短編版 アシェリーテアの物語

水無月 氷泉

母から娘へ 言霊の継承

 時の流れさえ凍りつくような雪と氷に閉ざされた小さな村の一角に、頑丈な木造小屋が建っている。


 一年を通じてこの地を覆うのは、夜のとばりが決して下りることのない白夜びゃくやの世界だ。


 天空から絶え間なく落ちてくる細氷さいひょうによって、周囲は白銀のまばゆきらめきにくるまれていた。


 それは無数の鏡となって、無人の雪原を光の膜で包んでいる。さながら躍動する宝石箱のように金や銀、蒼や碧に輝いている。



 遠くまで見渡しても、木造小屋はこの一軒だけだ。


 ひたすらに静寂で満たされた過酷すぎる気候とは裏腹に、屋根の天井から飛び出した煙突からは勢いよく白煙が上がっている。


 小さな窓には分厚ぶあつい霜がまとわりつき、中の様子はうかがえないものの、ほのかなあかりが浮かんで見えている。


 まぎれもなく、人の営みが行われている証だった。




「アシェリーテア様の世界を巡る物語は、ここで幕を閉じます」


 暖炉のすぐそば、揺り椅子に腰を下ろし、最後の一文を読み終えたファナエラが装丁そうていの美しい本を静かに閉じた。


 小窓の向こうには相変わらず細氷が光の雨となって降り続いている。切ないながらも、神々こうごうしい光景にファナエラは目をしばたいた。



 目の前のベッドから拍手の音が飛んできた。


 ファナエラは拍手の主たちに、寝そべってじっと耳を傾けていた二人の愛娘まなむすめに、優しい目を注いだ。


 暖炉では明るい炎が燃え盛り、何本ものまきが音を立ててぜている。屋外とは打って変わって、屋内はすこぶる快適な温度に保たれている。


 薄着の寝巻を着て、仲よく毛布を巻きつけている姉のミシェリアと妹のアマレッテは目を輝かせていた。


 小屋の中には、母と娘の三人しかいない。


 父親は貧しい家計を支えるために、他の大陸に出稼ぎに行っており、故郷のこの村に帰ってくるのは年に一度行われる村祭りの一週間のみだ。


 ミシェリアは七歳、アマレッテは五歳の誕生日を迎えたばかりで、まだまだ幼く、甘えていたい年頃だ。寂しくて仕方ないに違いない。


 それでも二人は泣き言一つこぼさず、一生懸命に母の手伝いをこなしている。


 小さな体のどこにそれほどの力があるのかというほど、外に一歩出ればたちまち凍りつきそうな極寒の中、離れた小川まで歩き、村で唯一凍らない水を桶になみなみとんで、また小屋まで戻ってくる。


 それを一日何往復もするのだ。当然の結果として、娘たちの両手両足は酷いしもやけに見舞われている。いくら薬を塗り込んでも治らない。それに薬代も馬鹿にならないし、そもそも入手自体が困難だ。


 そんな愛娘を見ているだけで、ファナエラは泣きそうになってしまう。この子たちのいずれかでもいい、魔術が使えたら、といったい何度思ったことだろう。


「お母さん、どうかしたの」


 姉のミシェリアが上目遣いで心配そうな顔を向けてくる。ファナエラは誤魔化しの笑みを浮かべ、安心させるための言葉を紡いだ。


「何でもないわよ。ちょっと目にほこりが入ったみたいね」


 ミシェリアはさとい子だ。疑わしそうにじっと母を見つめている。


 ファナエラはわざとらしく目をこすってみせた。ミシェリアが何か言いかけたところで、今度は妹のアマレッテが元気よく大きな声を上げた。


「お母さん、テア様と会ったことがあるんでしょ。そのお話、聞かせて」


 ファナエラにねだるアマレッテは幼いがゆえに、アシェリーテアと呼ぶのは難しいのだろう。うまく発音できないまま、いつしか彼女の中でテアとして定着していた。


「テア様のお話が聞きたい、聞きたい、聞きたいの」


 ミシェリアが姉の貫禄でたしなめるものの、ことアシェリーテアの話となると、途端にアマレッテは聞く耳を持たなくなる。読み聞かせが終われば、いつもこのとおりだ。


 何度せがんだが分からないほど、アマレッテはアシェリーテアの物語が好きだった。いや、きっとアシェリーテアその人が好きなのだろう。もしかしたら、アマレッタの中で神格化されているのかもしれない。


 一方でミシェリアは好きは好きでも、実在しない人物に対して、妹ほど興味を持てないでいた。


「アシェリーテア様はもう生きていないのよ。しかも全部作り話のうえ、何度も同じ話を聞いているでしょ」


 ミシェリアの少々剣のある言葉に、アマレッテは目にいっぱいの涙をめ、遂には泣き出してしまう。


「お母さん、またお姉ちゃんがいじめるの」


 これもいつものこと、日常運転だ。


 ファナエラも慣れたもので、すがりついてくるアマレッテを抱き止めながら、ため息を吐き出したミシェリアに目を向け、仕方がないわねとばかりに笑みをもってうなづく。


 それを合図に、アマレッテの背後から飛び込んできたミシェリアも抱きしめる。


 十分に愛情を注ぎこんだところで、ファナエラは言葉を発した。



「これはミシェリアにもアマレッテにも初めて話すことよ。実はね、アシェリーテア様が生きているか死んでいるかは誰にも分からないの。でもね」




 ファナエラが、ふとしたきっかけでこの村に立ち寄ったアシェリーテアに出会ったのはおよそ二十五年前、ちょうどアマレッテと同じ五歳の時だった。


 記憶は鮮明に残っている。


 愛娘と同様、水汲みに出かけた帰り道、魔禍獣と呼ばれる獰猛どうもうな捕食怪物に襲われたのだ。


 そこへたまたま道に迷って通りかかったアシェリーテアが、強力な魔術をもって消滅させてしまった。


 魔術もさることながら、アシェリーテアが唱える言霊ことだまはこれまで聞いたことがなく、それでいて心の中に深く浸透した。


 永遠の記憶となって脳裏に刻まれていった。今でも一言一句たがわず口にできる。


 なぜかファナエラには一度見聞きしたものは決して忘れない、という特殊な才能があった。


 ひと目で見抜いたアシェリーテアは、ファナエラの額に人差し指を軽く当てて警告した。


類稀たぐいまれなる才能だ。他人の前で絶対口にしてはいけない。この言霊は君自身を滅ぼす」


 ファナエラはどうしてか魔禍獣を目の前にした時以上に怖ろしかった。


 凍りつくような蒼い瞳で見下ろしてくるアシェリーテアが魔禍獣以上の怪物に見え、ただただ小さく首を縦に振るしかできなかった。


 人差し指が離れる瞬間、アシェリーテアの唇がかすかに震え、ささやきを落としていった。


 何かをされたことだけは分かった。それが何であるかまでは、幼いファナエラに知るすべはなかった。


「ファナエラ、君はいずれ愛する人と結ばれ、二人の娘を授かる。下の娘が五歳になった時、わたしが唱えた言霊は継承される」


 そして、最後にこう言い残して、姿を消してしまったのだった。


「わたしはアシェリーテア。継承が終わったら、君は言霊を失い、わたしに知らせが来る」


 夢か幻を見ているかのようだった。


 腰が抜けてしまったのか、あるいは茫然ぼうぜん自失だったからか、しばらくは微動だにできなかった。


 ようやく動けるようになったのは、尻もちをついたところから冷気が忍び込んできて、あまりの寒さに身体を震わせてからだった。


 今さらながらに、ようやく気づく。


 名乗りもしなかったのに、どうしてファナエラという名前を知っていたのだろうか、と。




「ミシェリア、アマレッテ、一度しか言わないからよく聞きなさい。そして、今からお母さんが教える言霊は、絶対誰にも言ってはだめよ。約束できるわね」


 二人が神妙な面持ちで大きく頷く。どこまで理解しているのかは何とも言い難い。


 姉のミシェリアはともかく、アマレッテはまだ五歳になったばかりだ。ファナエラがあの得難えがたい経験をしたのも同じ五歳、だからこそアマレッテもきっと大丈夫だろう。


 母として、二人の愛娘を信じている。その気持ちに揺るぎはない。



 ファナエラは深呼吸を何度か繰り返した後、視線を上に向け、朗々と言霊を唱えていった。



く疾く

 太古へと時をさかのぼりて」



 アシェリーテアが紡ぎ出した時と同様、抑揚までしっかり真似る。そうしなければならない気がした。



 呼応するかのごとく、小屋の周囲を渡る風が急速に速度を増していく。それは雪と氷を伴った吹きすさぶ嵐だ。



さつと颯と

 始原へときほぐし」



 あの時、ファナエラには自分をかばうアシェリーテアの背しか見えていなかった。彼女は広げた左手に何かを持っていた。恐らくは言霊を解き放つ際に必要な道具なのだろう。



 吹き荒れる嵐が途端に沈黙し、なぎへと変じた。



かそけく幽く

 混沌の輪廻へとかえさん」



 ファナエラの記憶に刻まれた言霊の全てが正しく解き放たれた。



 そこにるのは完璧なまでの静謐せいひつだった。あらゆるものの音が失われている。


 まさしく無そのものだ。




 大好きな母を見つめるミシェリアとアマレッテの表情があまりにも好対照だった。


 ファナエラは真実に、あまりにも残酷な事実に気づいてしまった。愛娘の前でその表情を見せるわけにはいかない。




 束の間の静寂を破って、玄関の扉を叩く音が響き渡る。


 室内の温度が急激に下がったような感覚にファナエラは身体を震わせた。


「ようやく、約束の時が訪れたのね」



 ファナエラの記憶は再び、あの当時に飛んでいた。



 アシェリーテアの全身が霞に包まれ、まさに消えんとする寸前、真の意味での最後の言葉が白銀の雨となって降り注いだ。



「そうしたら会いに行く」




 日常から遠くかけ離れた、ありえない事態に娘たちは驚き、おびえた様子で母の胸にしがみつく。


「大丈夫よ」


 二人を安心させるために背中をでながら、ファナエラは語りかけるように告げた。



「大切な大切なお客様なの。さあ、ミシェリアとアマレッテでお迎えに出てちょうだい」



 母の慈愛のこもった眼差しに、ミシェリアとアマレッテは「はい」と答え、手をしっかり繋いで、扉に向かってけていった。

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