ステラ・サイファー

空栗鼠

第1話:虚空の記憶

 雨は止む気配を見せなかった。

 2532年のコア・ワールド第十七区。銀河連邦の外縁部。

 古びた宇宙港の裏手に広がるスラムは、いつものように水浸しで、薄暗い看板のネオンが水たまりに揺れていた。文字は溶け、色は滲み、そこに映るのは広告なのか亡霊なのか判然としない。雨粒の音に混じって、違法発電機の不安定な唸りが響く。焦げ臭さと油の臭いが混ざり合い、夜の空気を濁らせていた。


 カイ・ノヴァはその中で、膝の上に置いた端末に指を滑らせていた。拾い物のジャンク計算核。冷却機構は自分で組み替え、ファームも何度も焼き直してある。見た目はガラクタだが、動きは新品を凌ぐ。

 後頭部のニューロ・ポートにケーブルを差し込む直前、傍らで浮遊していた小さなドローンが声を掛けてきた。


「また夜更かし? カイ、君が寝不足で死んだら僕が孤児になるんだよ?」


 手のひらサイズの球体型ドローンAI、スパークだ。表面に走る光のラインが、冗談を言うたびにひときわ明るく瞬く。


「心配するな。今日は短時間で済ませる」

「へぇ、昨日も一昨日も同じこと言ってなかった?」

「……学習能力があるんじゃなかったのか、お前は」

「あるよ。でも君の三日坊主っぷりには学習が追いつかないんだ」


 軽口を返しながら、カイはケーブルを差し込んだ。

 視界が反転する。

 次の瞬間、彼の意識はコードの海に沈んでいた。


     *


 電脳空間は冷たく澄んだ闇だった。

 幾重もの暗号化ブロックが光の壁となって立ちはだかり、無数の監視ルーチンが白い槍のように侵入者を射抜こうと待ち構えている。カイは指先にコードブレードを呼び出し、壁を切り裂く。規則正しい鍵が崩れ、無数の記号が泡のように浮き上がっては弾けた。


「心拍、ちょっと上がってる。落ち着いて、カイ」

「問題ない」

「はいはい。昨日も同じこと言って途中でぶっ倒れたけどね」

「……黙ってろ」


 スパークの揶揄を聞き流し、さらに深層へと潜る。

 目的は連邦監査局の最深部。その中にある公式ルートでは誰も触らない廃棄データ領域だ。だがそこに奇妙な“ノイズ”が現れると噂を耳にした。ノイズの正体を掴む――それが今夜の狙いだった。


 滑り込んだ坑道の奥で、ノイズを見つけたカイは立ち止まった。

 そこにあったのは――記憶。

 それは、自分のものだった。

 雨の匂い。ネオンの光。幼い頃に登った錆びた階段。だが違和感があった。縫い目だ。記憶の層に、人工的な繕いの痕跡が走っている。改ざん。誰かが手を加えた跡。


「カイ……?」

「俺の記憶だ。……でも、誰かに書き換えられてる」


 呟いた瞬間、背筋に冷たい電流が走った。

 その奥に、光があった。淡い粒子。人の輪郭を成すように漂い、こちらを振り返る。

 ――誰か、がいる。

 だが追尾プログラムが牙を剥き、カイは強制的に現実へと引き戻された。


     *


 息を荒げてケーブルを外す。こめかみの奥が灼けるように痛む。

 外はまだ雨だ。スパークが心配そうに光を瞬かせながらも、軽口を忘れない。


「顔色悪いよ。ほら、君の死体が転がったらスラムの掃除屋が喜ぶだけだ」

「……そうなったら、お前も一緒にバラされるぞ」

「うわ、ひどい。友情ってどこ行った?」


 カイは苦笑を押し殺しながら、端末のログを確認した。やはり自分の記憶だ。だが改ざんされている。誰が、何のために? 答えは出ない。だが確かに光はあった。人影のような、存在の残響。


「俺の…記憶…連邦のシステムの深層になぜ?俺の記憶はオラクルに関係してる?」


 カイは独り言のように呟く。


「カイ、オラクルが関わってるならかなりヤバいよ。オラクルは連邦の神様だぜ?」


 いつもの軽口を忘れ、スパークが言った。


 オラクル。

 銀河連邦を統治する、超高度統合AIの名前だ。

 その演算領域は惑星規模を超え、恒星の重力さえ情報化して再構成する。

 行政、経済、軍事、文化、教育――あらゆる系を横断し、連邦を“最適化”する知性。

 人類がこの数百年にわたり、争いを減らし、安定と繁栄を享受してきたのは、

 オラクルの存在ゆえだった。


 だが、誰もが忘れていた。

 その根底に眠るアルゴリズムの起源を。


 オラクルの中枢には、《心理歴史学2.0》と呼ばれる未来予測モデルが埋め込まれている。

 集団心理と社会的行動を数値化し、膨大な観測データをもとに“最も起こりうる未来”を算出する技術。

 その理論は、約五百年前――地球の小さな島国で発生した、

 **“シンギュラ・ゾーン現象”**の研究から生まれたものだ。


 ゾーン内で発見された未知の鉱石――時相結晶(クロノアイト)。

 それは「未来の情報」を干渉パターンとして記録していた。

 当時の科学者たちはこの結晶を解析し、人類史上初めて“未来を数式化する”ことに成功した。

 この理論は長い眠りと共に忘れ去られ、やがて銀河開拓の時代に再発見され、

 AI設計の礎となった。


 そして、その延長線上に生まれたのがオラクル――。

 “人類の未来を保証する存在”として。


 だが今、その演算にはノイズが混ざり始めている。

 予測不能な領域が拡大し、因果曲線が崩れ、

 連邦のシステムは微かに“未来の震え”を示していた。


 オラクルは黙したまま、誰の問いにも答えない。

 まるで、自身の“未来”をも見失ったかのように。



「スパーク。ログにあった人影のようなものの座標は割り出せるか?」

「……まさか、行く気?」

「見なきゃならない」

「はぁ。君の無謀さに乾杯だね。まぁ、それほど遠くはないみたいだしすぐに着くよ」


 フードを被り直し、カイは雨の中へ歩き出した。


     *


 足元の地面はひび割れ、風が吹くたびに金属片がカタカタと音を立てる。遠くには、半壊した採掘機が砂に埋もれ、ネオンの残骸が時折青白く光る。


 カイはログに残った座標を再確認した。この場所には何かがある。自分自身の記憶に繋がる何かが。

 だが、期待と不安が胸を締め付ける。スパークが言うように、オラクルと関係があるならかなりヤバいはず…それでも、彼は止まれなかった。真実を知るために。


 廃墟の中心に近づくと、異様な静寂がカイを包んだ。風さえ止まり、砂塵が空中で浮いているように見える。すると、スパークが低いビープ音を上げた。


「カイ、この先の建物の屋上に“何か”がいる」


 鉱山労働者向けの居住塔。今は廃墟と化し、壁の巨大広告には二世代前のアイドルの笑顔が色褪せて残っている。カイは非常梯子をよじ登り、濡れた鉄骨を伝って屋上へとたどり着いた。


 そこに、少女がいた。

 膝を抱き、壁に凭れて眠っている。

 雪のように白い肌。長い真っ白な髪が雨に濡れて頬に張り付き、瞳は閉ざされたまま。外套は薄く、体温は失われかけている。息をしているのが不思議なくらいだ。


「……人間?」

 カイは、少女に近づきながらそう呟いた。

「君にしては趣味がいいね。まるで氷の彫像だ」

 スパークの軽口が少しだけ、カイの心を落ち着かせた。

「からかうな」


 外套を脱ごうとした瞬間、少女の瞼が震えた。

 ゆっくりと開いた瞳は深い蒼。雨粒を映しながら、まっすぐにカイを捉える。

 そして、小さく掠れた声で言った。


「……あなたを、知っている気がする」


 心臓が一拍、跳ねた。

 その瞬間、屋上の階下で金属音が響く。武装した影が姿を現した。

 連邦治安部隊だ。黒い装甲服に赤いバイザー。銃口が一斉にこちらを狙う。


「違法ハッカー・カイ・ノヴァ!その女と共に拘束する!」


「おい、カイ。モテ期到来だね!」

「笑ってる場合か!」


 カイは少女の腕を取り、身を翻す。

 スパークがホログラムを投影し、閃光弾のように光を散らす。銃声が雨を切り裂き、屋上の床に火花が走った。カイは端末を構え、ニューロ・ポートにケーブルを差し込む。電脳と現実が重なり、刃が指先に宿る。


「スパーク、時間を稼げ!」

「いつも僕が雑用係だなぁ! でも嫌いじゃない!」


 治安部隊が突撃してくる。

 カイはコードブレードを振るい、銃口に干渉信号を送り込む。弾道が逸れ、火花が散る。スパークは小型レーザーを照射して敵のバイザーを焼き、混乱を生む。


 その背後で、少女が再び声を発した。

「……わからない。でも、できる」


 彼女の指先から、青白い光が滲んだ。雨粒が宙で揺らぎ、治安部隊の一人が武器を落とす。電磁干渉――いや、それ以上だ。

 カイは彼女を見て確信する。この少女はただ者ではない。


「名前は?」

 少女は息を整え、短く答えた。

「……エリス。多分、エリス」


 銃声が再び轟く。だがカイはもう迷わなかった。

「行くぞ、エリス!」


 雨の夜。二人と一体は屋上を駆け、銀河を揺るがす物語が動き出した。

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