その翡翠き彷徨い【第78話 風】

七海ポルカ

第1話






 音の無い世界が広がっていた。




 目の前は果てしなく暗い。

 穂の広がる草原を、歩いていた。

 手に触れる柔らかい草の触感が、辛うじて草の道を辿る自分を自覚させる。

 頬を、風が触れて行った。

 立ち止まり、ゆっくりと、風が触れた頬を、自分の指で辿ってみる。

 先日そこに走ったはずの深い裂傷は、すでにない。

(傷なら癒える)

 癒えるはずだ。


 ……また傷を抉られるために。


 何も映さなくなった自分の瞳を開いて、メリクは思った。

 悲しい。

 寂しい。

 傷つきたくない。


 そんな風に、素直に心に思っていた、幼い日の自分のことを。

 そして、……全くそんな風に思わなくなった、今の自分を。


 思えば生前も、死ぬ間際はそんなところがすでにあった。

 目的も無く、取り留めもなく、ただ器だけで彷徨う不死者の様に、エデンという世界を漂っていたのだ。


 メリクはゆっくりと、その場に腰を下ろした。

 

 穂は柔らかく腰を折り、メリクの身体を受け止めてくれる。


 異界【天界セフィラ】。

 ここは地上を襲った【次元の狭間】のように、異空が世界に現われた時、数人の魔術師が迷い込み、異空は全ての生物を消滅させるような場所もあるが、ここは違ったので、彼らはここに街を作り、城を作り、自分達だけの国を作った。


 ここは魔術師達の楽園なのだ。


 異界が他の世界と繋がりを持てるのは一定時間だけで、ここも長い間どこの世界とも繋がっていなかったのだが、【次元の狭間】がエデンを襲った時にその影響を受け、エデンと時空が繋がった。

 地上とここでは流れる時間が違うから、

 地上で一週間経っても【天界セフィラ】では十年経っていたりする。

 一定ではなく、時間が歪んでいるのだと誰かが言っていた。


 今回もいずれ【エデン】との行き来は出来なくなるだろうと言われている。

【四大天使】はそれまでに地上の優秀な魔術師や、力ある者たちが死んだ時、その魔力が宿る遺品を辿って彼らを【天界セフィラ】に導こうとしていた。



 永遠にも優しい風が吹き、

 永遠にも晴れ渡り、

 永遠にも草木、花たちは咲き誇る場所。


 永遠にそこに在る。



 ザザザ……。



 微かに風の音が聞こえた。

 鳥のさえずりが。

 水の音が。


『聖なるかな』の賛美歌が。


 幾重にも【天界セフィラ】の恩恵を高らかに歌い上げる。

 その輝く【天宮】の外周に広がる、なだらかな丘に座って、メリクは風の音をただ聞いていた。



【お前の、他人に寄生してまでどこまでも生きようとする醜悪な魂は

 結局死んでもなお、変わらなかったわけか。

 サダルメリク。

 貴様のその面を見たこの瞬間、俺は地獄に蘇ったことを実感している】



 ザザザ……。



 風が下方へと吹き降ろして行く。

 この風を辿って行けば、どこに辿り着くのだろうか?


 メリクはそんなことをぼんやり考えた。


 ……誰も自分を知らない。

 誰も自分を呼ばない。


 そんな地へ行けるのだろうか。


(風を辿れば)


 誰も傷つけない場所に、行けるのだろうか。



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