仲良くなれる人

@anv

友だち

 保健室に天使が眠っていた。


 瞳を閉じていてもわかる。彼女の顔は、高校生にしてはあまりにも幼かった。


 それに、背丈もない。150cmはあるだろうかという程度だ。


 その小さな身躯を丸めて、真っ白な毛布を抱きしめている。


 耳を澄ますと、囁かな寝息が聞こえてくる。


 私は隣のベッドに横になることも忘れ、しばらくその姿を眺めていた。


 可愛らしい。


 保健室の先生に声をかけられるまで、我を忘れて見惚れるほどに。


「香坂さん、一応、体温測ろうか」


「あ、はい」


 先生から体温計を受け取り、ベッドに腰を落ち着ける。あまり座り心地はよくない。


 間もなくして体温計の音が鳴った。


 その速さに、優秀な体温計だなーと、家のものと比べて思う。


 36.8℃。全く問題はない。


 それもそうか。体調が悪くてここに来たわけじゃないのだから。


「ん……」


 女の子がかすかな声を漏らした。


 しまった。起こしてしまったか。


 起きるか起きないか、その様子を見る私の目は、まるで赤ちゃんを見ているようだろう。


 じっと見つめていたから、彼女が目を開けたとき、視線がかち合った。


 ああ、起きちゃった。


「ん」


 まだ寝ぼけているようだ。


 それにしても、改めて顔を見たらより幼い印象を受ける。


 大きな目。小さな鼻と口がそれをさらに強調させているような感じだ。頬はふっくらとしていて、桜の花びらのような紅みを持っている。


 ぱちぱちと瞳を開閉させた彼女は、突然大きな声を上げた。


「し、失礼しました!」


 彼女は飛び上がり、あっという間に保健室を出て行った。


 私は、彼女が去った後の静寂の中、呆然となった。



 翌日、私は重い足取りで下駄箱へと向かっていた。


「はあ」


 白い吐息が空気に溶け込む。


 昨日の今日だ。まだ教室には行きたくない。結局、昨日はあのままずっと保健室にいたし。


 いっそのこと、今日も保健室に行こうか。


 少し考えて、頭を振る。


 ここで甘えたら、きっともっと教室に行きづらくなる。


 気合を入れ直し、スニーカーから上履きに履き替える。


 それから歩き出そうとした時。


 視線の先に、覚えのある顔が見えた。


「あ」


 あの子……昨日保健室にいた………。


 少し離れたところで彼女もこちらを見ている。


 ただ、だからといってどうすることもない。保健室で偶然出くわした人なんて、全くの他人と同じだ。


 私は特に気にすることもなく、歩き出した。


 彼女にとってもそれは同じだったのだろう。一瞬目が合っただけで、すぐに逸らして歩き出した。


 今日は教室に行くのかな。


 彼女が向かう方向から、そんなことを考えた。


 そう思うと、少しだけ、教室に行く気力を貰えた気がした。



 教室の扉を開ければ、飛んでくるのは好奇の目線。


 私が入ったことにより一瞬だけ静まりかえった教室だが、すぐにいつもの騒がしさを取り戻した。


 あちこちから聞こえてくる雑談のどれもが、わざとらしく聞こえる。


 きっと、話したいことはそれじゃない。


 恋愛に面倒はつきものだと思う。


 だから、男子に対しては徹底して冷たく接していた。少しも勘違いさせないように。


 それなのに、やっぱり事は起きた。


 女の嫉妬は恐ろしい。何度も思い知ってきたことだ。その度に人間関係がこじれて、居心地が悪くなる。


 だから、いつの日からか私は、人と関わることを避けるようになった。


 ほんの些細なことで崩れる程度の関係だ。そんなもの、最初からなくていい。


 そう、思うようにしている。


 自分に問いかければ、人との繋がりを求めていることくらい、すぐにわかるのに。

 

 

 その日はひどい雨だった。


 雨粒が地面を叩きつける音が、世界を支配していた。

 

 雨は嫌いじゃないけれど、流石にこの量は困る。


 しばらくは止む気配もないから、私は帰路につくことにした。


 下駄箱から正門という短い距離でもびしょ濡れになる。それに、靴下が水で湿って気持ちが悪い。


 心が弱っている時は、こんなことでさえも重く感じてしまう。


 正門を右に曲がって、水たまりになっている場所を避けながら進む。


 そうやって下ばかり見ていたから、直前まで気が付かなかった。


 私は足を止める。


 雨で視界が悪かったけれど、そこにいるのが誰なのかはわかった。


「ちょっと、大丈夫?!」


 保健室の子だ。

 

 ただ、その姿には保健室で見た可愛らしさは欠片もない。


 座り込んで俯く顔はくしゃくしゃ。髪も張付いている。彼女の周りには教科書が散乱していて、只事ではないことが察せられた。


 私はとりあえず教科書たちを彼女の鞄にしまった。


「立てる?」


 手を差し伸べると、彼女はゆっくりと顔を上げた。


 その瞳に見据えられると、何だか私の方が泣きたくなった。


「この前の……」


 私が誰なのかわかったらしい。彼女は私の手をおもむろに握る。


 立ち上がり、自宅へと向かった。雨は、降り続けていた。



「これ、タオルと着替え。風邪引かないうちにシャワー浴びてきな」


 家が学校から近くてよかった。あの雨の中、彼女に肩を貸して長時間歩くのは流石にきつい。


「で、でも。先輩だって濡れてるし……」


「私のことはいいから。さ、早く」


 私は強引に彼女をバスルームへ押し込んだ。


 本当は私だって今すぐシャワーを浴びて着替えたかったけど、客を後回しにするわけにはいかない。


 相当急いだのだろう。彼女は十分ほどで浴室から出てきた。


 交代で私もシャワーを浴びたのだが、私は私で彼女をあまり待たせるのもよくないと思い、同じく十分ほどで着替えまで済ませた。


 リビングに入ると、彼女が居心地悪そうに食卓の椅子に座っていた。


「あ、ありがとうございます。色々と……」


 立ち上がり、何度も頭を下げる。


「気にしなくていいよ。それより……」


 あそこで何をしていたのか。


 それを尋ねようとして、寸前で思いとどまった。


 なんだか、触れてはいけないような気がしたのだ。


「あなた、名前は?」


 そういえば、彼女は私のことを先輩と呼んだ。たぶん、制服のネームプレートの色で判断したのだろう。


「七瀬陽葵、です」


 ひまり……。容姿に違わない可愛い名前だと思った。


「ひまりちゃん、お家は?」


 年下だからか、言葉遣いが幼くなってしまう。


「少し、遠いです。バスで30分くらい」


「そう」


 休ませた方がいいかと思い、コーヒーを淹れることにした。


「あ、あの! 私も手伝います!」


「いいよいいよ。ていうか、お客さんに手伝わせるわけにはいかないし」


「で、でも、流石に面倒をかけすぎてるから……」


「面倒じゃないよ。心配ではあるけどね」


「……すみません。ありがとうございます」


 そう言いつつもひまりちゃんは申し訳なさそうな表情をしていた。


「ひまりちゃんって可愛い名前だよね。どんな漢字なの?」

 

 彼女の気を紛らわせようと、適当に雑談を振る。


「太陽の陽に、向日葵の3文字目です。あの、あおいって読む……」


「ああ、あれね。やっぱりいい名前。ひまりちゃんって感じ。って、大してひまりちゃんのこと知らない私が言うのもなんだけど」


「先輩のお名前は、なんていうんですか?」


「私は、香坂春菜。香水の香に坂道の坂。季節の春に野菜の菜」


「香坂、春菜さん……素敵です」


「そう? まあ、名字は結構気に入ってるんだけどね。名前わな〜、なんか無難って感じ」


「そんなことないです! 春菜って、すごく爽やかで可愛いと思います! それこそ、春菜さんにぴったりっていうか。あ、すみません。私も、春菜さんのことあんまり知らないのに……」


「あはは、いいよいいよ。あんまり名前を褒められたことないからうれしいし」


 そうこう言っているうちにコーヒーを淹れ終わり、私はひまりちゃんの向かいに座った。


「はい、どうぞ」


「ありがとうございます」


 私が一口飲むのを待ってから、ひまりちゃんは控えめにコーヒーを口にした。


「おいしい……」


「そ? よかった」


 なんだか変な気分だ。同じ学校の1年生、それも友だちとも言えないような女の子が私の家にいるというのは。


 人生、どんな出会いがあるのかわからないものだなあ。なんて、大した人生経験も積んでないくせにそんなことを思った。


「あの、1つ訊いてもいいですか?」


 ひまりちゃんが遠慮がちに言う。


「ん? うん」


 わざわざ確認を取るということは、話しにくいことだろうか。


「昨日、なんで保健室にいたんですか?」


 それは、私が気になっていたことでもあった。


「あ、あの、答えたくなかったら全然大丈夫です。あんまり踏み込んでいいことじゃないような気もするし……」


 慌てた様子でフォローする姿に、やっぱり良い子だよなと感じた。


「あれね、少し教室で嫌なことがあったの」


 深刻にならないよう、できるだけ軽い口調で伝えた。

 

「だから、教室には行きたくなくてさ」


 深い事情は話さないことにした。お互いを暗い気持ちにさせるだけだと思ったから。


「ひまりちゃんは?」


 彼女の方から尋ねてきたのだから私もいいかと、思い切って訊いてみることにした。ただ、口調はあくまでも軽く。


 ひまりちゃんは少し言葉に詰まったように見えた。


 そして、ぎこちない笑顔で答えた。


「私も、そんな感じです」


 その表情と言葉には、今の私が踏み込んではいけないものがたくさん詰め込まれている。そんな風に思ったから私は、


「そ。じゃあ、仲間だね」

と、それだけを言っておいた。


「……はい」


 今度の笑顔は、少しだけぎこちなさが影を潜めたようだった。


 友だちになれる人。


 世界には80億もの人がいる。


 絶対に不可能だけど、そのすべての人と話してみたとする。


 今の私には、そこまでしたとしても、たった1人でも友だちになれるとは思えない。


 だから、ひまりちゃんとも本当の意味で友だちになれるとは、今は到底考えられない。


 それでも、ひまりちゃんとはもう少し話してみたいと思えた。


 その先、私たちの関係がどうなるのか。


 それを、確かめてみたい。

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