1ドル札の行方

@yu1979

第1話

1

カリフォルニアのどこかの産院で彼は産声を上げた


その瞬間から彼は違った。普通の赤ん坊は乳を求める。泣いて、母の胸にすがる。だが彼は違った。看護師がへその緒を切った直後、彼は小さな拳を振り回し、父親が握っていた百ドル札を掴もうとしたという。父親は笑った。「こいつ、金の匂いがわかるんだな」と。

それが始まりだった。

四ヶ月後、両親は彼をプールに連れて行った。理由は単純だった。叔父が水中写真家で、「赤ん坊の水中写真を撮りたい」と言ったのだ。プールは自宅の裏庭にあった。カリフォルニアの太陽が照りつける平凡な一日。

だが彼は平凡ではなかった。

プールに放たれた瞬間、彼は泳ぎ始めた。いや、生まれたばかりの赤ん坊に泳ぐという行為は不可能だ。正確には、彼は水の中で激しく手足を動かした。そして目にしたものに、全身で反応した。

一ドル札が、水の中に浮かんでいた。

父親が冗談で投げ込んだのだ。「ほら、取ってみろよ」と。

赤ん坊の瞳が、異様に輝いた。まるで飢えた獣のように、彼はその紙幣に向かって突進した。小さな体が、水を蹴立てる。泡が立ち、太陽の光が乱反射する。彼は泣き叫びながら、必死に手を伸ばした。お金だ。お金だ。お金だ。

シャッターが切られた。

その写真は、後年「ネヴァーマインド」のジャケットになった。裸の赤ん坊が、釣り針に吊るされた一ドル札を追いかける写真。ニルヴァーナのアルバムは世界中で数千万枚売れ、グランジの象徴となった。人々はそれを「資本主義への皮肉」と解釈した。だが、誰も知らなかった。

あの赤ん坊は、本気だったのだ。

彼は成長した。

五歳のとき、初めて自分の写真を見た。アルバムジャケットとして。母親が自慢げに見せた。「あなたよ、世界中に知られてるのよ」と。

彼は黙ってそれを見つめた。そして言った。

「俺の金、どこ行った?」

母親は笑った。「冗談でしょ?」

冗談ではなかった。

十歳のとき、彼はニルヴァーナを訴えた。いや、正確には両親を訴えた。あの写真の使用料を、一切もらっていないと。弁護士は困惑した。「君は赤ん坊だったんだぞ?」と。

「だから何?」彼は答えた。「俺の裸を、世界中に売ったんだろ。あの金、俺のものだ」

裁判は長引いた。最終的に和解金が出た。数百万円。彼はそれを全額、株にぶち込んだ。ドットコムバブル真っ只中。彼は十一歳で、百万長者になった。

二十歳のとき、彼はもう億万長者だった。だが満足しなかった。

「あのプールの一ドルが、俺の人生を変えた」と彼は言う。「でも、あれは始まりにすぎなかった」

今、彼は四十歳手前。資産は数百億。ウォール街の狼たちでさえ、彼の名を聞くと顔をしかめる。なぜなら彼は、貪欲すぎるからだ。友はいない。恋人もいない。すべてを金に変えた。

ある日、彼はあのプールを訪ねた。もう両親は亡く、叔父も老いていた。プールは変わらずそこにあった。青い水、眩しい太陽。彼はスーツのままプールに飛び込んだ。

そして一ドル札を投げ込んだ。 

そして泳ぎ始めた。

必死に 狂ったように。

水の中で、彼は泣いていた。誰も気づかなかったが。

「あのとき、掴めなかった……」

彼は今でも、あの最初の一ドルを追いかけている。永遠に、掴めないものを。

ニルヴァーナの曲が、どこか遠くで鳴っている気がした。

「Here we are now, entertain us…」

彼は笑った。水の中で、誰にも見られずに。

「俺は、もう十分に楽しんでるよ」

そして、彼はまた手を伸ばす。

金の匂いを、追いかけて。生まれたときから、死ぬまで。


くそったれ! 金が全てだろう?


何度もプールに飛び込む 何かを求めて手を伸ばす つかめる日など、来ないことを彼が一番よく知っているのに

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