第3話 摩天楼の影
ニューヨーク。
摩天楼。無数の高層ビル。うごめく人々。車のクラクション。地下鉄の轟音。
この街は、地球で最もエネルギーに満ちた場所の一つだった。
同時に、最も疲れている場所の一つでもあった。
マンハッタンの路上で、僕たちは立ち止まった。
巨大なスクリーンに、ニュースが映し出されている。京都議定書の特集だ。地球温暖化を防ぐための国際会議。ヨーロッパと日本は批准したけれど、アメリカは離脱した。
「なぜだろう」
ピッパが訊いた。
スクリーンには、煙を吐く工場、渋滞する高速道路、溶けていく氷河の映像が流れている。
「経済を優先したんだろうね」
父さんパッパが静かに答えた。
「でも、この星が壊れたら経済も何もないのに」
「地球人は目の前のことで精一杯なんだよ」
母さんマッマが言った。
「明日の食べ物、来月の家賃、子どもの教育費。百年後の地球より、今日の生活の方が切実なの」
次の日、僕たちはセントラルパークを歩いた。
摩天楼に囲まれた緑のオアシス。ジョギングする人、犬を散歩させる人、ベンチで本を読む人。
「この街の人たち、緑を求めてるんだね」
ピッパが言った。
「そうだね。動物系進化の人類も、本能的に緑を必要としているんだ」
父さんが説明した。
「植物は酸素を作り、空気を浄化し、心を落ち着かせる。地球人は頭では理解していなくても、身体が知っているんだよ」
公園の片隅に、ホームレスの人たちが集まっていた。
段ボールで作った家。買い物カートに詰め込まれた全財産。疲れた表情。
「この国、すごく豊かなんでしょ?」
ピッパが不思議そうに訊いた。
「豊かさが平等に分配されていないんだ」
母さんが答えた。
「ある人は百億円持っていて、ある人は今日の食べ物もない。同じ星に住んでいるのに」
「モッパ星では考えられないね」
「そうね。でも、地球人はまだ若い文明なの。僕たちが今の段階に到達するまで、五千年かかった。地球人は、まだその途中なのよ」
『グラウンドゼロ』に立った時、僕は初めて地球の痛みを感じた。
2001年9月11日、ここで何千人もの人が亡くなった。
献花が並び、写真が飾られ、名前が刻まれている。若い人、年老いた人、子ども。国籍も、宗教も、肌の色も様々な人たちが、この場所で命を失った。
「テロリストは『正義のため』と言い、アメリカは『テロとの戦い』と言う」
父さんが呟いた。
「どちらも同じに見える」
母さんがぽつりと言った。
「暴力は暴力を生むだけよ」
近くで、一人の老婦人が泣いていた。息子の写真を抱きしめて。
僕は、その悲しみが波のように伝わってくるのを感じた。テレパシーではない。もっと原始的な、生命としての共感。
「モッパ星では一万二千年前に最後の戦争があった」
父さんが静かに話し始めた。
「僕たちの祖先も、他の惑星からの侵略により一度は争い多くの命が失われた。でも、ある日気づいたんだ——僕たちは植物から進化した種族だということを」
「植物は争わない。なぜなら、移動できないから。植物は奪わない。なぜなら、光は誰のものでもないから。植物は共生する。なぜなら、それが生き残る唯一の方法だから」
「そのルーツに立ち返った時、僕たちは争いを放棄した」
ピッパが訊いた。
「地球人も、そうなれるかな?」
父さんは答えなかった。
ただ、遠くを見つめていた。
ニューヨークで二週間を過ごした後、僕たちはシアトルに向かった。
バイクで北米大陸を横断する。約五分のフライト。
窓の外に広大な平原が広がる。山脈が連なる。五大湖が輝く。
「地球って、本当に広いね」
ピッパが窓に顔を押し付けた。
「モッパ星の三倍の大きさだからね」
「でも、モッパ星より人口が多いんだよね?」
「そうだよ。地球人は六十億人以上いる。僕たちは十億人しかいない」
「なんでだろう?」
「繁殖力の違いだろうね。動物系進化の種族は、植物系より繁殖力が高い。でも、そのぶん資源の消費も激しいんだ」
シアトルは緑豊かで、海に面した美しい街だった。
ニューヨークの喧騒とは違う、落ち着いた雰囲気。人々も穏やかで、時間がゆっくり流れているように感じた。
「この街、好きだな」
僕は素直に思った。
ある夜、メジャーリーグの試合を見に行った。
巨大なスタジアム。何万人もの観客。売り子の声。ホットドッグの匂い。
バッターがボールを打った瞬間、スタジアム全体が揺れるような歓声が上がった。
「すごい……」
ピッパが目を丸くしている。
「みんな、一つのボールを追いかけてるだけなのに、こんなに一体感があるんだね」
「地球人は、こうやって一つになることができるんだ」
父さんが微笑んだ。
「戦争じゃなく、スポーツで。憎しみじゃなく、情熱で。これが、地球の希望なんだよ」
試合後、僕たちは選手の一人と話をした。身長二メートル近い巨漢だ。
「やあ、少年たち!野球は楽しかったかい?」
「とても!」
ピッパが目を輝かせた。
「君たち、どこから来たの?」
「えっと……遠いところから」
僕が答えると、選手は笑った。
「そうか。俺もテキサスの田舎から来たんだ。遠かったよ。でも、夢を追いかけて来た。君たちも、夢を持ってるか?」
僕は少し考えてから答えた。
「地球が、ずっと美しい星であり続けますように」
選手は少し驚いた顔をした。それから、優しく微笑んだ。
「いい夢だ。俺も、そう願ってるよ」
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