EMOTION CONTROL ACT ―怒りの宛先―
鳥のこころ
第1話 灰色に滲む赤
朝のグレイは、相変わらず味がしない。
ユイは、金属のパックを歯で裂き、舌の奥に液体を流し込んだ。
喉を通る感覚だけが、かろうじて「何かを飲んだ」という事実を教えてくれる。
窓の外は、いつもの灰色の空だ。
雲の形はよく見えない。ビルの壁面も、空に溶けていくような低彩度のコンクリート色。
音楽はない。鳥の声も、とうの昔にこの街から消えた。
情動バンドが、手首で小さく震える。
――同期完了。今日も、問題なく「凪」でいられますように。
ユイは、いつも通りの祈りのようなものを頭の中でつぶやいて、
黒い薄型端末と、小さなケースを肩のバッグに収めた。
今日の配達分の情動ケア・パック。
大半は、加工済みの「悲しみ」だ。棘を抜いて、角を丸めて、
エモ・オフ加工された、安全な涙の残りかす。
本物の、他人の感情を詰めた違法な情動カセットは、
もっと別のルートで動く。
ユイは、この階でその名を口にしたことは一度もない。
泣けない世界のための、やさしい代用品だけが、
朝の仕事の顔だ。
*
LOWからMIDを抜けて、Calm層の街へ上がると、空気が変わる。
舗装は滑らかで、壁のひび割れも少ない。
ゴミは見当たらないし、監視ドローンの数も目に見えて増える。
人々の歩き方は静かで、視線は前を向いている。
笑い声も怒号もない。擦れ違う肩がぶつかっても、誰一人として振り返らない。
ユイは、首元のフードを少しだけ深くかぶった。
バンドの表示は《E-Index:基準値内》。
心拍も、瞳孔も、大人しく「市民らしい数値」に収まっている。
配達先は、Calm層の集合住宅の一室だった。
「情動ケア・プログラム特例対象」とタグがついたアドレス。
タワーの中層、角部屋。窓の目の前には、
本来なら「眺めがいい」と言われるはずの高架道路が走っている。
呼び鈴は鳴らさない。
事前に設定された時刻に、ドアのセンサーが自動でユイの端末を認識し、
ロックが外れた。
「失礼します。ケアパックの配達です」
形式だけの声をかけて入ると、
部屋の中央に、ひとりの女性が座っていた。
年齢は三十代半ば。淡いグレーのワンピースに、同じ色のカーディガン。
目の前のテーブルには、
処理済みの「追悼パッケージ」がいくつか並んでいる。
家族を失ったCalm層向けに、国家が提供する「公認の悲しみ」だ。
写真立ては、ない。
仏壇も、ない。
代わりに、白い箱がひとつ。表面に小さく記号だけが印刷されている。
「本日のケア分です」
ユイは、テーブルの上に静かにケアパックを置いた。
小さな透明カプセル。中身は、ごくごく薄い青。
女性は顔を上げた。
無表情――に見えるが、まぶたの動きがほんの少しぎこちない。
「いつも、ありがとうございます」
淡々とした声。
教科書に載っていそうな、模範的な発声。
「ログは、こちらで」
ユイは端末をテーブルに向け、
女性の情動バンドと同期させる。
画面には、その一週間のE-Indexのグラフが現れた。
ほとんど、まっすぐな線だ。
小さな波形がいくつかあるが、規定値内。
――穏やか。安定。問題なし。
システムのコメント欄には、そう表示されている。
ただ、そのグラフの一角に、
ユイには見覚えのない色が、ほんのわずかに滲んでいた。
淡いグレーの波形の縁に、
細い細い赤い線が、一本だけ沿っている。
ユイは、まばたきした。
次の瞬間には、画面は元のグレーに戻っていた。
見間違いかもしれない。
エラーかもしれない。
そう思って、指先で画面をスクロールする。
今度は、文字が一瞬だけ揺らめいた。
《感情パターン補足:Sadness+微量の 》
そこまで出て、文が途切れる。
すぐに上書きするように、別の一行がかぶさった。
《ログ正常。追加検査不要》
いつもの、見慣れた判定文。
「何か、問題がありましたか?」
女性が、テーブル越しに問いかけてきた。
声には、特に揺れはない。
「いえ……少し、通信が重かっただけです」
ユイは愛想笑いではない、
ただ角の取れた「問題ありません」の表情を貼り付けて、頭を下げた。
バンドが、手首の内側で、かすかに震える。
《E-Index:+0.03》。誤差レベルの変化。
――見てはいけないものを、見てしまったときの感覚に似ている。
ユイは、余計な視線を部屋の中に滑らせないように気をつけながら、
端末をバッグに戻した。
「では、また来週」
「はい。また、お願いします」
ドアが閉まり、自動ロックの音がした。
静かな廊下に出ると、空調の一定の風切り音だけが耳に残る。
エレベーターホールの壁は、
相変わらず何の広告も貼られていない。
過去にはポスターを剥がしたような痕跡すらない。
ユイは、エレベーターを待ちながら、
さっきの赤い線のことを考えないようにしていた。
考えないようにしようとすると、
かえって鮮明に浮かんでくる。
――悲しみの縁に、薄く滲んだ赤。
それは、怒りの色に見えた。
*
配達ルートの後半は、MID層だ。
工場と事務所が並ぶエリア。
昼休みには人が少しだけ街に溢れるが、声は低い。
ユイは、歩きながらケアパックの在庫を確認する。
今日の配達先は、すべて「悲しみ」だ。
怒りや喜びのパックは、倉庫の奥で封をされたまま眠っている。
地下で動く“本物”のカセットは、また別のルートと時間帯の仕事だ。
角のない、なめらかな悲しみ。
刺さないように丸められた、涙の断片。
それが、この街の唯一の例外として許された感情。
公認の追悼。計画された喪失。
ユイは、自分の足音がアスファルトに吸い込まれていく感覚をぼんやりと眺めながら、
ふと思い出した。
数日前、地下市場で見た棚の隅。
埃をかぶった木箱のラベル。
「Anger カセット在庫 — 要許可」
そこに並んでいたのは、
公認のケアパックではない。本物の「情動カセット」だ。
他人の感情ピークをまるごと抽出した、濃度の高い危険物。
国家から見れば完全な違法品。
でも地下では、金になる。
ミラが消える前、よく口にしていた言葉が、耳の奥で蘇る。
――感情は、宛先を間違えると毒になる。
――でも、本当に必要な毒も、ときどきある。
そのときは、ただの商売人のせりふだと思っていた。
理念より計算、という感じの声。
今は、少しちがって聞こえる。
エレベータから降りてきた作業員が、
ユイの横を通り過ぎた。
肩が軽くぶつかる。ユイは、反射的に一歩引いた。
「……」
謝罪も、文句も、どちらもない。
作業員は、そのまま無言で歩き去る。
その背中を見送った瞬間、
ユイのバンドが、ほんのわずかに震えた。
《周辺E-Index:局所的微増》
表示されたメッセージは、それだけだ。
詳しい内訳は、一般市民のバンドからは見えない。
ただ、数メートル先を歩く作業員の首筋に、
かすかに強張った筋肉の線が浮かんでいるのが見えた。
――苛立って、いる?
その問いが頭に浮かんだ瞬間、
ユイは慌てて思考を切り替えた。
「配達先、次は……Bブロック、第三棟」
口の中で、小さく宛先コードをなぞる。
合法のケアパックの仕事でも、
地下でカセットを運ぶ仕事でも、
世界のルールは同じだ。
「どこへ届けるか」がすべて。
宛先を間違えれば、
それはただの違法な感情密輸になる。
宛先が空白の感情は、この街では「危険物」だ。
――だから今のは、きっと気のせい。
自分にそう言い聞かせるように、
ユイは、足を速めた。
*
その日の最後の配達は、
MIDとLOWの境界近くにある小さな工房だった。
表向きは機械部品の修理工場。
裏で、認可外の情動バンド修理も請け負っているという噂の店。
配達先として登録されているのは、「過去の事故被害者」。
扉を開けると、油の匂いがした。
灰色に塗られた機械の中で、ひとつだけ古い椅子が目立つ。
そこに座っていた男は、片足が義足だった。
タオルで額の汗を拭いながら、ユイに気づくと片手を上げる。
「おう。今週も来たか」
声は低いが、どこか柔らかい。
「ケア・プログラム分を、お届けにあがりました」
ユイは形式的なせりふを口にしつつ、
テーブルの上にケアパックを置いた。
今回は二本。どちらも薄い青。
男はそれをしげしげと眺める。
「これ、飲むとさ」
「はい」
「確かに、少しは楽になる。
あのときのことを、まっすぐ見てられる。
痛いけど、刺さらない感じでよ」
「……それは、よかったです」
「でもな」
男は、パックの表面を指で軽く弾いた。
カチ、と乾いた音が響く。
「泣いたあと、そのまま終わっちまうんだよな。
何も変えられねえまま、ただ“仕舞い”になる」
ユイは、返す言葉を持っていなかった。
この街では、理由は問われない。
失恋でも、ニュースでも、カセットでも、
E-Indexがしきい値を超えれば、一律で「感情違反」だ。
公認のケア・パックだけが、あらかじめ登録された波形のおかげで、
その揺れを“治療の範囲内”として見逃されている。
規定上は、このケアパックのおかげで「日常に戻れる」のが正解だと教わってきた。
けれど、男の声の奥にあるものは、
そのどれにも当てはまらないような気がした。
男は、自分の義足を軽く叩く。
「俺をこんなにしたやつの顔も名前も、もう消された。
ログも、裁きも、どこにも残っちゃいねえ。
あるのは、この足と、このパックだけだ」
バンドが、ユイの手首で震えた。
《周辺E-Index:Sadness 32%/未分類成分+2%》
未分類。
グレーでも青でもない、何か。
「お嬢ちゃん」
「……はい」
「こういう時に、怒っちゃいけねえのか?
怒る場所が、どこにもねえのは、正しいのか?」
問いは、投げっぱなしだった。
答えを求める声ではない。
ユイは、口を開きかけて――やめた。
「……ログの提出をお願いできますか」
それだけ言って、端末を差し出す。
男は肩をすくめ、バンドをかざした。
画面には、また波形が表示される。
ほとんどは、きれいな悲しみの曲線。
ただ、その端に。
やはり、薄い赤が、じわりと滲んでいた。
今度は、一瞬で消えなかった。
ユイは、息を詰める。
《補足パターン:Sadness+Anger_pre(微量)》
《統計値:許容範囲内/要経過観察》
赤い文字は、数秒だけそこに留まり、
やがて灰色の「問題なし」に上書きされた。
バンドが、ユイの皮膚を内側から叩くように震えた。
――怒り。
その単語を、思考の中で組み上げた瞬間、
内側から何かが「違反」と囁いた気がした。
強い感情は危険物。
怒りは、感染する暴力の芽。
情動抑制法の条文が、頭の中で自動再生される。
だから、これは見なかったことにするべきだ。
目を逸らし、ログを通常送信する。
情動保安局のサーバへ、今日のデータが吸い込まれていく。
男は、パックをポケットにしまいながら、
何かを決めたような顔で笑った。
「まあいいさ。
怒り方を忘れちまった歳でもねえしな」
冗談めかした調子。
だが、ユイのバンドは、その言葉に静かに反応した。
《周辺E-Index:Anger_pre 3%》
ほんの、微量。
でも、それは確かに「ある」と記録された。
*
その日の帰り道、空はいつも通りの灰色だった。
照明も、建物も、人々の服も、
どれもきちんと「感情を刺激しない色」に調整されている。
けれどユイには、
街のどこかに、肉眼では見えない何かが混じり始めているような気がした。
追悼のための悲しみの縁に、
こぼれ落ちた一滴の赤。
誰にも向けられない怒り。
宛先を書かれていない感情。
システムの分類では、今はまだ「誤差」だ。
統計の端に「要経過観察」と一行添えられるだけの、小さな揺らぎ。
でも――ユイの皮膚の下では、
その言葉よりずっと大きなざわめきが続いていた。
地下へと続く階段の入り口が見えてきた。
グレイの街の隙間に口を開ける、
少しだけ暗い影。
レンとの夕食の時間には、まだ少し余裕がある。
まっすぐ帰る選択肢も、確かに目の前にぶら下がっていた。
ユイは、バンドの表示を一度だけ確認した。
《E-Index:基準値内》。問題なし。
深呼吸をひとつだけして、
灰色の世界の下に広がる、
まだ色のついた地下の空気へと、足を踏み入れた。
――悲しみのあとに滲み始めた、この赤が何なのか。
その答えを知るには、
まだ、ほんの少しだけ早すぎる。
それでも、もう始まっているのだと、
バンドの奥のわずかな熱が告げていた。
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