第9話
親子の和解と最強のバックアップ
ライブ会場の裏手に設けられたVIPテント内は、深海の底のような重圧に包まれていた。
「……それで? 私の娘に『パンの耳』を主食にさせ、『タミフル』なる謎の呪文を詠唱させ、あまつさえ『有給消化』などという怠惰な思想を植え付けたことについて、弁明はあるのかしら?」
ソファに座るリヴァイアサン女王が、優雅に扇子(貝殻製)を仰ぎながら問う。
その背後には、怒りを具現化したような水流の龍が、鎌首をもたげてこちらを威嚇していた。
私は冷や汗をダラダラと流しながら、直立不動で答える。
「ご、誤解です女王陛下! パンの耳はあくまで下積み時代のエピソードでして、現在は栄養満点の食事を……」
「近所の老婆からの煮っ転がしが栄養満点だと?」
「そ、それは地域コミュニティとの交流の一環でして!」
「口が減らない小娘ね……。やはり私が連れて帰ります」
女王がスッと立ち上がる。
空気が凍りついたその時、テントの入り口が開いた。
「お母様!?」
衣装のまま駆け込んできたのは、リーザだった。
彼女は母親の姿を見るなり、飛びついた――わけではなく、私の前に立ちはだかって両手を広げた。
「スカーレットさんをいじめないで!」
「なっ……!?」
女王が目を見開いて硬直する。
愛する娘が、感動の再会よりも先に、どこの馬の骨とも知れぬ地上人を庇ったのだ。ショックで背後の水龍がシュンと縮んだ。
「リ、リーザ……。お母様はいじめてなどいませんよ? ただ、少し『躾(しつけ)』をしようと……。さあ、こんな汚らわしい地上なんて捨てて、海へ帰りましょう。最高級の珊瑚のケーキを用意してありますよ?」
女王が猫なで声で手を伸ばす。
だが、リーザは首を横に振った。
「嫌です! 私は帰りません!」
「リーザ!? どうして……やはり脅されているのですね!?」
「違います! 私、ここが好きなんです!」
リーザは真っ直ぐに母を見つめ返した。
その瞳には、かつての弱気で泣き虫な人魚姫の面影はない。
「海にいた頃の私は、ただ守られているだけでした。でも、ここでは違う。私の歌で、みんなが笑ってくれる。元気になってくれる……。『ありがとう』って言ってもらえるんです!」
さっきのライブの光景が、女王の脳裏をよぎる。
ドワーフたちの笑顔。癒やされた冒険者たちの涙。そして何より、太陽の下で輝いていた娘の姿。
「私は……ここで『アイドル』として生きていきたいんです! スカーレットさんと、レオさんと一緒に、世界中を元気にしたいんです!」
リーザの魂の叫びが、テント内に響き渡る。
女王は口をパクパクさせ、言葉を失っていた。
娘の成長が嬉しくもあり、親離れが寂しくもあり、複雑な親心が顔に出ている。
今だ。畳み掛けるならここしかない。
私は一歩前に出た。
「陛下。彼女はもう、ただの深窓の姫君ではありません。何千、何万という人々の心を動かす『スター』なのです」
「スター……星、ですって?」
「はい。彼女の歌声は、国境も種族も超えます。先ほどの『タミフル(女神の奇跡)』をご覧になったでしょう? 彼女は世界を癒やす存在になる。……それを、海の中だけに閉じ込めておくのは、世界の損失です」
私が熱弁を振るうと、女王は迷うように視線を泳がせた。
そこに、最後の一押しが入る。
「安心しろ、リヴァイアサン」
それまで黙ってコーヒーを啜っていたレオが、重い腰を上げた。
彼が隣に並ぶだけで、その場の空気が『親子の揉め事』から『国家間の会談』へと引き締まる。
「彼女の身の安全は、この獣王レオの名にかけて保証する。……もし彼女に指一本でも触れる奴がいれば、俺がこの牙で噛み砕く。例えそれが神でも魔王でもな」
黄金の瞳が、確固たる意志を放つ。
同格の強者からの誓約。これ以上の保証はない。
女王はしばらく沈黙し――やがて、深いため息をついて扇を閉じた。
「……負けましたわ。あの泣き虫だったリーザが、こんなに立派な顔をするようになるなんて」
女王の目尻に、うっすらと涙が浮かぶ。
彼女はリーザに歩み寄ると、優しくその頬を撫でた。
「わかりました。地上に残ることを許しましょう」
「お母様……!」
「ただし!」
女王はキッと私とニャングルを睨みつけた。
「私の娘が『パンの耳』をかじるような生活など、二度とさせません! シーラン王家の威信に関わります!」
「は、はい! 今後は最高級のパンを用意させます!」
「生ぬるい! 資金が足りないと言うなら、いくらでも出しなさい!」
女王が虚空に手を掲げると、魔法陣が出現した。
そこからバラバラと降り注いだのは――。
真珠。珊瑚。深海の魔石。沈没船から引き上げた金塊。
文字通りの「財宝の山」が、テントの床を埋め尽くした。
「ひでぶっ!?」
ニャングルが奇声を上げて気絶した。あまりの金額(推定数億円)に脳の処理が追いつかなかったらしい。
「こ、これを活動資金にしなさい! 衣装も最高級のシルクを使いなさい! 食事は毎日フルコースよ! いいわね!?」
「あ、ありがとうございますぅぅぅ!」
私は平伏した。
これで資金問題は完全に解決どころか、オーバーフローした。
最強のバックアップ、ここに爆誕である。
◇
和解した親子が、涙ながらに抱き合っているのを、私とレオは少し離れて見ていた。
「……よかったな、スカーレット」
「ええ。これでリーザも、心置きなく歌えるわ」
肩の荷が下りて、私はホッと息をついた。
すると、レオが不意に私の肩を引き寄せた。
「ん? なに?」
「いや……お前は凄いなと思ってな」
「え?」
「女王相手に一歩も引かず、あの子の未来を勝ち取った。……お前がいたから、あの子は輝けたんだ」
レオの顔が近い。
その瞳は、リーザではなく、私だけを映していた。
真剣で、熱っぽい、大人の男の視線。
「お前は『裏方』だと言うが……俺にとってのスターは、間違いなくお前だ」
ドキン。
心臓が大きく跳ねた。
「……な、何よ急に。口説いても、牛丼くらいしか出ないわよ」
「ハハッ、今はそれでいいさ。……今はな」
レオは意味深に笑うと、私の髪を一房すくい上げ、軽く口づけを落とした。
それは挨拶なのか、それとも――。
顔が沸騰しそうな私を置いて、レオは「さて、ニャングルを起こしてくるか」と歩き出した。
その背中を見つめながら、私は自覚してしまった。
ビジネスパートナー? 共犯者?
いいえ、もう誤魔化せない。
私はこの、不器用で頼れる獣王様のことが――好きになってしまっているのだと。
◇
こうして、ルミナス帝国での基盤を盤石にした私たち。
借金は完済(というか、女王の財宝で黒字化)。
リーザは名実ともにトップアイドルへの階段を駆け上がり始めた。
そんなある日。
レオから一枚の招待状が届いた。
『ガルーダ獣人国・建国記念祭への招待状』
「次は俺の国で、大規模フェスをやらないか?」
獣王からの正式な招待。
それは、私たちのビジネスが次のステージへ進む合図であり――私とレオの関係が、大きく動き出す予感でもあった。
(待っててね、筋肉の国! 私たちのエンタメで、脳筋たちを熱狂させてあげるわ!)
新たな旅立ちの予感に、私の胸は高鳴っていた。
……まさかそこで、レオの「婚約者候補」を名乗る美女たちが待ち構えているとも知らずに。
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