第2話 怒りの在庫
階段を降りるごとに、空気の色が変わっていく。
上では、白と灰色しかなかった。
段差を三つ、四つと下りるうちに、
壁の塗装のムラや、貼りっぱなしの古いステッカーが目につくようになる。
バンドが、手首の内側でかすかに震えた。
《周辺E-Index:微増/要注意レベル未満》
表示自体は、いつもの文言だ。
それでも、ユイはほんの少しだけ息を浅くする。
階段の下から、低いざわめきが上がってきた。
言葉の断片と、笑い声と、押し殺した怒鳴り声。
規定のスピーカーから流れる啓発音声とは違う、
生身の声の高さと掠れ方。
それから、薄く混じる匂い。
古い油と、安い酒と、合成香料。
街の上では消されていたものばかりだ。
最後の一段を下りきると、地下市場の全景が広がった。
低い天井に、裸電球が等間隔にぶら下がり、
むき出しの配管が走っている。
床には簡易なマットが敷かれ、その上に折り畳み式のテーブルや木箱が並ぶ。
「禁止色」ギリギリの彩度で塗られた布。
地上よりは濃い茶色、赤茶、暗い青。
誰かがこっそり持ち込んだらしい印刷物もある。
情動バンドを布やテープで隠している客もいた。
皮膚とバンドの間に薄いシールドを挟めば、
脈波や体温の細かい揺れは「地下ノイズ」として一括処理される。
都市OSの地図上では、この一帯は常に《計測不能エリア》として塗りつぶされていた。
本当ならすぐに修復されるはずの断線も、「地下物流の緩衝地帯」という名目で、誰かの裁量によって放置されている。
ユイはフードをかぶり直しながら、
足元のケーブルを踏まないように歩いた。
ここにいる間だけ、
グレイの街の凪を忘れられる。
けれど同時に、
ここで扱っているものの危うさも、誰よりよく知っている。
*
市場の一角に、自然と足が向かう。
そこは、以前はミラの席だった。
安っぽい木のテーブルと、背もたれの壊れた椅子。
片側の壁には、手書きの在庫表が何度も書き換えられた跡が残っている。
ミラはよく、そこに足を投げ出して座り、
ミントキャンディを噛みながら帳面を弾いていた。
――感情は、宛先を間違えると毒になる。
――でも、本当に必要な毒も、ときどきある。
カセットを指先で転がしながら、
まるで天気の話みたいな調子で言っていた。
今、その椅子には別の人間が座っている。
四十代くらいの男。筋張った指。
ミラのような派手さはなく、
眉間に皺を寄せながら端末と在庫箱を行き来している。
「今日も来たのか、ユイ」
顔を上げた男が、短く顎をしゃくった。
名前を呼ぶ声に、思想は乗っていない。
ここでの仕事を「ただの物流」と割り切っている眼だ。
「配達分の受け取り。あと、預かり分の台帳確認」
「ログは?」
「上とは切ってきてる。ここにいる間は、ちゃんと圏外」
地下に降りる階段の途中で、情動バンド用の中継配線は意図的に切られている。
ここにいるあいだバンドが記録するのは、本人の端末に残るローカルログだけだ。
地上に戻って再接続する頃には、短時間の細かい揺れは「誤差」としてならされる。
男は頷き、椅子を少しずらしてスペースを作った。
テーブルの上には、端末と紙の在庫帳が並んでいる。
時代遅れの紙とペンを、ミラから引き継いだのだろう。
表の列には、印刷された見出し。
ID/感情種別/濃度/抽出元/期限/宛先タグ。
行を追っていくと、見慣れた言葉が並ぶ。
Sadness:低濃度/追悼用
Sadness:中濃度/離別記録
Numb:高濃度/トラウマ抑制
Pleasure:低濃度/娯楽補填
その中で、いくつかの行だけが、赤いインクで書かれていた。
Anger:高濃度/暴力事件ログ抽出/要許可
感情種別の欄に斜線が入り、
その横に小さなロックマークが描かれている。
ユイは思わず、指先でそこをなぞりそうになって、手を止めた。
「怒りの列、増えてない?」
何気ないふりをして、ページの端をつまむ。
男は肩をすくめた。
「上からの“注文”が増えててな。
捨てるには惜しいから、こっちで冷凍保管」
「冷凍、ね……」
他人の殺意が抽出されたログ。
暴力事件の瞬間の心拍、呼吸、視界。
それを封じ込めた透明なカセットが、
箱の奥で静かに光っている。
男はペン先で、その赤い行を軽く叩いた。
「ここに置いとくぶんには、まだ安全だ。
問題は、どこに流すかだ」
「街には、出してないんでしょう」
そう言うと、男はユイを一瞥し、苦笑した。
「出せるかよ。
こんなの、素人が吸ったら一日で二、三件は刺傷事件だ。
今は、上の連中にしか回してない」
「上って……情動研?」
「さあな。“研究用”ってラベルで運ぶだけだ。
最近は Calm の上のほう行きの便が増えてる」
Calm層。静穏市民。
怒りから最も遠いはずの階層に、
怒りの原液が送られている。
バンドが、《未分類ノイズ》の表示とともに一瞬だけ震えた。
ユイは画面を伏せ、深く息を吐いた。
*
「悪いな、話し込んだ。いつもの受け取り、済ませよう」
男は在庫帳から視線を外し、
棚の中段の箱を引き寄せた。
ラベルには、青いインクで印字。
Sadness:中濃度/家庭用/要宛先指定
これが、ユイの主な仕事だ。
公的なケアパックでは物足りない者たちに、
もう少しだけ深い「悲しみ」を届ける。
「今日は、この三本。宛先は封筒に」
男が紙封筒を三つテーブルに置く。
角ばった文字で、コードと簡単なメモが記されている。
LOW-27-B/妻の葬儀/二回目
MID-11-F/事故現場再訪前/一回分
LOW-09-C/自分用/原因不明の虚無感
ユイは封筒に目を通し、
それぞれに対応するカセットを確認してバッグに収めた。
「ありがとよ、お嬢ちゃん」
横から声がした。
振り向くと、先に約束していた常連が立っていた。
痩せた頬に無精髭。LOWの作業着。
前にも何度か「夜の感じ」を買いに来た男だ。
「昨日のやつ、悪くなかった。
あの晩のこと、ちゃんと見えた。
泣いて、寝て、ちょっと楽になった」
「そうですか」
ユイは短く頷き、バッグから一本取り出した。
ラベルには、Sadness:追悼/家族用/薄め。
男はそのカセットを受け取り、
少しだけ名残惜しそうに光を透かして眺める。
「……ほんとはさ」
「はい」
「“あのときの怒り”も欲しいんだけどな」
男は冗談めかして笑った。
「顔、思い出してさ。
ぶん殴りたくなるくらいのやつ。
あれが一番、こびりついてんだ」
ユイの喉が、わずかに動いた。
「ここでは取り扱ってません」
決められた返答。
声は静かだが、少し硬かった。
男は肩をすくめる。
「だよな。
聞いたぜ、怒りは一番“危なくて高い”って。
値も跳ねるし、メーターもすぐ振り切れる」
それは、事実の半分だけだ。
ユイは、そのことを口にしない。
「悲しみのほうが、あとが楽ですよ」
「かもな」
男はカセットをポケットにしまい、
ヒラヒラと手を振って市場の奥へ消えた。
ユイの耳には、
「怒り」という単語だけが、妙にはっきり残った。
ケアパックの現場で聞いた、
――こういう時に、怒っちゃいけねえのか?
という義足の男の声と、
今の客の溜息が、頭の中で重なる。
怒りを求める声は、
ゆっくりと、確実に増えている。
*
帳場の男が在庫帳を閉じかけたとき、
ユイはもう一度、棚の奥を見た。
「本当に、街には出してないんだよね」
赤いラベルの付いた箱。
白いテープにマジックで書かれた文字。
Anger 在庫/危険/無断開封禁止
男は、ため息まじりに笑った。
「出さなきゃやってけないくらい追い詰められたら、
こんなところで帳場なんかやってないさ」
「……そういう意味じゃ、安心しました」
「安心するな」
男はペンを指先で回しながら、視線だけ箱に投げる。
「在庫があるってことは、
どっかで誰かが“捨ててる”ってことだ。
上は、捨て場ごと買い取ってる」
捨て場。
怒りの廃棄場所。
ミラのノートの余白に、小さく書いてあった一節が、
ユイの脳裏に浮かんだ。
《Anger:扱いを誤るとEruption級》
《必要な毒/宛先・量・タイミングを選べる人間がいないうちは封印》
「ミラは、“必要な毒”って言ってたけど」
ユイは呟き、すぐに首を振った。
「今の自分に、それを選ぶ資格はない」
悲しみだけで、手一杯だ。
そう自分に言い聞かせる。
ポケットの中で、バンドが小さく振動した。
《内部E-Index:Sadness 5%/未分類成分+1%》
未分類。
自分の中にも、グレーではない何かが混じり始めている。
男はそれ以上何も言わず、帳面を引き出しにしまった。
「仕事は以上だ。帰りに気をつけな」
「はい」
ユイはバッグの重さを確かめ、
市場の雑踏へと再び紛れ込んだ。
*
出口に向かう途中で、
若い男たちの声が耳に引っかかった。
「今度さ、Angerの薄いやつ回してもらえるって話、マジ?」
「マジマジ。Calmの実験用のやつ、端っこだけこぼれてくるんだと」
「上のやつらだけズルいよな。
怒る権利まで独り占めかよ」
「こっちにも一滴くらい回してくれてもいいのに」
笑っているが、笑い声の端に、鋭い棘がある。
ユイは足を止めずに通り過ぎた。
市場のざわめきの中で、
あちこちから「怒り」という単語が、
小さな火の粉みたいに跳ねている気がした。
義足の男。
さっきの常連。
今すれ違った若い声たち。
みんな、怒る場所を探している。
――でも、それを手伝うのは、自分の役目じゃない。
そう思う。
そう決めている。
少なくとも、今は。
階段へ向かう通路の隅に、赤いラベルの付いた空き箱が放置されていた。
誰かが踏みつけたのか、角が潰れている。
ユイは視線を落とさないようにして、
早足でそこを通り過ぎた。
棚の隅の赤いラベルだけが、
灰色の視界のどこかに、いつまでも刺さったままだった。
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