第2話

 機械の轟音が一人の人間を飲み込んだ。その中では想像するのも恐ろしい惨状が巻き起こっているだろう。人間の肉をすり潰し、引き裂き、ひき肉へ変えていくなど。

 ……想像してはいけない、吐き気がする。

 残された者に出来るのは恐れを抱きその場を離れることぐらい、の、はずだ。

「あら、絵美ったらそそかしいわね」

 場違いな呟きが耳に届く。リリーの声だ。すぐ真横で人が、それも自分を慕っていた後輩が……、あんなことになっているのに。彼女の頬を飛び散った血が赤く染めているのが見える。

 狂ってる。

 幽霊の噂は本当だったのだろうか? 本当にここの幽霊が私たちを機械に引きずり込み仲間にしようとしているのだろうか? そんな想像が私にだってつくようなこの状況でどうしてリリーはあんなにも落ち着いているのだろうか?

 実はこの疑問を一手に解決する答えが一つ、存在する。

 だから私は。

「あら、どこへ行くの?」

 踵を返してこの場から逃げ出した。

 狂った殺人鬼と一緒になど居られるわけが無いのだから。




 走る、走る、走る。

「はあ、はあ、はあ……」

 息が切れるのも構わず、足が重くなっても無理矢理動かし、とにかく逃げる、逃げる、逃げる。

 リリーは殺人鬼だ。

 私はそう結論付けた。

 彼女はオカルト好きを装って人を殺しているのだ。曰く付きの場所へ言葉巧みに人を連れ込み、まるで怪異の仕業に見せかけて人を殺す、そんな殺人鬼に違いない。

 だから彼女は落ち着いていた、目の前で、め、目の前で人間がひき肉にされたというのにあんなに落ち着いて……。

「……狂ってる」

 この場で機械を動かしたのはリリーだろう。おそらくあの辺りにスイッチがあったのだ。後輩ちゃんが興味津々で例の機械を覗き込むその瞬間に電源を入れ、機械が動き始めた瞬間に彼女を突き飛ばした。

 その結果はもう語るまでも無い。

「に、逃げないと……。私が殺されるなんてまっぴら御免だ」

 元々は人が使っていた工場だ、内部は単純な構造で道ははっきり覚えている。機械から離れて所にいて良かった、全力で走れば追い付かれることも無いはず。

「急いで、逃げて……、警察に」

 タッ、タッ、タッ。

 狭い通路に足音が反響して響く。こんなにも音が響く場所だっただろうか? もしかしてリリーが迫って来ているのだろうか? いいや、きっとこれは恐怖心がそれを脳裏に響かせているんだ。振り返る暇など無い、私に迫る足音なんて無い。まだリリーは遠くにいるはずだ!

「大丈夫、大丈夫……」

 廊下を抜けて工場の外へひた走る。扉をぶち抜く勢いで荷物の搬入口へとなだれ込む。このままあのボロボロのシャッターを抜ければ……。

「え?」

 目の前に広がっていたのは異常な光景だった。無人のフォークリフトが前進と後退を繰り返し周囲のパレットを運んでいる。それはまるで在りし日の光景を再現しているかのように感じられた。

 そして不意に一台のフォークリフトがこちらを向く。

 ダッ、バンッ!

 私は反射的に廊下の方へと戻り扉を強く、力強く締め切った。

「あ、ああ、あ、有り得ない。幽霊なんて、有り得ない」

 これもリリーの仕込みだろうか? そうだ、そうに違いない。オカルトじみた要素を再現する為に彼女が事前に仕込んでいたのだ。リモコンか何かで動かしている、そうでしょう?

「あ、あの横を抜けて、逃げるべき?」

 誰にともなく問いかける。

 当然返答はなく、その答えは自分自身で考えるしかない。

 あのフォークリフトに危険はあるのか? 所詮私は人間だ、轢かれればただでは済まないし、振り回される爪のような部分が襲って来たとすれば避けられるかどうかも分からない。もしもあれがリリーの仕込みだとすれば……、目的はどうせ殺す事なのだ、死ぬ危険も高いだろう。

「……別の道は」

 内部の見取り図でもあればそれを模索する事も出来ただろうけど、そんなものは無い。かといってこの場に留まっていてもいずれリリーが追って来る。私は、どうすべきだ?

「……事務所に行こう」

 後から考えればおよそ正常な判断とは思えない結論だったけれど、この時はそれが正しいと信じて突き進んだ。

 事務所ともなれば見取り図ぐらいはあるだろうし、逃げ出した私がまさか事務所なんかに留まっているとはリリーも考え付かないだろうとおよそ狂気的な結論を出していたのだ。

 しかし冷静さを欠いていたとはいえ結果から見れば間違いとまでは言い切れない判断だ。そもそもこんなところに来たのが間違っているという点を除けば、だが。




 追ってくる気配がない事に疑問を抱きながらも私は事務所へと辿り着く。残念ながら機械のある作業場と異なりここの電気は点いていない。或いはスイッチを入れれば点くのかもしれないがそんなのは私がここにいると叫んでいるようなものだ、出来るはずも無い。

「見取り図、見取り図は?」

 ここにあると勝手に確信していた見取り図らしきものが見当たらない。

「机の中?」

 引き出しを開けて中の書類を無造作に掴み上げて、目的の物が無い事に苛立ちを覚える。

「無い、無いっ!」

 よくよく考ればここにあると決めてかかった時点で私が悪いし、こんな状況で声を上げるなど以ての外だ。後になって冷静になれば如何に愚かだったかよくわかるというもの。

 幸いにも未だリリーは追って来る気配が無く、私は徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。

「……私は何でこんなところに?」

 それはもう、事務所に来たこと自体を後悔するぐらいに。

「……逃げよう。フォークリフトぐらい避けられるはず……。とにかく工場から出てしまえば……」

 そこまで考えてふと気付く。リリーは今どこにいるのだろうか?

 私があの場から逃げ出したにも関わらず追いかけてくる様子が無いのはどうして? もし、もしもの話、彼女があそこで何かの間違いで自分も機械に巻き込まれ死んでしまったと言うなら、それ以上は無いだろう。

 でも実際は違うとしたら?

「……そうだ、リリーが私たちをここに誘い込んだ。だとすれば彼女はこの工場の内部には詳しいはず」

 当然、下調べなど完璧に済ませていることだろう。私が逃げ出した時に追いかけなかったのは別の道を使えば簡単に先回りが出来るからではないだろうか?

「……有り得る」

 私たちが通った道は工場の入り口から直線だったわけじゃない。ぐるりと工場の外縁を遠回りするような形だった。逃げ出した私が元来た道を戻るのを当然リリーは見ていただろう、そうであればどうやって外へ出るのかは簡単に予想が着く。もしもあの作業場から外へ直通の道があるのならば、既にリリーは外にいる?

「……確かめないと」

 冷静さと共に私はある決心をつけ始めていた。それは戦う決意だ。

 殺人鬼と対峙し、生き残るには……。




 事務所を出た私の手にはレンチと金槌が握られ、ポケットにも幾つかの工具を忍ばせている。おそらく機械の整備用だったのだろう、それらがきっちりと保管されている棚がありそこから拝借した物だ。

 リリーが私を殺そうとするのなら、私も同じことをするまでだ。考えてみれば実に都合が良い、私は私の平穏の為に、リリーを殺す、そうせねばならない。

 足音を立てぬようゆっくりと前へ進む。壁に張り付き、後方の気配も探りながらゆっくり、ゆっくりとあの場所へと向かう。

 近付くほどに後輩ちゃんを飲み込んだあの機械の音が徐々に大きくなっていく。これは私の足音を消してくれる味方であり、逆にリリーの足音をも消してしまう敵でもあった。一層慎重に前方後方のどちらにも人の気配がない事を確かめながら扉の方へ。

 扉は、閉まっていた。おそらく逃げる際に私が無意識の内に閉めてしまったのだろう。残念ながら窓は無く中の様子を覗くことは出来ない。なぜ閉めてしまったのか、開いていればそこから覗き込んで中の様子を確認できたのに。過去の自分にそんな文句を垂れながら私はドアノブをゆっくりと回す。

 ドアが開き隙間から光が差し込む。

 その瞬間、違和感を覚えた。

 逃げる時の事は無我夢中でよく覚えていない。しかしリリーが追ってくるという恐怖から背後にはかなり気を配っていた。当然、後ろを確認した時もあったのだ。その時の光景が頭の中に浮かび上がる。

 あの時、この廊下は明るかった。ドアは開いていたはずだ。

 思わず固まる。思考が流れて行く。

 それは果たして問題なのか? リリーがこちらに来てドアを閉めただけでは? だとしたら彼女は私の後を追っていたという事で、そもそも先回りしていると言うのは勘違い? ならばなぜ戻って来た私と彼女はすれ違っていないのか?

 些細な違和感が、私の手を止める。

 ぐちゅ。

 扉の向こうから奇妙な音が、まるで水を含んだ泥をこね回すような、いや、それにしてはどうにも生々しいと言うか……。

 何の音だ?

 僅かに顔を覗かせた好奇心が扉の隙間から中を覗けと叫ぶ。

 やめろと声を上げる恐怖心を抑え付け私は導かれるようにその向こうを見た。

 ぎょろり。

 生々しい赤色の顔、その中心にある瞳がこちらを向いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る