あんぜんなりょてい。

古頭ひしお

あんぜんなりょてい。

 くらげのせなかをさわったことがある、あれはせなかっていったほうがいいのか、とくせつコーナーによってすいそうからいちじてきにちいさいほうのおけにうつされてゆあゆあしている、にさんびきうかんでいるほうのみずいりのはこにいくまでの、てをのばしやすいようにすえられたこどもようのちいさいかいだんをあがってみおろした、じゅかんがまるくおわんがたをしているくらげのせなかっていうかあたまなのかあれは、だからすいめんからさかさまにむけられたおわんのようなあたまがはんぶんでていてほかのあたまをえんりょするようにさけつつゆらゆらしているところをみたとき、ちかくでみるくらげはあまりにもでかくてちいさいころのてゆびはちかづきがたく、まともにみもせずかたくむすんだこぶしからひきだした、これももくへんのようにこうちょくしひきつるひとさしゆびでこわさないようわずかにつついただけでそのふれあいコーナーはおわってしまって、くらげをさわったきおくもそこでおわったはずだけどくらげのかんしょくはいつまでもゆびさきにのこってきえることがない、かんをでると、くうちょうのれいきにしずまったようすのはだがじゅんとちぢんでぜんしんがちいさくなったようだった、くちびるをはにまきこむとひえていてしゃないのおんどにまだとかしきれないつめたさがのこっていて、くるまのれいぼうがきくまでのあいだくちびるのつめたさをこうないにならしていった、それですずんでいるつもりだったのかもしれない、くらげにもみずぎがあればいいとかんがえてなにかどれも、どのようにかはしらないけどみずのようなきじといとをほうせいであもう、きていてはずかしくないみずぎがあればいいとそっちょくにかんがえて、なつやすみちゅうのすいえいのためにがっこうにいくのもそんなにいやではないようなきがそのころにはもうしはじめていた、かえるとちゅうえきやみんかをわたすためのどうろがながいさかになっているところのくだりにさしかかったところでたまつきじこにあい、うしろとまえのナンバーをそのときこうぶざせきであそんでいたDSiLLでさつえいして、まえのくるまはどこかにいったがうんよく、わるくもあるけどこうばんがそのさかのおわりにいちしていてききとりなどをおこなったあとべつのぶしょにうつされて、そのときたんとうした、たしかこだまさんとかこじまさんとかいうなまえでまどぐちでかぞくのひとりがそのひとのなまえをよんでもはんのうがわるくてはなしがまだちゃんとつたわってなかったみたいでやっとうしろからでてきたときはさすがにあせった、そのあと、そのなまえをおぼえていないけいさつかんから、このひと、このひとっていうのはうしろでぶつかってきたひとのことで、このひとにけいじばつをのぞみますかってきかれて、そのかぞくのひとりはあきらかにろうばいしたようすで、まるでぶつかってきたひとにばつをあたえることにかたんするのをまるでとうぜんのけんりのようにあてがわれたことにショックをうけたのか、あせったようすでふつうでおねがいしますといっていた、そのあとしばらくたってからぶつかってきたひとがあやまりにきてくるみのはいったショリショリするたかいケーキをもってきてなんとなくたべたくないきもちがしてたべたくないというと、たべることがこのいちれんのじけんをなかったことにする、そうすることができるみたいにたべるよういわれたのでたべた、そのぶつかってきたひとのなまえは、みょうじもなまえもにおんずつあって、そういうなまえのひとはめずらしいといわれたけどそれをいったのがだれだかわすれたしそもそもいってなかったのかもしれない、おもっただけでくちにだしてすらいなかったのかもしれなかったしそういうはなしがかぞくのあいだでしばらくおなじながれをくりかえすにちじょうかいわのしゅるいのひとつになってちがうあじのあめだまのかずもしゅるいもたくさんはいったふくろからとりだされるとそのたびにじけんのことをおもいだしていたくもないくびもとがむずむずするようだったのかもしれなくてそのことをなまえのけんだと、このできごとをそういうことあったねのできごとのなかにいれておもいだせるようになるまでしんじこんでいたのかもしれなかった、べつにあくいがひとのからだとかそのあいだをとびまわってはねまわってたいしょできないしこりになってのこってたびたびじっさいのいたみになってだれかれかまわずふっかつしてくることをそこにいたひとたちはしんじていたわけではなかったし、そのひとたちはそのばそのばの、そのこうどうをおこしたひととそれをみていたひと、それがぎゃくになったりたびかさなったりふりつもったりしたときのしゃくどでこうどうしただけであとからりゆうをつけるのだけはかんたんでほかはぜんぶむずかしかったけどそのはなしにはこうふくなエンディングとかはよういされてはないしぶつかったひともぶつけられたひともぶつけてからそのばをはしりさったくるまにのっていたひともいきるし、いきてるし、くるまにものるしなにかのはずみでぶつけたりぶつけられたりしたことを、それをおこしたこととみていたことをくちにだしたりおもいだしたりするしそのおもいでにつらかったとかいたかったとかこわかったとかそのときのからだのはんのうとかそれはそれでちゃんとおこるべきタイミングでおこっていたひともいるしそのときのかんじょうとかしんたいてきなフィードバックがとうじのようにせんめいなものになっておもいでにひっついてくるわけじゃない、そのようにしてはなしはじめられたはなしにはオープンなエンディングしかよういされてないからべつによくてすいぞくかんでは、そのかんにはケサランパサランのてんじもあってねんににかいいってにかいともみたことがあってそのとしにいっかいしかみてはいけないのにみてしまったからしぬとおもった、それがめいかくにしをいしきしたさいしょだった、おびえながらさわるとそのおびえがつたわってどうぶつはこわがりますよとふれあいコーナーのひとはいっていた、そのことをつたえたくてこのコーナーにかかわっていたしいくいんのひとりでもあったし、そのひとと、そのひとのちかくにいたあざらしにもさわっていた、さわるというかあれはまっすぐにそろえられたなんほんかのゆびでけなみにそっとそわせていただけだった、できごとがじかんのせいやくをうけるのはこれがはじめてではないしこれらだけではない、ふんしんがもじばんのうえをなでつけてすぎていくだいさんにちようじゅうにじはんみたいなかんじかたじゃなくてもうすこしながいスパンでみてじかんはこれらのできごとをおもいでのうかぶはんいにぬりのばしていく、それでもきおくごとのじぶんがいまのじぶんにむけてずっとつづいているおなじからだがそこにはあってせつだんされていない、れんぞくせいをとぎれさせたことのないからだでいきているとかんじる、いそがしくなったことがないししんどかったこともないからとうぜんかもしれないけどほんのにさんねんまえのじぶんとかかわっていたひとたちがそのころのことをいまのじぶんにつながるしんどいできごともうれしいできごともあったなとかかんがいなんかありもしないのにかんがいぶかげにいいつのるのをみながらこのひとたちはしゃかいにでてはたらいてしんしんをさいきんのぶんめいにひしょうしてるからすこしまえのこともずいぶんながいむかしとしてうけとるんだなとかそういうふうにうけとってきいてきた、そういうひとたちのからだはところどころむしくいになったきおくをもっていてばしょごとにせつだんされてもいる、でもきずついたというじじつをせつだんされたからだにさかのぼってきゅうだんするとかはしない、もっとべつのほうほうできずついたあとのからだをいきているそれらのひとたちはれんぞくせいをそのときどきでうしなってはパニックをおこすかもしれない、パニックになったことがないのでわからないけどほっさをおこすときのからだはおこしたときやところからせつだんされている、ひきさかれているとかばらばらになっているとかんがえるひともいるけどおなじようなことだしじっさいそうらしい、おもいかえせばくるったようになったりほっさをおこしたりようりょうよくしょうがいのしんだんをてにいれるひとたちはみんなゆうしゅうだった、じぶんがうしなったことのないものをたびたびうしなってはてにいれたことのないかんかくにおちいるそれらのひとびとのことをかんがえることがあって、はたらいているひとにじぶんはなれないとしみじみおもう、おもいだすのにじかんやばしょのせいやくをうけることなくできごとをきじゅつできる、そういうかくことのせいしつはくらげはしっていて、あのときのくらげもぶよぶよしてすいめんからちょっとうかんだきずつきやすい、もっとかたいこっかくとかにおおわれるべきだったいたいたしいかんむりをつつかれたことをあとでおもいだしたりするだろうか、それこそいくにんものかんこうきゃくがふれあいコーナーにやってきてはちょっとみたりさわってみたりしてかんこうちにどういんされながら、そのなかのひとり、じかんやばしょのせいやくをうけずにくらげをつついたことをかんしょうてきにおもいだすように、そのなかのひとりからじかんとばしょのせいやくをうけなかったこどものひとりをおもいだすことができるだろうかとかんがえる、そんなことふかのうなのかもしれないとおもいだしたがわにたったからだはくらげからいまはとおい、かくことだけがそれらのせいやくからのがれられるのでずっとむかしのことをなんどもはなすけどはつわはおなじはなしにちがうこえをみいださない、じゃあかくことはどうなんだろうっておなじことをなんかいもはなすかぞくのせいいんやしゃかいのせいいんのはなしをみききしたりしておもうことはあるけど、とぎれないからだやいしきがきじゅつのけっぺきしょうにちかいえいせいかんかくをたもたせていることはどこかでかくことはおもいだしただろうか、かくことがというよりかはおもいでがそれらのせいやくをうけない、かきてがおもいでとかくことのさようをごっちゃにしているといったほうがちかい、ようごやようじ、とくにいみとたんごのたいおうのさせかたとかかんじのとじ、ひらきでいみをかえるぶん、ぶんとぶんのあいだとか、かいぎょう、かいだんらくがいみをかえることとか、けいしきがかかれたもののいみをかえることへのかんしんがかくことをとぎれさせないでかかせているとかんじている、ぼたんをおすことでかんやちいきのしじつやききのきのう、せいしつなどをしんたいにえんぎさせるかんこうのためのそうち、くらげのせなかもそのようなそうちのひとつでありえた、それでもくみはんのえいきょうをうけるれんやぎょうのかんかくにおいてさんぶんのことをきにかけたことはなかった、あったかもしれなかったけどもたれかかるようなことはしてこなかった、しをかいていたころでもしょうせつをかくときはあくまでもしょうせつをかいているつもりでかいていたからそのころのしんたいかんかくがのこっていて、ものをかくときにそぐわないけいしきをとりいれようとするとそれをさまたげるようなゆびのしびれは、いまではかきすすめていくためのここちよいけいれんにすがたをかえてはいても、しのことをとおくかんじたことはない、そしてそのことをたのみにおもってるわけではないけどはつごのじてんでじんかくをうたがわれるようなずれたはつげんにほんやくされてがいぶにゆしゅつされてきもした、しょとうきょういくようのためのえいわじてんのおまけページにがんめんをぶったぎってこうくうをろしゅつさせたがぞうとともにいんさつされてあるこくさいおんせいじぼとそれにたいおうするはつおんをきょうせいするためのフォニックスのひょうをみながらひとつずつ、ひとつのどうさずつじぶんのからだにひきあわせてたしかめてみた、それもちいさいころのむなしいきょういくにじぶんをくみこんでいくうえであきらめなければならなかっためんどくささにたちむかっていくためのやるきをうしなうこと、ライフステージにじぶんがくみこまれていくときのいひろうかんをいまでもしんせんにじんたいにひきなおすことができている、かくことはからだをちがうかたちやべつのからだにうつしてがいぶにとどけることなんてできなくて、にじゅうだいこうはんからさんじゅうだいぜんはんまでのもっともろうどうにひしょうすべきじきにあるからだがそのままのじょうたいでかわらずに、ろうどうにせつぞくできていないじんかくにはいたつされてくる、いまだしゃかいにむけてかいじされていないじんかくがかくことでひれきされることをこころみるけどろうどうしてないからとろうにけっきょくおわってしまうだろうし、さいしょにそこにあったからだでいきつづけているからこんごせつだんされることもないし、せつだんにともなうが、そうぞうのはんいないにすぎないやすっぽいぜつぼうとかもあじわうことすらないんだろう、それでもおもいだせるおもいではいつもいまここからはせつだんされてげんじつにたちあらわれてきてはそこにあったからだをいまのからだにおろしてきてかくことがくうそうがげんじつでうけるせいやくからわずかにのがれるさいのえんしゅつをかいまみることができる、だいたいこういうからだをもたない、しゃかいにつながれているかきてはかくのにむいてないからかかせるとじぶんのまわりのものばかりかかれたひどいものばかりかくことがある、それでいったらべつにしゃかいをしらないかきてもいみでんたつやきごうせっちのてんにおいてはかいているばあいじゃないくらい、そんなものがあるとしたらのはなしだけどじぶんのじんせいをいきなきゃいけないぶんしょうをかくからどちらにせよかけるからだやこえなんてものははなからそんざいしない、そんざいってことばはいみやきごうのてんからいくと、じぶんのじんせいに、そんざいとか、じぶんとか、じんせいとかにんげんとかことばってものがそこにちゃんとまちがいなくあるかどうかふあんでどうしようもなくてこわくてたまらないようなにんげんがくちにだすことばであってふつうのひとたちにそんな、それいじょうぶんかいできないことばなんかひつようない、これもあまりせいかくないいかたじゃないけどそういうふうにしかりかいできないしかけない、だいたい、うんどうもべんきょうもできなかった、ちいさいからだにせいちょうすることをとじこめてしまったちゅうだんされたからだ、きょうみやのうりょくのほうこうをはやいうちからげんていすることにきめたからかくのにむいてるわけない、じゅうだいぜんはんのじぶんのことはむのうりょくなにんげんがはなからまともなせいかつやせいかつどうさなんかできもしないのにあこがれてはそのあこがれのたいしょうをあきらめてふつうのじんせいにもどっていくといういっぱんてきなやりかたすらうまくいかずにドロップアウトしてしまったんだからこういうことをかんがえているのすらほんとうはまちがっているのかもしれない、にちじょうかいわのありきたりなかいわのとじぐちにげんなりするりゆうをみつけだしてはくうそうにじこをとうにゅうするようになり、じんせいへのかくべきものをみつけだすためにむけたかんしんがつきたりかれたりしたあとけいしきへのかんしんがひらかれるというのなら、むどくであんぜんなりょていをおりかえしてはつぎたしてむかったすいぞくかんにはちいさいすいそうにやっぱりくらげがうかんでいてつつくとそのかいすいとあいまいなじゅかんをしゅうしゅくさせたりさんかいさせていどうするうみのなかでまどからはなれるカーテンのようにたなびく、うかんでいるとき、くらげはくらげをわすれている、いろいろなことをわすれる、ほんとうにいろんなことを、とおもう、なんでくらげのことをかいたりどうろのことをかいたりしてるんだろう、もっとふくのほうせいとかものをやいたあとにでるはいのこととか、ほかにもっとかくべきことがあったんじゃないかってあめはふると、じめんからみずがはえてきたとちかくするひとたちがいる、いきもののなかですくなからぬひとたち、くさをたべてやしなわれたからだがそのことをはっけんする、かたからつりさげたたいおんにちかくなりつつあるあめはいまてゆびからぜんわんにかけてむすばれていて、ほかのいくつもの、いままでになんどもあめにむすばれてきたてやうでとつながっている、そのことをおもいだしかけては、



私が牛であつたとき

私のつのに結んであつたのは氷雨ひさめであつた


(高橋新吉「牛と氷雨」)



ように、こうすいかくりつをつうねんてにいれられるかんじょうとごにんしてしまうこともあった、いんようぶとほんぶんではくべつされ、してんじんぶつをどうていするためのにんしょうをしていしてしないぶんしょうがせきさいされてあるほんぶん、ほんぶんはそのことをすでにきょようしはじめているしうけいれられるものならなんでもとりいれようとしているだけだった、しじんは、そのしじんにあたえられたなまえをくちずさむことはここではきんじられている、じぶんがはつめいしたけいしきではなかった、そしてこのけいしきをはつめいしたしじんはもとのけいしきをはってんさせたりべつのけいしきもはつめいしたりしてかんしんのりょういきをうつしたりそのかずかずのけいしきのあいだをとびまわったりはねまわったりしてじかんやばしょやできごとといったきほんたんいやいんようぶなどのおきかえやならびかえがおこなわれる、すでにてにいれたかんじょうをもういちどてにいれなおすことがかんじょうをうけとることそのものだったときづいたときにはかくべきものごとはすでにつきてしまっている、きんしつにぬりのばされたものの、ぬりのばすざいりょうとぬりのばされたもの、ぬりのばしておくためのしじたいになすりつけるてゆびやうでやこしなどのしんたいどうさ、かかれたものはがぞうじょうほうとしてとりいれられたあとしくやぶんしょうがどのようにはいちされているか、このはいちのされかたをいぜんにもどこかでみたことがないか、みちのはいちときちのはいちのあいだでかんどうするかどうかをよむこういはひそかにしゅんべつしけっていしているがよみてはそれにきづくことはない、じぶんのわかるはんいのごやいみのつらなりをあつかい、それをじぶんのよみかたにいいようにひきあわせてわかったつもりになっているからだった、しょうがくろくねんせいのときNHKのスピーチコンテストにでたとききていたうすあおのシャツのうえからくもったしろのニットのボタンをひとつぶずつひっかけていくたびにくちびるにのぼることばもせりあがってきて、はなつことばがみんな、はんしゃかいてきなわかいせだいのひとりがまたたんにくだをまいてるだけの、うえのせだいへのつまらないじょうとうくをならべたてただけのうらみごととうけとられ、きぞんのものがたりやていけいのなかにかいしゅうされていることをこなっぽいいいわけでていせいするのを、そのできごとがはっせいしたじてんであきらめてかいごのうちにおんどをうしなってしたいのもののようなうわくちびるをひきこむとあつかっていたことばすらもししゃのものだったとひらきなおり、きまりわるそうにぬるまったこうくうないのおんどにならしていくだけだ、ようねんじだいのけっていてきなできごとももはやこれらのせいやくをうけないでいい、あるしゅのこどもっぽいかんしょうでもってこどものころのおもいでをいまだわかいからだがおもいかえすことでそのころでさえあつかえなかったかんじょうのしたのほうのぶぶんでくりかえしおもいだしつづけるうちくらかったぶぶんがだんだんてらしなおされてみたところでかこのそこにいたじぶんにむけるせいしんてきなしょうりをかざるだけのむいなおこないにすぎないんだし、いままでもちがったかたちでべつのしゅるいのうわがきがからだのいたるところでくりかえされてきたはずだった、かくことがそれらのできごとをさいはいちし、いままでもそうしてきたことをおもいださせるだけだ、だからかくことでなにかこう、いわゆるひとつの、じんたいとかじんかくのへいあんとかせいかくとかにくたいのきょうせいとかじんせいがなにかいいながれになりはじめたりだれにでもくるライフステージのひとつひとつであやまちのないこうせいないしけっていがもたらされることをきたいするむなしいききゅうもしあわせなエンディングをむかえるはずがない、せばめられたのどからさいごのいちぶんがしぼりだされると、ほうそうきょくをでてきたからだにはれたままふってくるあめももたらされ、あのひはあるきでかえったのではなく、ちゅうしゃじょうにとめてあったおやのくるまでおやのうんてんできていたからそこまでのみちのりだったけど、スタジオのしょうめいにぬくまってうっすらあせさえにじむあつぎのそでからたらしたてのこうにふってきていた、たいおんよりわずかにしたまわるすいおんのあめにいずれこのねつがほどけていくことをスピーチをおえたあとのしんぱくすうのひくまりとともにきたいしていたきたいではなかった、すいぞくかんのふれあいコーナーにうかんでいたくらげも、うみにいたときはすいめんにまであがってくることがあって、そのうみにもたまにはあめがふることがあって、もしあめがふることがあったとして、かいすいではないがおなじみずにくらげのせなかがつらぬかれるとき、たんすいにほどけていくんだろうかと、コーナーにせっちされた、すいめんにてをのばすこどものためによういされただいに、じぶんがたのしくくらげとふれあえるだろうことをそうぞうしていたこどもがのぼりつめるとき、そのこともすこしだけそうぞうしていた、じぶんがうまくくらげをさわれなかったことに、いままで、うまくいくことをそうぞうし、じっさいやることになったとしてもうまくやってきたこどもははじめてそうぞうしたとおりにものごとがはこばなかったことをいつまでもおぼえていてたまにおもいかえすことがある、たびたびおもいかえされ、おもいだすたびにそのじてんでのからだがとうじのこどものようにひきつってよりおおきいどうぶつににらまれたときただほしょくされるのをまつだけのほにゅうるいのひとつにぎゃくもどりしてしまう、そのこどもはいままでものをしるということがなくて、それがしるということをからだがうけいれることになったさいしょだった、たぶんこのけいけんいごじんせいにおいてなにもおおきなじぎょうをたっせいしないよううんめいづけられたこどものひとりだった、かずかずのからだがきょうゆうしつづけてきたちがうばしょやじかん、けいけんしたできごとをけっきょくはどれもおなじしつのものだとりょうかいしている、それがこどものまましゃかいにせつぞくできないでいる、わずかにおおきいだけでまさってもなにかとくていのぎのうにたけてもいないからだがもちはこびつづけているすべてで、にんげんのからだはできごとやじかんやばしょのいちぶにふくまれているだけでにんげんがそれらをふくみこんでみずからのものにするのではむかしからずっとなかったというじじつをれんそうさせる、くらげをつついてみる、ゆびはこわばってつめたいままだ、みずをすみかにするいきもののにおいがここにはじゅうまんしていてはやくでていきたいというふあんばかりつのらせながらすずしいかんないをあるきなずみ、どこへもとじこめられていて、どこからもしめだされている、このこどもはいま、このかんないのすべてのかいすいにうちあけられているすいせいせいぶつがたんすいにはなたれみずからもそのひとりになれないでいるかぎり、そしてそのけいかくをおなじかんないにあるレストランでくらげのくにくにするたいそしきがはいったソフトクリームをあせみずくになってなめとりながらくわだてられないかぎり、まえだおしされたせいしゅんをけっていされたみらいとしてりょうかいしぜつぼうしながらながめわたすことのしじつによわいにくたいをみずびたしにさらせないかぎり、でていけるりゆうやどうきさえうしなっているだけだ。

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