灰の盤面

浅居りむ

1章 スマイル総合サービス

1話「早坂まこと」


「ねぇ君、逃走中って番組あるじゃん」

 女性は緊張感の欠片も無く、誠に向かって呑気に声を掛ける。

 思わず「はい?」と間抜けな声が、誠の口から飛び出していた。


「逃走中、知らない? スーツのお兄ちゃん達に追っ掛けられるテレビ番組」

「知ってますけど……」

「あれってさ、ハンターを足止めするアイテムあったよね?」

「は、はい」

 余りにも場違いな質問に対し、毒気を抜かれて返してしまう。一方の女性は「そっか、ならよし」と納得したのか、何度か頷いていた。続いて我に返った誠は、自分に掴み掛かってきた男の姿を探す。

 女性は自分と相手の間を割って入ったかのような位置に立っており、彼女の足元には倒れた男の姿があった。

「ならば、私が君のアイテムだ!」

 そう言ってドヤ顔を見せたショートボブの女性は、驚く誠に向かってニヤリと笑ってみせた。



 ◇ ◇ ◇



 早坂 誠は、真夏の繁華街を逃げ続けていた。

 通行人がこちらを伺う視線の種類も、ぐんぐん後ろに流れてゆくネオンの色も走るにつれ、徐々に様が変わってゆく。最初は派手な電飾が煌めく大通り、次に営業時間を過ぎたショッピングビルの脇。幾つか営業を終えたパチンコ屋が連なる通り。

 ここから引き返して駅の方に走ればまだ撒けたかもしれないが、今更考えても遅い。

 後ろを振り返れば、きっとすぐさま追い付かれる。

 相手が自分を探し回っていたファンだけならば振り切れただろうが、彼は半グレと思われる連中を何人かを引き連れていた。


 誠がたまたま外出から、潜伏先のネットカフェへと戻る寸前。ほんの些細な偶然と僅かな時間差で、潘の方が先にネットカフェへと押し掛ける姿を見たのは幸いだった。彼が引き連れている半グレ連中の中には、見知った顔の男も一人いた。そいつは脚が速いのも分かっていたので、誠は咄嗟に走り出していた。


 年々夏の気温は高くなり、今日も東京は熱帯夜だ。湿気が纏わりついて、全力疾走をしていると呼吸も辛い。痛み始めた脇腹が逃走の限界を告げるが、ここで止まるわけにはいかない。

 幼い頃から馴染みがある、この街の地理には詳しいのは幸いだった。若干スピードを落としながらも、辛うじて走れる狭さの路地裏を伝う。再び大通りへと戻ろうと角を曲がり、幾つ目かだった。

 まるで上から降ってきたかのように、誠の視界に影が差した。突如現れた人影との衝突を避けようと、身体を大きく捻る。だが走り続けていた疲れから、バランスを崩してしまった。

 足に痛みが走り、ぐらりと誠の身体が傾く。そのままブロック塀にぶつかり、アスファルトへと叩きつけられた。


「……あ、ごめん!」

 薄手のTシャツだけだったので、壁のコンクリートで肩も擦ったらしい。服の上からでもざらついた、砂の嫌な感触がする。

 上から降ってきた場にそぐわぬ女性の声に戸惑うが、何よりも鼻先を掠めたカビ臭く湿る側溝の臭いが不快でたまらない。身体が痛む中で、立ち上がろうと誠は目線をあげる。するとこちらに向かって、手を差し伸べる女性と目が合った。

 歳は恐らく20代の半ば。短く切り揃えたショートボブに、大きな両目がこちらを心配そうに向けられている。服もどちらかというと地味なTシャツにジーパンで、水商売の女性でも無ければ観光客にも見えない。繁華街の大通りでよく見るごく普通の、夜遊びに来ただけのような女性だ。

 転倒する直前まで、誠は彼女の存在に気付かなかった。ここはビルの裏側で細く狭い、暗い抜け道だ。後ろから来ているであろう相手に気を取られ過ぎて、まさか人が立ってるとは思わなかった。


 屈んで「大丈夫? 立てる?」と言ってこちらを伺う声と顔には、警戒の色一つ浮かんでいない。一言だけ「大丈夫です」と誠は言い放った。

 女性が伸ばしてくれた手を取ること無く、立ち上がる。しかし踵を返して再び走ろうと体重を掛けた時に、足首に痛みが走った。

 痛みで思わず上がった呻きは女性の耳にも届いたらしい。「足捻ったの?」と続いた問い掛けに対して、今度も「大丈夫です」と小さく返す。

 だが誠の言葉は、背後から掛けられた「動くな!」という制止の声によって、掻き消されてしまった。


「オマエら、潘さん探して呼んでこい!」

 追い付いてきた男の口から「潘」という名を聞いて、誠の身体は痛みを押し退け緊張で強張る。荒い呼吸も収まるどころか、更に激しさを増した。

 185cmの身長で大柄ながらも、誠は元々が臆病者だ。今も心臓が爆発するかのように速く痛いほどに脈打ち、酸素を求めて開く口は言葉を忘れていた。そして追われている恐怖を思い出した途端、足から震えが上がってくる始末である。

 背を向け再び逃げようにも、先程ぶつかりかけた女性がまだ後ろには立っていた。狭い路地なので、彼女を押し退けて走ることは難しい。そうしているうちに、追ってきた男が誠の肩を強く掴んだ。


「手こずらせやがって……」

 自分を見上げる男から溢れる荒い息は、煙草の匂いと共に怒気も含まれていた。潘の元へと差し出す前に、きっと一発は自分を殴る気だろう。振り上げられた拳から顔を庇おうと、目を閉じて咄嗟に腕を上げる。が、いつまで待っても痛みは訪れなかった。

 痛みの代わりに、短く空を切る音と温い風の感触が誠の肌に触れた。続いて短い呻きとドサリと倒れる音が聞こえる。何が起きたのか分からず、誠は恐る恐る目を開けてみる。先程まで自分の前に立っていた男の姿は消えていた。代わりに――誠の背後に立っていた筈の女性が、正面に立っていた。


「ねぇ君、逃走中って番組あるじゃん」

 女性は緊張感の欠片も無く、誠に向かって呑気に声を掛ける。

 思わず「はい?」と間抜けな声が、誠の口から飛び出していた。

「逃走中、知らない? スーツのお兄ちゃん達に追っ掛けられるテレビ番組」

「知ってますけど……」

「あれってさ、ハンターを足止めするアイテムあったよね?」

「は、はい」

 余りにも場違いな質問に対し、毒気を抜かれて返してしまう。一方の女性は「そっか、ならよし」と納得したのか、何度か頷いていた。続いて我に返った誠は、自分に掴み掛かってきた男の姿を探す。

 女性は自分と相手の間を割って入ったかのような位置に立っており、彼女の足元には倒れた男の姿があった。

「ならば、私が君のアイテムだ!」

 そう言ってドヤ顔を見せたショートボブの女性は、驚く誠に向かってニヤリと笑ってみせた。


 状況が飲み込めないが、逃げるのならば今しかない。誠は女性に一言だけ「ありがとうございます」と告げ、背を向けた。痛む足を庇いながら歩き始める。

 何故か女性も誠の後を付けてきているらしく、すぐ背後から「どういたしまして」という明るい声が聞こえてきた。

 これまでの逃走で相当の距離を稼いでいたようで、潘達にはまだ追い付かれていないようだ。歩くよりも若干早い程度の速度ではあるが、痛みを必死に堪えて大通りへと出る。細くカビ臭い裏路地からようやく表通りに出た事で、若干の安堵に包まれる。誠が人混みに紛れながらも歩き続ける中で、女性はなおも横に並んで話し掛けてきた。


「歩けるけど、走れない感じ?」

「はぁ、まぁ……」

「そっか」

 何故か付いてくる女性の質問に答えながら、誠はぎこちなく足を動かした。

 駅が近付くにつれ、人混みは増えていた。時間はまだ終電前で夏休み中の子供も多い。人が増え、明るさと賑わいが増えるにつれ、周囲の温度はさらに上がってゆくような錯覚を受けた。肌にじっとりと滲む汗を拭う余裕もなければ、周囲を歩く人々の視線でさえも今は恐ろしい。


 女性は先程のやりとり以降は、横にぴったりと付いているも何も話し掛けてくることはなかった。意味が分からない上に少々不気味さすら覚えるが、今は逃げることが先決なので気にしてはいられない。

 ゆっくりながらも我慢強く人混みに紛れて、二人はやがて大きなスクランブル交差点へと出る。今まで黙って横を歩いていた女性が、そこで唐突に動いた。おもむろに彼女は腕を引っ張ると、誠が向かおうとした駅とは別の方向へと歩き始めたのだ。

 女性の行動に誠は驚き、慌てて彼女の腕を振り放そうと身体を捩った。しかし自分よりも遥かに小柄な体格にも関わらず、彼女はびくともしない。半ば引き摺られるような形となった今、誠の中で不意に一端の不安が沸き出す。ひょっとすると彼女も、自分を追っていた中の一人なのか?と嫌な予感がした頃には遅かった。


 誠の腕を掴んでぐいぐいと歩く女性の足は、タクシー乗り場へと向かっていた。だが順番を待っている客の列には並ばず、素通りしてゆく。やがてずらりと並ぶうち一台の前で止まると、おもむろに手を上げた。

 後部座席のドアが開くやいなや、誠の身体は無造作に車内へと押し込まれていた。

「よう、中村ちゃん」

「やっほー、列の真ん中だけど幹さん見かけたから。どうせなら乗ろっかなって」

 運転手との会話の中で、彼女は中村という名前だと知る。中村が「短くてごめんね」と運転手に行き先を告げた。近場なのは分かるのだが、誠が知らない場所である。

「短くても有り難いよ」

「もし同業者に言われたら『足を怪我した友達が痛がってたから、先頭まで行けなかった』とでも言っといて」

 そう言って運転手と、中村の二人は楽しそうに笑い合う。

 未だに状況が飲み込めない誠の混乱をよそに、既にタクシーは客待ちの列から抜けて夜の街を走り出していた。


 必死に走って逃げたちっぽけな街の景色が、あっという間に後方へと流れてゆく。

 ぐるぐると頭の中を回る混乱は、まだ収まらない。だが恐怖心の方は、窓から景色を眺めているうちに。いつしか消え去っていた。




 ◇ ◇ ◇




 タクシーは10分程走ったところで停車した。

 場所は繁華街から抜けた住宅街の一角にある、マンションの横手である。先に降りて辺りを見渡していると、料金を支払い終えた中村が「こっち」と誠の手を引っ張り、二人はマンションの中に入った。

 彼女は手慣れた様子でキーをかざして、ロックを開けるとエントランスへと入る。ライトが照り付け、広く明るく綺麗なエントランスホールを引っ張られるままに歩き、誠も中村とエレベーターに乗る。

 誠の家はオートロックも無ければ、静かに上がってゆくエレベーターも無い。随分と違う自分の住まいとの差を感じながらも、電子パネルに目を向けていると、5階でエレベーターは止まった。


 静かな廊下を歩いて、向かった先は突き当りにある『507』と記された角部屋だった。中村は手に持っている鍵を挿して扉を開けた。

「遠慮しないで入って」

「……お邪魔します」

 場違いに思えるマンションでも、扉を開けて中に入れば偶然にも家と同じ芳香剤の匂いが漂ってきた。視線を下げると、揃えて並べられているスニーカーと革靴があった。両のサイズは明らかに違うが、二足とも男性のものだと分かる。

 自分も靴を脱いだ方がいいのか考えているうちに、既に中村は靴を脱いで上がっていた。「ただいま」と明るい声が響く。彼女が出した声の後で、廊下の奥にある扉が開いて男性が姿を現した。


「おい、ココ」

 低い声と共に奥の部屋から姿を見せたのは、中年男性だった。明らかにこちらを見る目は訝しんでいる。続いて「そいつ誰?」と、中村に問い掛けていた。

「誰だろね、名前聞いてなかった」

 悪びれずあっけらかんと告げる中村の言葉を聞いて、男の目が細められる。誠へと向けられた視線は、自分が歓迎されていないと分かるものだった。


「うちの馬鹿とのご関係は?」

「あ、え? お父さんですか?」

「違う」

 即座に否定されて、喉奥から小さな声が漏れそうになるが堪えた。続いて男は中村に向かって「コイツを連れてきた理由は?」と、傍に立つ中村を見下ろして聞いている。こうして見ると親子にしか見えないのだが、たった今否定されたばかりだ。

「リアル逃亡中してて、面白そうだから拾った」

「ちゃんと撒いた?」

 横から突然聞こえた声は、二人のものではなかった。


 三人目の声は奥の部屋からではなく、廊下の脇から出てきた青年のものだった。風呂上がりと思える青年は、誠の方をちらりと見る。頭にタオルを掛けていたので、目が合ったのは一瞬だったが、中村の横に立つ男とは正反対で静かに淡々とした様子だった。青年の言葉に中村は「もちろん」と返す。

 青年は中村の言葉を聞いた後で「じゃあいい」と短く告げ、踵を返すと奥の部屋に姿を消した。いきなり現れた三人目の存在に誠が驚いている間にも、男の方は相変わらず渋い表情でこちらを眺めていた。

「撒いたとしても……元の場所に返してこい」

「パパは冷たいなぁ」

 先程違うと言われたにも関わらず、何故か彼をパパと呼んだ挙げ句。全く気にも留めぬ様子でこちらを振り向き、中村は笑った。


「ほら、早く上がりなよ」

 中村はそう言って、誠の手を再び掴んだ。転ぶ前に痛みを押し退け、慌てて靴を脱ぐ。脱いだ靴を揃えようとは思ったが、手を引かれてはそれも出来ない。

「いいっていいって、私の家だから」

 戸惑いつつ「でも……」と言いかけるも、中村に言葉を重ねられた。

「居候だから、この人。家では私が法律だし」

 擦れ違う直前で、中村が告げた言葉に誠は驚いて男の顔を見る。返事は無いが、相変わらず不機嫌そうな顔で男はこちらを静かに見据えていた。

「私が、家主の心愛です。こっちはザコ中年の拓海おじさん」

「中村……ここあさん?」

「はい」

 つられて名前を反芻したところで、誠はもう一度彼女を見る。自称・この家の主である心愛はニヤリと、口だけを上げた笑みを浮かべていた。




「俺な。昔、映画で観たことあるんだよ」

「なにを?」

「ルームシェアしてた三人の元に、赤ん坊が来るって話」

「児童相談所案件でしょ、それ」

 すかさず突っ込む心愛に対して「実際ならそうだな」と、後に続いてリビングに入った拓海が返す。「ほら、座れよ」と、置かれたシングルソファーを叩いた。

 誠は言われるままに、ソファーへと腰掛けた。革張りで硬そうに見えたが、ふわりと沈み込んで身体を包まれる感触が訪れる。バランスを崩して背凭れにまで身体を預けてしまった。姿勢を正すのが難しくなり、身体を動かしている間。既に拓海は、もう一つ置かれた三人掛けのソファーへと座っていた。そちらのソファーには先客がいて、先程の青年が既に座っている。


 誠が座ったシングルソファーには、先程まで拓海が腰掛けていたらしい。目の前にあるテーブルの上に乗った缶ビールと煙草のパッケージを自分側へと寄せながら、拓海の話は続く。

「でもなぁ、ココ。小僧を拾ってくるのは違うぞ」

「君、コドモなの?」

「お……大人です!」

「ヨシ」

「そういう問題じゃねぇ」

 思わずノリが良い心愛の問い掛けにつられ、誠も勢い任せに言ってしまう。纏めて一喝されたが、恐縮したのは誠だけだった。

 心愛は全く気にしない様子で「それに、怪我させちゃったからさ」と続ける。視線を上げてこちらを見る拓海と目が合った。

「お前がやったのか?」

「違うよ」

 尋ねる拓海と答える心愛を見ていると、普段から彼らはこのような会話を行っているのだろうと容易に想像がつく。

 短い会話の後で、拓海がビールを一口飲む。そしてソファーから立ち上がった。誠の前にしゃがみ込んで「ちょっと怪我、見せてみろ」と彼は告げる。誠は素直に従って、カーゴパンツの裾をたくし上げた。露わになった素足に、ひんやりとした冷房の空気が当たる。


 ここまでも痛みにだけは気遣っていたが、怪我の程度までは確認していなかった。

 いざ明るい場所で痛む左足を見てみると、酷いものだった。打ち付けるだけでなく、脛もアスファルトで擦ったのか。くっきりとした青痣に加え、擦り傷もあちこちにある。ブロック塀に擦った右肩も見てみると、塀の汚れで黒くなったTシャツに点々と赤黒い小さな染みが見えた。

「すみません」

 誠が謝ると、傷を確認していた拓海が顔を上げる。先程まで誠に見せていた不機嫌さは感じないが、それでも少し垂れた目はこちらを好意的に見ていないと分かる。

「オレが中村さんを避けようとして、勝手にこけたんです」

「そうか、他には?」

「他?」

「大人しく、連れて来られた理由はあるか?」

 誠を静かに見上げる拓海の目は、鋭かった。こちらの意図を探ろうとする目付きは、恐ろしい。心愛に付いてきた理由など何一つ無いのに、否定ですら素振りと言葉が詰まる。意外にも、助け舟を出してくれたのは心愛だった。

「やけにつっかかるなぁ、パパ」

 拓海は「誰かに追われるような奴だ。疑うのは当たり前だろ」と告げる。言葉こそ鋭いが、心愛の茶化す文句に救われ、金縛りのような硬直からは開放された。

「でもリアル逃亡中なら、助けて匿う側が絶対面白いでしょ」

「本音は?」

 首を傾げる心愛に「俺らの立場、分かってるよな」と拓海は、心愛にも誠と同じ類の視線を向ける。何故、一緒に住んでいる彼女に対しても咎める類の問い掛けをするのか分からないが、とても重要な会話に思えた。

 だが心愛は何も答えない。加熱式たばこにスティックを挿した後で、拓海にニヤリと笑ってみせている。最初に会った印象とは随分と違う彼女の雰囲気に、誠は戸惑うだけだった。


 だが自分には分からない笑みでも、拓海の方にとっては充分な答えだったらしい。

「――俺は時々、お前が怖いよ」

 心愛に対して諦めたかのような、溜息混じりで告げる拓海の独り言も。傍から二人を眺めているだけの誠には、全く意味がわからなかった。

 それでも二人の間では意味が通じたらしく、再び拓海が誠に向き直る。

 拓海は左脚の感触を確かめるように触ってゆく。誠も痛い箇所を押されると、正直に告げる。幸いにも痛みは、足首と脹脛ふくらはぎの周囲だけだった。

「触った感じ折れてはいないが、10割でも明日ちゃんと医者に見てもらえ」

「うん、連れてく」


「あの」

 ここに到着するまでの間、誠には胸の内に抱いていた疑問があった。

 口に出していいものか悩んではいたが、思い切って声に乗せてみることにする。拓海と心愛の視線が再び自分へと向けられるのを感じながら、投げ掛けた。

「……追われていた理由は、聞かないんですね」

「俺達には関係が無いし。実際、君は逃げてたんでしょう?」

 今度の答えは心愛からでも拓海からでも無く、それまで黙っていた青年から放たれたものだった。


「君、名前は?」

 誠を見ている二人とは対象的に、青年はスマートフォンに視線を降ろしたままである。少し橙に近い湿った前髪は長く、目を覆っているためこちらから表情は伺えない。

「は、早坂。早坂 誠って言います」

「早坂ねぇ……」

 今度の声は拓海だった。

 立ち上がり腰を伸ばした後、彼はこちらの顔をじっと見ている。再び疑念を向けられ、自分にとって何かまずい事を告げてしまったか不安に駆られる。多少は態度が軟化したとはいえ、やはり彼が誠を疑うのは当然だろう。なので甘んじて受け止めるしか無かった。

 一方で青年が「ココさん」と、心愛を呼ぶ。

「今日、早坂さん泊めるの?」

「うん」

 彼の問い掛けに心愛は躊躇なく頷いた。「じゃあ」と青年が続ける。

「俺の部屋、使って」

「え?」

「部屋に殆どモノ無いし。そのT シャツ汚れてるでしょ。服も好きに着て」

「でも……」

 リビングにいる四人のうち、彼の提案に一番驚きを見せたのは誠だった。流石に慌てて断ろうとするも、青年の名前を聞いていないので声が詰まる。それを見抜いたのか「凪」と、青年は短く一言だけ告げる。


「大丈夫。拓海さんの部屋で寝させてもらうから」

「おい凪」

「なに? 別に床借りて寝るだけだからいいでしょ」

 ようやく凪と名乗った青年は、手元のスマートフォンから顔を上げた。誠ではなく、恐らく誠の前に立っている拓海を見上げたのだろう。歳は見る限り誠と近そうで、20前後か。切れ長の目は、やはり戸惑った様子を見せる拓海へと向けられていた。

 凪は「PCと明日の服は持ち出しておくから」と言って立ち上がると、リビングから姿を消した。断る間も無く、余りにも早い出来事に誠は唖然とするしかなかった。


「あ、あの?」

「……アイツはいつも、あんな感じだ」

 驚いたままの誠に対し、ソファーへと座り直した拓海が言葉を付け加えてくれた。

 煙草に火をつける顔には苦笑が浮かんでいた。先程までの鋭さはなりを潜め、溜息かよく分からない長い煙を天に向かって吐いている。心愛の加熱式たばこでは作動しなかった空気清浄機が、まるで抗議でもするかの様に大きく唸りはじめた。

「おたくの息子さん、パパにそっくりで愛想が悪いですねェ。ちゃんと教育されたんですか?」

「うるせぇ」

 心愛と拓海の掛け合いで、拓海と凪が親子なのだと誠は遅ればせながらも理解した。



 それにしても――不思議な三人だと、誠は感謝と共に感嘆する。

 良く解らない理由ながらも、潘に追われていた自分を半ば強引に連れて来た心愛という女性。最初は疑念に満ちた鋭い視線を向けたのに、怪我に関しては真摯に様子を見てくれた拓海。そして先程の凪。

 恐らく普通の人ならば自分みたいな存在はきっと訝しがるだろうに、彼等にはそれが全く無かった。それどころか、何故か泊めてくれるという事実が驚きだった。

 不思議な人達だなと思うけれども。潘に見つかり潜伏先を無くしてしまった自分にとっては、今晩だけでも留まる場所を提供してくれたことには感謝してもしきれない。


 誠は立ち上がると、ソファーに腰掛けてこちらを伺う心愛と拓海に「有難うございます」と深々と頭を下げた。




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