えますか?」

「うーん、どうだろうなあ。竜次は結構不思議なところがあるよ」

 彼はそう言うと少しの間沈黙し、「ちょっと会って話さない?」と誘ってきた。

「今電話で言ってもらえませんか」

「いやほら、ちょっと今こっちも騒がしいところにいてさ、ゆっくり話せないからさ」

「・・・どこに行けばいいんですか?」


 仕事を終え、彼が指定した駅前のチェーンの居酒屋に行った。金曜なので、学生やスーツ姿のサラリーマンで賑わっていて、みんな既に顔が赤く、騒々しい。先に着いた美咲はタッチパネルでメニューを確認しながら待った。遅れて到着した田口は、ごめんね遅くなって、とへらへらしながら自分のダウンを壁のハンガーに掛けた。ダウンからは煙草の臭いがした。田口はビールを頼んだが、美咲は酒を飲む気はなかったので烏龍茶にする。運んできた女性店員の派手なネイルが気になった。

「結婚するんだってね。おめでとう」

「はい」

「竜次が結婚なんてなあ。驚いたよ」

「そうですか」

 世間話をしに来た訳ではないので、返事も雑になる。よく見ると彼は茶髪で、そういえば何の仕事をしているのか前に聞いた気もするが、思い出せなかった。

「そういや俺さ、最近ユーチューブ始めたんだよ」

 彼はそう言って、動画を見せてくる。ヨーロッパかどこかの街並みの映像だった。旅行記みたいなものだろうか。画面下部のやたら派手な字幕が綺麗な景色を邪魔している。

「チャンネル登録してよ、ぜひ」

「はい、しておきます」

「今、今」

 彼に促されてスマホを取り出して登録させられた。チャンネルの登録者数はまだ五十人程度で、どれぐらい見込みがあるのかわからなかった。

 田口が二杯目のビールを半分ほど空けたところで「あの話、本当なんですよね」と切り出した。

「ああ、だから本当だって」彼はにやにや笑ってジョッキを傾ける。

「なんでそんなことするんでしょうか」

「さあねえ。直接聞いたことないの?」

「聞けませんよそんなこと。嘘かもしれないし」

「夫婦になるのに?」

「それはだって・・・」

 美咲は心臓をきゅっと掴まれたように感じた。

「ちょっと煙草吸っていい?」

 服に臭いがつくので嫌だったが、仕方なくうなずくと彼は灰皿を引き寄せ、紙巻きの煙草に火を付けた。飲むときにしか吸わないんだけどね、となぜか申し訳なさそうに言った。

「高校の時にね、竜次も含めて何人かで一緒に弁当食べてた時にさ、一人がくしゃみしたんだよ。もちろん手で口元押さえてね。そしたら竜次がいきなりそいつに掴みかかってさ。俺も驚いて、クラスのみんなも驚いて。『食べ物ってのは繊細なんだ。ちょっとでもイレギュラーが起きると食べられなくなるだろ』ってキレてんだよ。誰も理解できなかった。今思い出しても不思議だなあ。だから不思議なところがあるって言ったんだよ」

「そんなこと、私は言われたことないですけど」

「俺もあの一回しか見たことないよ。でもさ、何か気に障った時にそこまでする奴ならさ、その、ネズミぐらい、おかしくないだろ?」

「今回のこととその話は全然違うことのように思えますけど。それに飛沫が弁当まで飛んだのが見えたんじゃないですか」

「そんなの見えるかなあ。見えたとしても殴りかかることはないでしょ」

「でもたった一回ですよね。普段は優しいんですよね」

 田口は煙草の火を消した。

「ずいぶんかばうね。美咲ちゃんがそう思うなら、それでいいんじゃない? 俺にいくら聞いたって仕方ないでしょ」

 美咲は黙って椅子に背中を預ける。

「まあ俺も、彼女が浮気してるんじゃないかとか気になることあるからなあ。だからさっきは直接聞けばいいなんて言ったけど、それができないのもわかるよ」

 美咲は田口の煙草を指さし、「一本もらっていいですか」と聞いた。

「ああ、いいけど。吸うの?」彼はそう言いながら慣れた手つきで煙草を取り出す。

「初めてですけど」

 美咲は受け取った煙草を口に咥え、彼が灯すライターの火に近づけた。燃えているものが口元にあるのは新鮮だ。試しに息を吸ってみるとすぐにむせた。

「そりゃそうなるよ」田口は困ったように笑い、自分も煙草に火を付けた。そして簡単そうに煙を吸って吐いてみせる。こうだよこう、と言ってまた笑う。同じようにやろうとするが、どうしても煙を吸うと反射的にむせてしまった。

 割り勘で会計を済ませて店を出ると、田口はごく自然な形で美咲の左手を握った。彼女は驚いてそれを振り払う。

「あれ、だめかな」田口はそう言って苦笑する。

「だめでしょ」美咲は笑っていなかった。

「冗談冗談」

 そう言うと彼は手を振り、駅の方へすたすたと歩き出した。

 ありがとうございました、と背中に向かって言うと、田口は右手を挙げて応えた。

 自転車を押して帰る途中に信号を待っていると、猫耳を付けたガールズバーのキャッチの女性に出会った。跳ねるように男性に声をかける姿を見て、猫になれれば竜次の代わりにネズミを捕ってあげられるのに、と思った。そうすれば竜次はネズミを見つけることはない。


 竜次の家に帰ると、彼は部屋の真ん中で、広げた新聞紙の上に座り、鏡も見ずに前髪を切っていた。切った髪がつくのが嫌だからなのか、下着姿だった。「おかえり」と彼はこちらを見ずに言い、勢いよく鋏を入れ、黒い塊になった髪の毛が新聞紙の上に落ちる。いつも自分で切っているのは知っていたが、その現場に遭遇したのは初めてだった。

「遅かったね」

「店の人とご飯してて」

 美咲は自分の服に煙草の臭いがついていないか、さりげなく確かめる。

「そうだったんだね。お疲れ様」

 彼は鋏を床に置く。

「ごめん、邪魔しちゃった?」

「いや。あ、そうだ。後ろ切ってくれない? 後ろだけは自分でやるの結構難しくて、いつか頼もうと思ってたんだよ」

 彼は自分の後頭部をさすった。 

 唐突な依頼に美咲は驚き、「素人だしできないよ」と断った。どんな髪型になってもいいから、と彼は食い下がり、鋏の持ち手の方を美咲に差し出してくる。逃げられそうにないので、仕方なく鋏を受け取り彼の後ろで膝立ちになる。どう切り始めて良いかも思いつかず、鋏を持ったまま、ただ後ろから竜次を見つめる。

 竜次はおとなしく俯いて座っている。華奢で頼りない白い背中だった。竜次は運動が苦手で、中学1年で卓球部を退部して以降、スポーツをまともにやっていない。背中がそれを物語っていた。筋肉が浮き出ることもなければ、脂肪に覆われているという感じもない。端的に子供のようだった。

「美容師は信用できないんだ。どんな人かもよく知らない人間に、刃物を持って後ろに立たれると、どうも落ち着かなくて。だから自分で切るようになったんだ。高校生ぐらいからずっと」

 彼は俯いたままそう言って、自嘲気味に笑った。

「私はいいの?」

 美咲は彼の襟足に触れる。

「美咲はいいんだよ」

 彼がその手を掴む。

 美咲は思わず持っていた鋏を強く握る。竜次の言うように、彼は今無抵抗だ。美咲を信用しきっており、自分の生殺与奪を預けている。ぞくっとして、鋏を落としそうになる。

「この部屋って、ネズミが出るの?」

「ネズミ?」

「そう、ネズミ」

「いやあ、どうだろう」

「だってほら、ここって駅が近いし、ご飯屋さんがいっぱいあるじゃん。だからネズミとか、ゴキブリとかそういうの出ないのかなあって」

「うーん、ここ三階だし、出ないんじゃない?」

 そうだよね、と美咲は呟いて、竜次の襟足を撫でる。一度も染めたことがないだろうと思わせる艶のある黒髪。鋏は新品みたいに冷たく光り、髪を切るためだけに使われてきたことが窺える。

「襟足、すぐ伸びちゃうんだよね。伸びると気になって触っちゃうからさ、短くしてよ」

「わかった」

 竜次は項垂れたまま待っていて、美咲は聞きたいことを聞かずに髪を切ろうとしている。これが結婚なのだろうか。周りの既婚者たちは、こういうことは教えてくれない。

 煙草のせいで、口の中がまだ苦かった。

「今朝のこと、どうかな」と竜次が聞く。

 美咲は刃先を竜次の項にすっと向ける。

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