愛妻日記

第1話 父の遺品と、知らなかった夫婦の記憶

令和2年。冬の午後。

橘信介は、父・京介の四十九日の法要を終え、久しぶりに帰ってきた実家の座敷で膝をついていた。

部屋には、古い木の匂いと、父が好んでいた線香の残り香が漂っている。


「……本当に、これで全部かな」


思わずひとり言をこぼす。

遺品の整理は、想像していたよりずっと心が重かった。

父の着物、愛用していた万年筆、若いころの白黒写真。

どれも、手に取るたびに胸の奥がひりつく。


その時だった。


小さな箪笥の引き出しの奥に、古びた茶色の紐でまとめられた数冊のノートがあるのに気づいた。

灯りに透かすと、紙は黄ばみ、角は丸くすり減っている。


「……これ、なに?」


部屋の入口から声がした。

恋人の美緒が、そっと近づいてくる。

彼女はこの数日間、信介のそばでずっと支えてくれていた。


「わからない。父さんの、だと思う」


信介が紐をほどき、1冊目のノートを開いた。


そこには、丁寧で癖のない、見覚えのある字でこう書かれていた。


『美咲へ。今日も君は世界一、可愛い。』


美緒が思わず吹き出した。


「えっ……京介さんって、こんなこと書く人だったの?」


「いや、全然……。俺、聞いたことないよ。父さんが母さんに、ここまで……」


信介はページをめくる。

黄ばんだ紙に並んだのは、昭和50年、結婚したばかりの京介と美咲の、日常の断片だった──。



【昭和50年・回想】


夕暮れのアパート。

新婚の京介は、慣れない料理に挑戦している美咲の背中を、横目でそっと見つめていた。


「京ちゃん、煮物ってこんなんでいいのかなぁ……?」


「うん。美味しそうだよ。俺は、美咲が作るならなんでも好きだ」


「もう、またそんなこと言って。おだてても味は変わらないんだからね?」


ぷくっとふくらませた頬。

その顔を見るたび、京介は胸の奥がたまらなく熱くなった。


ノートには、こう記されていた。


『美咲の頬が少し膨れた。

その瞬間、世界で一番かわいいと思った。

この気持ちは、きっと一生変わらない。』



【令和2年】


美緒がページに見入りながら呟く。


「信介……これ、宝物じゃない?」


「……ああ。

なんで父さん、こんな大事なものを俺に一言も言わなかったんだろう」


信介は胸がきゅっとするのを感じた。

父の本当の姿──

母が生きていた頃の夫婦の姿──

そのどれも、自分は知らずにここまで来た。


だからこそ、知りたいと思った。


父は母を、どんなふうに愛し、どんな時間を過ごしてきたのか。


そして、その愛が今の自分に何を残してくれているのか。


「ねえ、続き、一緒に読もう?」


美緒がそっと手を伸ばす。


信介はうなずき、古い紙の手触りを確かめながら、次のページへと指を進めた。


──昭和50年と令和2年の物語は、静かに重なり始める。

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