第2話『矛盾する雨の夜』
雨のページに、蛍光ペンで線を引いた跡が残っていた。
事件当日の気象データを印刷した紙を、私は自分のデスクの上で広げた。気象庁のサイトから落とした「神波市」の一時間ごとの降水量のグラフ。そこには、淡々とした数字で、あの夜の「公式の空」が記録されていた。
午後四時から、〇・五ミリ。
午後五時、一・〇ミリ。
午後六時、一・五ミリ——弱い雨。
午後七時、二・〇ミリ——やや強く。
前回の面会で、真壁惣一は「家を出たときは降っていなかった」「駅まで歩く途中で頬に当たるくらい」「マンションに着くころには本降り」と言った。数字だけ見れば、その物語は大きく外れてはいない。けれど「何時に家を出たのか」を彼はまだ一度も口にしていない。
時間がないので、ととりあえずタイムラインのメモに、仮の枠だけを書き込んだ。
——一七時台? 自宅発
——途中コンビニ寄り(一七時台後半?)
——一八時前後、セレスティア神波着
——一八時台? 室内でのやり取り
——一八時〜一九時台? 犯行推定時刻
推定ばかりの行が並ぶメモを見ていると、法律の世界で好まれる「客観的」という言葉が、急に心許ないものに思えた。
デスクの端には、担当検事から届いたメールのコピーも置いてある。防犯カメラ映像の解析結果——玄関前のカメラに映る「真壁の入退出」は、十八時四十七分入館、十九時十二分退館とされている。
数字はいつだって、揺れないふりをしてそこにある。
それでも、私は前回の面会メモの端に自分で書いた一文から目を離せなかった。
——傘:本人は「持っていない」と明言(報道との矛盾)
「……やっぱり、一度、時間を全部聞き直すしかないか」
誰に聞かせるでもなく呟いて、私はファイルを閉じた。面会許可の時間が近い。神波拘置所までは、事務所から電車で十五分、そこからさらに歩いて十分。冬の空は、今日も薄く曇っている。
*
神波拘置所の正門をくぐるたび、私は自分の靴音が周囲の音から浮いているような気がする。コンクリートと鉄とガラスでできた空間は、人の声よりも、扉の開閉音やアナウンスのほうが、よく響く。
受付で面会申請書を出し、弁護士バッジを示し、面会票を受け取る。その一連の流れは、二回目にしてもうほとんど身体が覚え始めていた。
番号札には「7」と印字されている。小さなプラスチック片を指先で弄びながら、自販機の前に立った。前回はホットのブラックを買って、舌を少し火傷した。今日は無難に、微糖を選ぶ。
缶が落ちてくる鈍い音と、取り出し口の冷たい金属。
そのささやかな感触が、面会前の自分を現実側につなぎ止めてくれるような気がしていた。
「——七番の方、準備できました」
呼び出しの声に頷き、私は面会室へ向かう扉をくぐる。重い金属音。内側からかかる鍵の音が、一度だけ響いた。
*
神波拘置所の一般面会室は、やはり記憶どおりだった。白い壁とガラスの仕切りがいくつも並び、同じようなテーブルと椅子が整然と並んでいる。天井の蛍光灯はやや青白く、壁の高い位置にはデジタル時計がひとつ。
前回と同じ席に案内されると、すでに向こう側には真壁が座っていた。薄いグレーのスウェット姿。受話器をまだ取っていない右手が、テーブルの端で所在なさげに動いている。
私に気づくと、彼は少しだけ頭を下げた。
「どうも……」
受話器を取り、私もガラス越しに挨拶を返す。
「こんにちは、真壁さん。小峰です。今日も、よろしくお願いします」
「はい。わざわざ……」
言いかけた彼の視線が、一瞬だけ私の左手の缶コーヒーに落ちた。
「それ、微糖ですか」
「ええ。前回、ブラックで失敗したので」
自分でも意外なくらい、軽い返しが口から出た。真壁は、ほんの少しだけ口元を動かした。笑ったのか、そう見えたのか、自分でも判断がつかない。
彼の前の台には、水の入った紙コップがひとつだけ置かれている。
私は、いつもの前置きから始めることにした。
「今日の面会の目的を、最初にお伝えしておきますね」
手帳を開き、前回のメモをちらりと確認する。
「前回、事件当日のお話を一通り伺いました。そのうえで、いくつか、時間や順番についてもう少し詳しく確認したい点があります。同じことを何度も尋ねるように感じられるかもしれませんが、記録のためとご理解いただければと思います」
真壁は、少しだけ目を瞬かせてから、こくりと頷いた。
「はい……僕のほうこそ、前に変な話し方をしていたらすみません」
「変、というわけではありません。ただ、どうしても人は、後から思い出すときに順番を入れ替えてしまうことがありますから。そこを一緒に整理させてください」
自分に言い聞かせているような口調になってしまい、内心で少し苦笑した。
*
「では、まず——家を出られた時間から、改めて伺ってもいいですか」
私は手帳の新しいページに「当日タイムライン(真壁供述・第二回)」と書き込み、ペン先を構えた。
「ええと……」
真壁は、天井の時計を一度見上げ、それからガラス越しの私の顔に視線を戻した。
「夕方、ですよね。暗くなってきてたので……六時、くらい……だったと思います」
六時。私は数字を書き込みながら、前回のメモを頭の中で繰る。前回は「夕方くらい」としか言っていなかったはずだ。今回、初めて具体的な時間が出てきた。
「六時ちょうど、くらいでしょうか。それとも、前後に少しずれがありますか」
「たぶん……五分とか、十分とか、そのくらいはずれてると思います。すみません、時計をちゃんと見て出たわけじゃないので」
「いえ、構いません。六時前後、ということで」
私はそう言いながら、「18:00頃 自宅発?」と書き込む。
「家を出るとき、その時点では、雨はどうでしたか」
「そのときは……まだ降ってなかったと思います。地面も、そんなに濡れてなかったです」
前回の供述と同じ答えだった。私は頷き、「降雨なし」と付記する。
「それから、途中でコンビニに寄られた、と前回おっしゃっていましたね」
「はい。駅の近くの……いつも行くところです」
「家を出てから、コンビニに着くまでに、どのくらい時間がかかった印象がありますか」
真壁は少し考え、また時計を見上げた。彼の癖であることは、もう分かっている。
「十分……くらい、ですかね。信号にもよりますけど」
「では、六時十分ころコンビニ着、としておきます。そこで、缶コーヒーと、家賃分の現金を——」
「下ろして、それからレジで、封筒に入れてもらったりして……たぶん、五分か、七分くらい、いたと思います」
数字が増えていく。私は心の中で簡単な足し算をしながら、手帳にはあくまで淡々と書き込む。
「六時十五分から二十分くらいにコンビニを出たとして……そのとき、外の様子はどうでしたか」
「そのときは……あ、そうだ。外に出たら、ちょっとだけ、パラパラって。傘まではいらないくらいでした」
「前回も、『駅からマンションまでの間で頬に雨が当たり始めた』とおっしゃっていましたね」
「そうですね、はい」
「その、『頬に当たる』くらいの雨というのは、コンビニを出た直後から、もう降っていた、ということでしょうか。それとも、少し歩いてから」
「えっと……」
真壁は、受話器のコードを指でねじり始めた。前回と同じ仕草だった。
「コンビニを出たときに、すでに……ああ、でも、屋根があるから。その、庇の下から出たときに、ですね。だから、駅のほうに向かってちょっと歩いたら、『あ、降ってるな』って」
「その時点では、傘を差していた人は、見かけましたか」
少し意地悪な質問だと思いながらも、あえて尋ねた。前回、「折りたたみ傘は持っていない」と言い切った彼の言葉が、頭の片隅でしつこく響いていたからだ。
「……一人、二人くらいは、いたと思います。通りの向こう側とか」
「色や形を覚えていますか」
「え? 色、ですか」
自分で聞いておきながら、尋問口調になっていくのを自覚し、少しだけ声の調子を落とした。
「いえ、もし印象に残っていたらで結構です。例えば、すごく派手な色だったとか」
「派手、というほどでも……ええと、オレンジ色っぽいのが一つと、あとは、黒か紺か。そのくらいしか」
「オレンジ色」
私はそこにも小さく印を付けた。あとで自分が読み返したとき、「なぜこんなことまで聞いたのか」を思い出せるように。
「コンビニを出てから、駅までは?」
「歩いて……五分くらい、です。信号次第ですけど」
「そのあたりで、雨脚は変わりましたか」
「少し、強くなってきた、ような気がします。頬に当たるのがはっきり分かる感じで」
「駅からマンションまでは、徒歩で十分くらいでしたね」
「はい」
「その間に、さらに雨が強くなった、という感覚はありますか」
「……どうだったかな。マンションの前に着いたときには、『これは傘があったほうがよかったな』とは思いました。コートの肩とか、少し濡れていたので」
「前回は、『マンションに着くころには本降りだった』とおっしゃっていました」
私がそう指摘すると、真壁は「ああ」と小さく声を漏らした。
「そう、言いましたか」
「ええ。メモにも残っています。『本降り』という言葉でした」
「すみません……その、感覚的な話なので。僕の中では、『これ以上濡れたくないな』と思ったら、本降り、みたいなところがあって」
冗談めかした言い回しではなかった。彼は本気で、自分の語彙の曖昧さを申し訳なさそうにしているように見えた。
「じゃあ、そのときの雨は、『真壁さんにとっては傘が欲しいくらい』の強さ、ということでしょうか」
「そうですね。たぶん」
私は「本降り」という言葉に二重線を引き、「傘が欲しい程度」と書き直した。
数字も、言葉も、いつだって、揺れる。
*
「一つだけ、少し客観的な数字も確認させてください」
私は、事前にプリントしてきた資料を手帳の間に挟んだまま、直接は見せずに話を続けた。
「防犯カメラの記録では、真壁さんがマンションの自動ドアを通過したのは、十八時四十七分になっています。覚えていらっしゃいますか」
「……はい。警察の人に、そう言われました」
「家を六時ころに出て、コンビニに十分弱、駅まで五分、改札を通って電車に乗って——。ご自宅の最寄り駅からセレスティア神波の最寄り駅までは、電車で何分くらいでしたか」
「十三分か、十五分……くらいだと思います。各駅停車なので」
「そのくらいの時間だとすると、十八時四十七分というカメラの時刻と、大きくは矛盾していません。むしろ、ぴったりくらいです」
自分に言い聞かせるようにまとめてから、私は少しだけ間を置いた。
「ただ、真壁さん。前回の面会では、『自分でも何時だったかよく覚えていない』とおっしゃっていました。今日のほうが、具体的な時間がすらすら出てきている印象があります」
真壁は、受話器を持つ手に力を込めた。
「すみません……こないだは、緊張していて」
「緊張、ですか」
「はい。初めてだったので。先生と話すのも、こういうところにいるのも。だから、ざっくりとしか言えなかったというか……あと、取り調べでも同じ話を何度もしてきたので、どのときにどう言ったかが、ごちゃごちゃになっていて」
それは確かに、彼に限らず、被告人の多くがたどる道なのだろう。供述調書の文言と、自分が本当に口にした言葉の境界が、どこかで曖昧になっていく。
「取り調べのときは、時間についてはどう話しましたか」
「『夕方ごろ』としか言わなかったと思います。警察の人が、『じゃあ、六時ごろね』って言って……調書には、そう書かれてました」
私は、手帳の別のページに書いてあったメモを思い出す。——「夕方六時ごろ、自宅を出た」。それは、調書の文言として、すでに「事実」として固定されている。
「分かりました。では、真壁さんの感覚としては、『夕方』『六時くらい』という表現がぴったり来る、ということですね」
「はい。そんな感じです」
その曖昧さを、弁護側はどこまで積極的に使うべきなのか。私はまだ答えを持っていなかった。
*
「次に、マンションに着いてからのお話を、もう一度だけ、教えていただいてもいいでしょうか。前に伺った内容と重なる部分も多いと思いますが、いくつか確認したい点があります」
「……分かりました」
真壁は、一度深く息を吐いてから、目を閉じた。まぶたの下で、何かをなぞるような時間が数秒流れる。
「マンションのエントランスで、インターホンを押しました。『はい』って岡島さんの声がして、『真壁です』って名乗って。いつものように、『どうぞ』って言われて——それで、自動ドアが開いて」
ここまでは、前回とほぼ同じだった。私は時々、単語を抜き書きする程度にとどめ、彼の言葉の流れを遮らないようにした。
「エレベーターで十階まで上がって。廊下は、窓のところから雨が見えました。線みたいに、流れていて」
雨の描写は、前回よりも少しだけ具体的になっている。「線みたいに」という言葉が、妙に耳に残った。
「部屋の前に着いて、チャイムを押そうとしたら——鍵は、閉まってなかったと思います。ドアノブをひねったら、開いたので」
「前回は、『中からチェーンを外す音が聞こえた』とおっしゃっていました」
私が口を挟むと、真壁の瞳が一瞬だけ揺れた。
「そう……言いましたか」
「ええ。『ガチャガチャって音がしてから、ドアが少し開いて、岡島さんが顔を出した』という描写でした」
「すみません……」
謝罪の言葉が、条件反射のように出てくる。
「その……どっちが本当か、もう、分からなくなってしまっていて。もともとは鍵が開いていたんだと思うんですけど、取り調べのときに、『チェーンは?』って何度も聞かれて……そのうち、チェーンの音がしていたような気もしてきて……」
私は、思わずペンを止めた。ガラス越しに見える彼の右手が、受話器のコードをねじる回数を増やしている。
「チェーンのことは、捜査でもかなり詳しく聞かれましたか」
「はい。『最初からかかっていたのか』『あとからかけたのか』とか……。僕は、『最初はかかっていなかったと思う』って言ったつもりなんですけど、そのあと、『じゃあ、いつかけたんですか』って聞かれて……。そのときに、『中から音がしたような』って、言っちゃったのかもしれません」
「言っちゃった、というのは」
「ほんとは、はっきりとは覚えてないのに。そういう音がしていたほうが、『密室』っていう話には、合うのかなって……」
言い終えたあと、自分でその言葉に驚いたように、真壁は口を閉ざした。
「『密室』っていう話、というのは」
「ニュースで、そう言われていたので。『完全な密室殺人』とか。だから、チェーンのこととか、鍵がどうとか、そういうのが大事なんだろうなって」
彼の視線が、ガラスの向こうのどこか、私の肩のあたりをさまよった。
「でも、僕がそういうふうに考えて話すのは、よくないですよね。すみません」
「……いいえ」
私は、受話器を握る手に力を入れた。彼を責めたいわけではなかった。
「真壁さん。大事なのは、『何がニュース映えするか』ではなくて、『真壁さんがどう感じ、どう行動したか』です。曖昧なところは曖昧なままでも構いません。ただ、その曖昧さがどこから来ているのかは、私も知っておきたい」
言いながら、自分自身にも向けられた言葉だと感じた。弁護士として、私はいつも、「きれいに整理されたストーリー」に誘惑されている。
*
「室内での会話の時間についても、改めて伺ってもいいですか」
話題を少し先に進めることにした。
「前回は、『十分か十五分くらい話した』とおっしゃっていましたが、今日は、『三十分近く』と供述なさっている、と捜査記録にはあります」
「……そうなんですか」
真壁は、ほんのわずかに首を傾げた。
「感覚としては、どのくらいでしたか」
「長かった……ような、短かったような。すみません。時計は見ていなかったので」
「怒鳴り合いになったような時間はありましたか」
「怒鳴り合い、までは……。向こうは少し声が大きかったですけど、いつものことなので」
「いつも、というのは」
「家賃の話をするときは、だいたい、ああいう感じで。『いつ払えるのか』『仕事はどうなっているのか』とか」
そう言うときの真壁の声は、不思議なほど感情が抜けていた。怒りも、悲しみも、諦めも、ほとんど乗っていない。ただ、「事実を説明する作業」として言葉を並べているように見えた。
「その会話の中で、真壁さんのほうから、何か『約束』のようなものをした記憶はありますか。例えば、『いつまでにいくら払う』とか」
「……いくら払う、とまでは。『できるだけ早く』って、いつもと同じようなことを言ったと思います」
「そのとき、岡島さんのほうから『保証人』の話は出ませんでしたか」
自分でも、少し唐突だと感じる質問だった。それでも、口に出してしまっていた。
家賃トラブルの話題に、「保証人」が影のようにちらついたからだ。
真壁の目が、ほんの少しだけ細くなった。
「保証人……ですか」
「はい。契約書を確認したところ、保証人の欄には『真壁静』というお名前がありました。……真壁さんの、お姉さま、ですよね」
初めて、その名前を口に出した。面会室の空気が、少しだけ変わるのを感じた。
真壁は、受話器のコードから指を離し、両手で受話器を支え直した。
「……そうです。姉です」
「当日の会話の中で、岡島さんのほうから、その『静さん』のお名前が出たことは」
「……」
短い沈黙。面会室の外側から、誰かの笑い声が途切れ途切れに聞こえた。遠くのガラス越しの会話は、いつも一部だけがこちらに届く。
「少し、だけ」
ようやく、真壁が口を開いた。
「『お姉さんはどう思ってるんだ』みたいなことは、言われました。『保証人にも迷惑かかるんだぞ』とか」
「それに対して、真壁さんは」
「『これ以上迷惑はかけません』って。そう答えたと思います」
「それ以上、静さんの話題は」
「……別に、ないです」
ぴしゃりとした言い方ではなかった。けれど、その「ないです」は、小さな扉が静かに閉じられる音のように、耳に残った。
「この事件とは、関係ないですから」
真壁は、付け足すようにそう言った。
「姉は、ただ保証人になってるだけで。お金のことも、ほとんど……。岡島さんと直接話したことも、あまりありません」
「『あまり』」
私がその言葉を繰り返すと、真壁はまた、天井の時計を見上げた。デジタル表示は、面会開始からすでに十五分近くが経っていることを示している。
「……昔、少し」
「昔、というと」
「だいぶ前です。今回のこととは、関係ないです」
「でも、真壁さんの中では、何か繋がっている感じがしますか」
「……さあ」
答えになっていないのは明らかだった。それでも、これ以上踏み込んでよいのかどうか、私は迷った。
弁護士としての私は、「関係があるかどうかを決めるのは、こちら側だ」と思っている。けれど、目の前の彼の「これ以上は話したくない」という気配を、無視することもできなかった。
私は結局、別の問いを選んだ。
「静さんには、この事件のことを、どこまで話していますか」
「……『僕が全部やった』とだけ」
その言葉を口にするとき、真壁は初めて、はっきりと視線を逸らした。受話器の向こうで、彼の喉が、ごくりと動いたのが見える。
「『全部』というのは」
「そのままの意味です」
彼は、それ以上説明しようとしなかった。
*
面会終了のチャイムは、唐突に鳴る。
「時間です」
職員の声が背後からかかった。私は、まだ真壁の「全部」という言葉の重さをどう扱っていいか分からないまま、慌てて手帳を閉じた。
「今日は、ここまでにしましょう」
そう告げると、真壁は小さく頷いた。ガラス越しの彼の顔は、どこかほっとしたようにも、失望したようにも見えた。
「先生」
受話器を下ろしかけた彼が、もう一度それを持ち上げた。
「はい」
「さっきの、その……時間のことで。僕、もしかしたら、前に話したことと違うことを、たくさん言ってるかもしれません」
「ええ」
「どっちを信じるかは、先生にお任せします」
「それは——」
「僕は、自分でも、自分の話がどこまで本当なのか、よく分からないので」
そう言って、彼は小さく笑った。目だけ笑っていない笑い方だった。
「でも、少なくとも一つだけ、前と同じことは言えます」
「何でしょう」
「傘は、持ってませんでした」
その言葉だけは、はっきりしていた。
「分かりました」
私は頷いた。何に対して頷いたのか、自分でもはっきりしないまま。
「また、来週伺います」
「はい」、椅子が引かれる音。職員に促されて立ち上がる真壁の背中を、ガラス越しに見送る。彼が扉の向こうに消えると、面会室には、他のブースから漏れてくる断片的な会話と、壁の時計の秒表示だけが残された。
*
拘置所の外に出ると、空は一面の曇りだった。雨は降っていない。けれど、遠くのほうで、低く垂れ込めた雲の色が、いつでも水を落とせる準備をしているように見えた。
私は、手帳を開いて、今日のメモをざっと見返した。そこには、二つ目のタイムラインが並んでいる。
——家を出た時間:十八時ごろ(真壁の感覚/調書上は「夕方六時ごろ」)
——コンビニ:十八時一〇分〜二〇分ころ(缶コーヒー・現金)
——雨:コンビニを出たときには「頬に当たる程度」
——マンション前到着:十八時四十分前後
——防犯カメラ:十八時四十七分入館
数字だけ見れば、整合性はある。けれど、そこに重ねられた言葉——「本降り」「傘が欲しい程度」「パラパラ」——は、前回と微妙に重なり方を変えている。
そして、新たに書き加えられた名前。
——保証人:真壁静(姉)
——当日の会話で「姉」の話題あり(本人は「この事件とは関係ない」と強調)
私はペン先を宙に止めたまま、しばらく動けなかった。
どのバージョンを、私は「記録」として残すべきなのだろう。
どの雨の夜が、「公式」になるのだろう。
答えの出ない問いを抱えたまま、私は手帳を閉じた。冬の曇り空は、何も語らないまま、ただ頭上に広がっていた。
傘の柄を握る感触の代わりに、私は鞄の持ち手を握り直した。
——少なくとも、今日の神波は、まだ降っていない。
そう心の中で呟いて、私は駅へ向かって歩き出した。
語られない密室 夕陽野ゆうひ @yuhino_yuhi
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