書痴の列車

小狐紺

第1話



 本読むやつは、没頭するやつとしないやつに分かれる。


 しない奴は賑やかだ。周りが気になって仕方ないらしい。一体何が楽しいんだろう。私には理解できない。


 没頭するやつは幸福だ。すべてを置き去りにして、最後は本の中に帰って来れる。静かで穏やかな、余韻に浸れる、平和な世界に。


 私は本が読めたら、それで幸せだ。

 そのなかだけは、安全なはず、だった。




 たたん……たたん……


吊り革がスイングしてる。ジャズでも聴いてる気分。

飴色の木床?上等。いい音。

ページめくりのリズムにぴったり。


赤にも紫にもみえるビロード座席はふかふかで、揺れる身体を柔らかく支えてくれる。

おかげで目が横の行に飛んでしまうことも無い。


4人掛けのボックス席にひとりだけ。


肘が誰かにぶつかる事もないし、

他人の視線も気にしなくていい。


話しかけられる危険も、

誰かのクッションにされることだってない。


なんて自由だ。

こんなに読みやすい通勤電車、今世であと何回ある?



手にはお気に入りの短編集。


その間には、みゃーさんの抜け毛で作った手製の黒猫。

あの子そっくりな栞は私の移動の相棒。


窓辺には紅茶のペットボトル。個包装のラングドシャ。

小さな一編が、口の中に広がる。ああ……幸せ。


目の前の文章に没頭する。

読むほどに心がほぐれる。

ほぐれて、ほどけて、最後に『自分』がなくなる感じ。


みゃーさんと一緒に布団で寝ているような気持ちよさ。



かたん


ふと視線をあげる。


あ――れ――、通勤列車……じゃ、ない?


壁一列の座席でなく、吊り革は普段より低い。

あちこちに金縁で装飾された車内は、いつもより古風で優雅な雰囲気があった。


知らない車両、知らない車窓、……知らない、眺めだ。


なんで?

今日の仕事を終えて、あとは最寄り駅まで読書しながら帰るところだったはず。


はっと我にかえる。


ペットボトルとお菓子、食べちゃった。

用意した覚えはない。


つまり、人のだ。

ああ……なに無意識に手をのばしてるのかな、私は。


反省しつつ、辺りを伺う。

辺りの席には荷物も、人が居た気配が一切ない。


それどころか、もしかして、車両に私、だけ……?


……持ち主が帰ってきたら、謝ってお代をお支払いしなきゃ。


申し訳ないことしちゃったな……

でもとても、美味しかった。

メーカーきいてみよう。

……入手困難じゃ、ありませんように……!!


眩い陽射しが不意に窓越しから差し込む。

仕事帰りの目には刺さるような明るさだ。


でも、車窓からみえるのは、憧れの海。


私の生活圏内じゃないな。

はは……海なし県どこいった?


乗り間違えたのか、路線図を探すが、見当たらない。


代わりに掲げられているのは、知らない本の広告ばかり。


代航海時代の美食狩り?

不動産投資の成功方法~まず鉄道を運営します~?


本から手が離せない私は、週刊ランキングも出版社の新刊リストも、毎日チェックしてる。


でも見覚えがない。全部。


……ああ、もう!

車内の広告のタイトル、全部気になるんですけど。


今日は一生に一度の豊作の日ですか?


猫のスタンプ日記

──肉球×旅行って何?


おかしいでしょ……ください。

実店舗どこ?もしかして通販だけ?


視線を移すたび、違うタイトルが目に入る。

あれ、さっきの猫の本……どこいった。

そこには「幻灯殺人鬼の懐中時計」の広告がぶら下がってる。


……──広告、変わってる。

電子広告だったなんて聞いてない!


メモしなきゃ。かばんから取り出したペンとメモ帳に書き殴る。

どんどん変わっていく。視界の隅が忙しい。

メモ帳が埋まっていく。


──いや、これ書き写すための列車だったっけ。

お願い。誰か、保存ボタンつけて。


あ。写真撮ればいいのか。

連写連写。

うーん……――うまく、いかないなぁ。


ふと異様に静かなスマホに気づく。

ゲームにSNS、メールに電話。


四六時中ミーミー言ってる奴がだんまりなのは――圏外。


そりゃそうだよね。

片側は絶壁の先の海、片側は山。

随分と遠くに来たみたい。

こんな荒々しいのが天国だったら嫌だな。


念の為スマホを開こうとしたら、通知がひとつだけ届いていた。


「よい旅を。あなたの物語を心から楽しみにしています。」


……通知欄にアプリ名が、ない……?


いや、でもこれは現実的に……どっかの観光列車とか?

……――観光列車にひとりで乗る、くらいなら図書館行くな、私は。


もう一度、あたりをみまわす。

車両の中は、私ひとり。



違う。知ってる。

ふと、思い出して、SNSのブックマークを開く。


噂の怪談。

——書痴の列車……?



ある日突然、見知らぬ電車に乗っている。

本を読めば、ちゃんと帰れる。

しかも、好きなだけ本が読める。

降りそびれることはない。

一冊読み切らないと、次の駅に到着しないから。



ただし──帰りの切符がないと、本になる。



切符がないと帰れない――?


慌てて鞄やポケットを調べる。それらしきものはない。

電子キップかな。スマホを探すが、やっぱりない。


「切符、ない?!」


え、どうしよう……


駅員さんに言えばなんとかなるかな。

……怪談に駅員さんがいる?

いたとして、こちらの事情を聴いてくれるとは、思えない。


どうしよう。


我が家には私の帰りを待つ、みゃーさんがいるというのに?

あの子を餓死させる前に帰らなきゃ。


いっそ。

列車のスピードが落ちた瞬間に飛び降りる、か。


外を見る。

窓を開けてみる。


いやいやいや!

ここ、ずっと崖。

反対側は森。木にぶつかっちゃう。


無理だ。

……どうやったら帰れるんだろう。



スマホで色々検索した挙句、またSNSに戻ってしまう。

読む専用の鍵付きのアカウントだ。

投稿したって、だれも見ない。


あ、おすすめの投稿が更新された。


『結局、読み終わらなきゃ、帰れない』



――それだ。それなら、出来る。

それしか、出来ない。

怪談?

あの子が部屋で誰にも気付かれないまま、餓死したり衰弱死する方が、よっぽど怖いわ。


念のため、検索サイトや他のSNSも探してみる。

でも、それ以上には何も出てこない。


決めた。

駅員さんに説明して、そこで精算しよう。

……今月の購読予定を来月にまわせば、なんとかなるかな。



悩んだ末、ラングドシャを口に放り込んだ。

噛み砕きながら、辺りを探し、よく考えた。


無いものは仕方ない。他に信じられる情報は、ない。


……よし、やろう。

猛然と手の中の短編集を読みすすめる。


ページをめくる。

1ページ目──好きなインクの香り。

ここちよい紙を滑る指の感触。だけど、指が震える。


こんな緊張しながら読むこともなかったな。


3ページ目──目が上滑りする。

読み切れば、帰れる。

――みゃーさんに、ごはんをあげる。


6ページ目──文字を追う。

脳裏を世界が流れていく。

本の内容を入れた反対側から、何かが吹き飛ばされていく。


『にゃーん』


……みゃーさん。かわいい、うちの子の『みゃー』。

もし、このまま帰れなかったら?



栞が床に落ちた。

それでも目は文字を追っていた。

拾う余裕はない。


砂時計のように、記憶が落ちていく。


ああ……もう、いやだ。


なんだか読むのが恐ろしい。

でも、読まなければ、帰れない。


一瞬、膝下が消えかける。


ぎゅっとつま先が冷える。

本を持つ手が震える。


はやく。早く、読み切らなければ。



――わたしが、本になる前に。



……本になる?

なんの話?


不意に今読みかけている本の内容が、ぐにゃり、と歪んだ。

そうとしか、言えない。


脳みその中の、今、私が記憶したと思った内容が、急に変わった。


恐ろしくも、かき代わる感触が、最高に気持ち悪い。


ページをめくる。

面白い短編集が、急に誰かの思い出エピソードになる。


なぜか、覚えがある気がする。

なのに、はじめて読む内容で。

目が離せない。


ページをめくる、めくる、めくる。


まるで自分ごとのように、痛い言葉がたくさん並ぶ。

でも、書かれていること、全部大事で、胸を掴んで離さない。


読むことを止められなくて、駆けるように読みすすめる。


痛い言葉が愛しくなってきた。

それは心が動いているということだから。


『――――』


――あの子。

なんだっけ、思い出せない。


ページをめくる。


よんでいくうちに、からだがとうめいになる。


ああ。

ほんとうのわたしは、このほんのなかに、いるから。


あしもとを、くろねこがすりぬけた。

それでもめは、物語からはなれない。



のこり一ページ。



ざしゅん、とれっしゃはげんそくをはじめた。


『たたん……たたん……


 吊り革がスイングしてる。ジャズでも聴いてる気分。

 飴色の木床?上等。いい音。

 ページめくりのリズムにぴったり。


 赤にも紫にもみえるビロード座席はふかふかで、揺れる身体を柔らかく支えてくれる。

 おかげで目が横の行に飛んでしまうことも無い。


 4人掛けのボックス席にひとりだけ』


……うん、そんなかんじ。


めがとまる。

『よい旅を。あなたの物語を心から楽しみにしています』


そう、さっきスマホでみたもじだ。

いまはもうこわくて、めがほんからはなれられないけど。

めをはなしたら、きっとわたしはきえてしまう。


――わたしってなんだっけ。

わたし、がなくても、せかいは、まわる。


あとすこし。


だれかに、よまれてるきがした。

ひらかれ、めくられ、はしからはしまで。


はんぶんいじょう、きょうみほんいで。

あくまで、じかんつぶしに、ながすようにざつによまれて。


それがこわいのか、うれしいのか、じぶんでもわからない。


よんでわかったのは、そんなこと。


……みゃーさん、て、なに?


わたしにはもう、おもいだせない。

けれど、それがどうした、というのだろう。


いきがかさかさする。

からだをひらかずに、きゅっとちぢめたい。


すわっているのがつらい。

よこむきにねころぶ。

どうせひとりだ。


――ざせき、こんなにひろかったっけ?

あしをのばしても、ざせきのはんぶんにもみたない。


あと、すこし。

――つぎの、いちぎょう。


そのあとで、かえるから――……




残された本は、まだ温かかった。


「ご乗車、ありがとうございました」

車掌は座席の本を取り上げると、丁重に書棚にうつした。





たたん……たたん……


気づけば知らない車両にいた。

鮮やかな赤紫のビロード席は、座り心地がとてもいい。


リズムよく、吊り革が揺れている。

飴色の床は木目が美しい。


――ふと、落とし物に気づいて、それを取りあげた。


それは可愛らしい、フェルトの黒猫の栞だった。

……そしてその下には、読みかけの短編集が一冊だけ残されていた。


指が、自然とページをめくる。

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