駅前なんでも人生会議

@zeppelin006

駅前なんでも人生会議

 駅前商店街の一番はずれに、「市役所臨時相談窓口」と書かれた、どう見ても臨時以上に長居しているプレハブ小屋がある。


 張り紙は色あせ、入り口のドアはちょっと斜め。上司いわく「市民との距離が近い場所に、気軽に相談できる窓口を」とのことだが、実態は「本庁舎には置きたくない面倒ごとを、うまくオブラートに包んで押し込んだ箱」である。


 で、そこに配属されたのが、新人非常勤職員の僕だ。


 名前は春川悠人(はるかわ・ゆうと)、二十六歳。

 公務員試験に二連敗し、なんとか拾われた臨時職員である。

 名刺の肩書きは「駅前商店街連携担当」。聞こえは良いが、実態は何でも屋だ。


 そんなわけで今日も、朝九時ちょうど。プレハブの引き戸をガラガラと開け、蛍光灯のスイッチを入れる。


「……よし、今日も、誰も来ない!」


 思わずガッツポーズをしてから、ひとりツッコミを入れる。


「いやダメだろ、それは」


 市民対応窓口で「客が来ない」が快適な時点で、何かが間違っている。しかし、先週の来訪者数は三日連続ゼロ。その前の週も似たようなもので、たまに来るのは「ここ、トイレ借りられる?」という人くらいだ。


 僕はカウンター奥の折りたたみ椅子に座り、湯沸かしポットのスイッチを押した。湯気が上がるあいだ、壁に貼られたポスターに目をやる。


「商店街再生プロジェクト」「なんでも生活相談」「子育て・介護・仕事、お気軽に」。


 お気軽に、と言われても、こんなプレハブに気軽に入ってくる人は少ない。

 そりゃそうだ。外から中は丸見えで、入ったら最後、逃げ場がない設計だ。


「まず入口のハードルが高いんだよな……」


 と、ひとりごちていると、カラカラ、と引き戸が開いた。


「すみませーん、開いてますか?」


 顔を出したのは、エプロン姿の女性だった。隣のパン屋「クマパンベーカリー」の店主、久間さんだ。三十代前半、小柄でよく笑う人だが、今はなぜか渋い顔をしている。


「あ、久間さん。おはようございます」

「おはよう。ねえ春川くん、『なんでも相談』って書いてあるけど、本当に何でもいいの?」

「市役所に関係しそうなことなら、だいたい大丈夫です」

「じゃあギリギリね」


 ギリギリって何だ。


「えっと、どうしました?」

「パンが売れない」


 即答だった。


「ストレートですね」

「ストレートに切羽詰まってるのよ、こっちは」


 聞けば、最近駅前に大手チェーンのベーカリーカフェができ、客足が目に見えて落ちたという。特に昼の時間帯、OLさんや学生が一気にそっちに流れてしまうらしい。


「うちは“昭和の町のパン屋さん”だからさ。ふわふわクリームパンとか、あんぱんとか、そういうのがメインで……。でも今どきのおしゃれパンって、なんか上に草とか乗ってるじゃない?」

「草って言い方やめてください。バジルとかルッコラとかです」

「そう、それそれ。うちのパンに草乗せたら、常連さんに怒られそうでさあ」

「まあ、そうですね……」


 確かに。あの商店街の雰囲気に、ルッコラはまだ早い気がする。


「で、市役所として何かできないかなって」

「市役所として、ですか……」


 補助金、イベント、広報。

 頭の中でいくつか浮かんでは消える。だけどどうにも、ピンとこない。


「ごめんなさい。すぐに『これ!』っていうのは出てこないですけど……一緒に考えてみます?」

「おお、心強い。じゃあさ――」


 久間さんは、ポケットから一本のボールペンを取り出し、僕の方へ向けた。


「春川くん、“パン売上回復プロジェクト”の、リーダーに任命します!」

「軽いノリで言った割に、責任重そうなんですけど」

「大丈夫。困ったら『市役所の人に任されまして』って言えばいいから」

「それ完全に僕が怒られるやつですよね?」


 笑ってごまかしていると、また引き戸がカラカラと開いた。


「失礼しまーす」


 今度入ってきたのは、よれよれのスーツ姿の中年男性。商店街にある文房具店の二代目、森田さんだ。四十代前半、いつも肩がちょっと前に落ちている。


「あれ、森田さん。こんにちは」

「おう、春川くん、いたいた。ちょっと相談があってな」

「えーと、今、パン屋さんの売上回復について話してまして」

「パン? おお、うちのシャープペンも一緒に回復させてくれ」


 ストレートに来た。


「文房具、売れてないんですか?」

「売れない。子どもはみんな百均かネットで買うし、大人はそもそもペンをあまり使わない。うちはどんどん在庫が増える。今や店の奥、シャーペンの墓場みたいになってる」


 その表現やめてください、縁起でもない。


「でな、市役所の“なんでも相談”って書いてあったから、何とかしてもらおうと思って」

「いや、その、何とかって言われても……」


 さっきから「何とかしろ」の難民が集まってくる。

 僕の名札に「便利屋」とでも書いてあるのだろうか。


 と、そのとき外から声がした。


「あのー、ここに、就職の相談ってしてもいいんですか?」


 ガラガラ、と勢いよくドアが開く。

 入ってきたのは、黒いパーカーにジーンズ姿の青年だった。髪はぼさぼさ、目の下にはうっすらクマ。手にはハローワークの求人誌。


「あ、はい。できますよ」

「よかった……。あの、俺、フリーターっていうか、ほぼ無職で、でもそろそろちゃんとした仕事しないとヤバいなっていうか……」


 喋りながら、自分で自分にダメージを与えているタイプだ。


 あっという間に、狭いプレハブは人でいっぱいになった。

 パン屋、文房具屋、フリーター。全員、困っている。全員、僕を見ている。


 ――え、なにこれ。公開人生相談? 


 僕はとりあえず、湯呑みの数を数えた。四つ。ギリギリ足りる。


◇ ◇ ◇


「というわけで――」


 数十分後。

 僕たちは、プレハブの中で丸くなって座っていた。折りたたみ椅子と段ボール箱を組み合わせた、即席の円卓会議だ。


「本日よりここは、『駅前なんでも人生会議』にします」

「名前ダサくない?」と久間さん。

「まったくその通りだ」と森田さん。

「いやそこは同意しないでください」


 就職希望の青年は、所在なさげに笑っている。


「でもまあ、せっかくだからさ。みんなでアイデア出し合ってみません? お互いの悩みを持ち寄って、一緒に解決策を考えるとか」

「春川くん、それって市役所の正式な事業?」

「非公式です。完全に僕の趣味です」

「趣味で人の人生をいじるな」


 森田さんのツッコミは、いつも混じり気のない。


「でも、ひとりで悩んでても行き詰まるじゃないですか。違う商売してる人の視点とか、フリーターさんの感覚とか、そういうのを混ぜたら面白いかもって」


 正直なところ、思いつきだった。

 けれど、誰かの「困った」を、一人で抱えるよりは面白そうだ。


「俺は、ちょっと興味あります」


 パーカーの青年が口を開いた。


「あ、自己紹介まだでしたね。僕は春川悠人、市役所の非常勤です」

「私は久間。パン屋です」

「文房具店の森田だ」

「あ、えっと……俺、佐伯匠。二十三歳です。とくに肩書きはありません」


 その言い方が妙に潔かった。


「じゃ、第一回『駅前なんでも人生会議』、議題は――」

「『どうしたらパンとシャーペンとフリーターが救われるか』だな」と森田さん。

「まとめ方が雑すぎる」と僕。


 しかし、確かに話はそこに収束しそうだった。


◇ ◇ ◇


「まずパンなんだけどさ」


 久間さんが腕を組む。


「うちの売りって、“手作り感”と“懐かしさ”だと思うのよ。お客さんも、昔から来てくれてる人が多いし。でもそれだけだと新規が増えない。若い子にも来てほしいの」

「インスタ映え的なやつですか?」と佐伯くん。

「そう、それ。でも私、インスタ映えがよくわからない。パンってだいたい茶色じゃない? 茶色は映えない」


 そこまで言い切られる茶色もかわいそうだ。


「じゃあ、森田さん。文房具の悩みは?」

「うちの売りは、“店主の無駄な知識”だな」


 唐突に自虐をぶち込んでくる。


「子どもに『このシャーペンは芯が0.3でだな、最近の試験では〜』とか語りだすと、だいたい逃げられる」

「逃げられるんですか」

「そりゃ逃げるだろ。俺だって逃げたい」

「じゃあ、語らなきゃ良いのでは?」

「それが、話聞いてくれると嬉しいんだよ。寂しい中年のささやかな願望なんだよ」

「重い感情を乗せないでください」


 でもなんとなく、わかる気もする。

 好きで始めた店だ。語りたいことくらい、あるだろう。


「俺の悩みは……まあ、仕事ですね」


 佐伯くんが言う。


「バイトはいろいろやってきたんですけど、続かなくて。居酒屋、工場、コンビニ。全部一年持たない。怒られるとすぐ凹むし、逆に褒められると調子に乗ってミスするし」

「扱いづらいな君」と森田さん。

「ですよね」


 開き直りか。


「で、就職しようにも、『すぐ辞めるんじゃないか』って面接で突っ込まれて……。いや、実際すぐ辞めてるから何も言えないんですけど。でもそろそろ、親にも申し訳ないし、自分でもちゃんと働かなきゃって」


 彼は、手元の求人誌をぐしゃっと握りしめた。


「でも、何が向いてるのか、わからないんですよね。俺にできることって、なんなんだろうって」


 その言葉に、プレハブの空気が少しだけ、重くなった。


 パンが売れないのも、文房具が売れないのも、仕事が見つからないのも。

 根っこは似ている気がした。


 ――自分の「価値」を、どう人に伝えればいいのか、わからない。


 僕自身、同じだ。

 公務員試験に落ち続け、臨時職員になった僕が、人の人生にアドバイスするなんて、おこがましいかもしれない。

 でもだからこそ、一緒に悩める気もした。


「じゃあさ」


 僕は言った。


「みんなで、自分の“いいところ”を勝手に掘り出し合いません?」

「勝手に?」

「本人が自覚してない長所とか、客の立場から見える魅力とか。そういうのを、他人の目で拾っていくんです。名付けて――」


 僕はペンを握りしめ、メモ用紙に大きく書いた。


「『勝手に長所発掘タイム』!」


 その場にいた全員が、微妙な顔をした。


「ネーミングセンスに改善の余地あり」と久間さん。

「同意」と森田さん。

「どこかで聞いたような言葉に“勝手に”を足しただけな気が」と佐伯くん。


 やかましい。

 でも構わず続ける。


「まず、久間さんのパン屋さん。お客さんの立場から見て、“いいところ”って何だと思います?」

「安い」と森田さん。

「ほかには?」

「朝早くから開いてる」

「ほかには?」

「焼きそばパンに、妙にやる気を感じる」

「それ褒めてます?」


 佐伯くんが言った。


「俺、ここのカレーパン好きです。中身がちゃんと“おかず”なんですよ。コンビニのより、家庭のカレーっぽい」

「おお、それは嬉しい」


 久間さんが、少し照れくさそうに笑う。


「でもさあ、それって“おふくろの味”ポジションなんだよね。今どきの若者は、映えるもの好きじゃない?」

「いや、“映える”にもいろいろあると思います」


 僕は言った。


「たとえば、SNSで人気の“エモい”って言葉あるじゃないですか」

「あるな。よくわかってないけど」

「“今っぽさ”より、“懐かしさ”とか“生活感”のほうが、逆に刺さることもあるんです。昭和っぽい店構えも、写真によってはかっこいいですよ」


 僕は壁に貼られたポスターを指さした。


「ここに商店街のイベントで使った写真ありますよね。この、子どもが店の前でアイス食べてるやつ。めちゃくちゃいい写真じゃないですか」

「これ? ……ああ、本当だ。なんか、映画のワンシーンみたい」

「こういうのを前面に出したら、“昔ながらのパン屋さん”が、逆に“新しい場所”に見えるかもしれません」


「なるほど……」


 久間さんの表情が、少しだけ明るくなる。


「じゃあ次、森田さんの文房具店。いいところは?」


「うーん……」


 黙り込む全員。

 いや、そんなにないのか。


「あるだろ、ひとつくらい」と森田さんがぼやく。

 そのぼやき方が、こんな状況でもちょっと面白いのがズルい。


「あ、俺、あります」


 佐伯くんが言った。


「俺、受験のとき、森田さんに“これいいよ”ってすすめられたシャーペン、ずっと使ってたんですよ。“替え芯はこれな”ってセットで買わされて、そのときはちょっと高いなって思ったけど、結果的にむちゃくちゃ使いやすかった」


「おお、そうかそうか」


 森田さんの顔が、ぱっと明るくなる。


「あと、ノートの選び方とか教えてもらって。”科目ごとに色を分けると整理しやすい”とか。ああいうの、学校の先生は意外と言わないんですよね」

「おお、俺そんなこと言ったか」

「言ってました。だいぶ前ですけど」


 その会話を聞きながら、僕も思い出した。

 高校のとき、近所の文房具屋で、やたらとノートの種類について熱く語ってくれた店主がいた。あれは森田さんだったのだろうか。


「森田さんの店の強みは、“店主の無駄知識”じゃなくて、“店主の本気アドバイス”じゃないですか?」

「おお、その表現はいいな」

「『勉強の仕方、教えます。ノートと一緒に』みたいな。そういうの、塾より気軽に相談できる場所としてニーズあると思います」


「いやいや、俺、塾の先生じゃないぞ」

「でも、塾の先生より説得力あることもありますよ。少なくとも、“勉強グッズには詳しいプロ”なわけですし」


 森田さんは、しばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。


「……そうか。俺、いつの間にか、ただの“売れない店主”になってたわ。最初は“文具好きな兄ちゃん”のつもりだったんだけどな」


 その言い方が、ちょっと切なくて、ちょっと可笑しかった。


「じゃあ最後、佐伯くん。君の長所は?」


「え、俺ですか?」


 彼は慌てて背筋を伸ばした。


「長所なんて、ないですけど……」

「あるに決まってるじゃないですか。さっきの会話聞いてて思ったのは――」


 僕は、さっき彼がパンや文房具の話をするとき、どうしていたかを思い出す。彼は、他人の話をよく聞いていた。笑いながら、うなずきながら。


「人の話を、ちゃんと聞く人ですよね」

「え?」

「さっきから、久間さんや森田さんの話、ちゃんと拾ってくれているし。“それ、いいですね”って素直に言ってました。そういうの、簡単そうで案外難しいんです」


 彼はきょとんとしている。


「あと、自分のダメなところもちゃんと笑いながら言えるの、すごいことですよ」

「いや、それはただの自虐で……」

「自虐を笑い話にできるのは、ある意味、立派なコミュニケーション能力ですよ。居酒屋のバイトとかで、絶対重宝されます」

「居酒屋、続かなかったんですけど」

「それはたぶん、他の要因です」


 周りからも、声が上がる。


「若い子で、あんなちゃんと相槌打てる子、あんまりいないよ」と久間さん。

「そうそう。俺の長話にも付き合ってくれそうだ」と森田さん。

「それ、褒めてます?」


 笑いが起きる。

 プレハブの空気が、ようやく軽くなった。


◇ ◇ ◇


 話し合いの結果、よくわからないうちに、商店街ぐるみの企画が一つ立ち上がっていた。


「『受験生応援!商店街まるごと勉強フェア』?」


 僕がホワイトボード(森田さんが持ってきた)に書いたタイトルを読み上げると、全員が「おお」と言った。


「うちのパン屋は、“夜食パンセット”を作る。カレーパンとあんぱんと、眠気覚ましにちょっと酸っぱいレモンパンとか。受験生割引、しようかな」

「うちは、“受験ノートお試しコーナー”だな。書きやすさを体験できるスペース作って、ついでに勉強の悩みも聞く」

「俺、何するんですか?」


 佐伯くんが不安そうに尋ねる。


「君は――“受験生の話を聞く係”とか、どうです?」

「え、それ仕事なんですか?」

「仕事です。受験生、親にも先生にも言えない悩み、いっぱいありますから。『最近やる気が出ないんですよね』って話、ただ聞いてくれるだけでも救われると思います」


「でも、俺、大したアドバイスできないですよ」

「アドバイスじゃなくていいんですよ。『わかる』って言ってあげるだけで、十分です」


 人の話を聞く。それは彼の長所だ。

 それを、「役割」に変えてしまえばいい。


「で、市役所としては、商店街と学校をつなぐ役割をします。チラシ作成と配布、SNSでの告知、あと、勉強会スペースとして、ここのプレハブも開放します」

「勉強できる感じの雰囲気じゃないけど」と久間さん。

「模様替えしましょう。机並べて、ホワイトボード置いて。『なんでも相談室』から、『なんでも勉強室』にもなる感じで」


 そこまで話したところで、僕はふと我に返った。


「……あれ。これ、臨時職員が勝手にやっていい範囲、超えてません?」

「大丈夫大丈夫。市民が自発的に動いているところに、“市役所が協力する”という形にすればいいのよ」と久間さん。

「そうそう。そのほうが、『自助・共助・公助』っぽくて、偉い人も好きそうだ」と森田さん。

「言い方が生々しいんですけど」


 実際、偉い人の耳に入ったらどうなるか分からない。

 けれど、僕は少しわくわくしていた。


 商店街の人たちと一緒に何かを作れるなら、それはきっと、市役所の仕事の本質に近い。


「よし。じゃあ、やりましょうか」


 僕がそう言うと、全員がうなずいた。


◇ ◇ ◇


 企画を実現するには、山のような細かい準備が必要だった。


 まずチラシ作り。

 プレハブの片隅にノートパソコンを持ち込み、デザインソフトと格闘する。

 文字の大きさ、色、配置。印刷予算との兼ね合い。

 久間さんは、「パンの写真は絶対入れて!」「このカレーパンの角度大事!」とこだわりを見せ、森田さんは「勉強感出すために、ペンのイラストを」「でもごちゃごちゃすると読みにくい」と首をひねる。


「ねえ春川くん、ここに“がんばる受験生を、まち全体で応援します!”って入れよ」

「いいですね。それ、市役所っぽいし、商店街っぽいです」

「でしょ」


 次に、学校への根回し。

 近隣の中学校と高校の教頭先生に電話し、主旨を説明し、チラシを配ってもらえるよう頼む。


「市役所さんが商店街と連携してやるなら、ぜひ協力させてください」と、意外にもすんなりOKが出た。

「ただ、勉強会スペースでの事故とかには気をつけてくださいね」と念を押される。


 さらに、プレハブの模様替え。

 市役所の倉庫から古い長机とパイプ椅子を借りてきて、狭い室内にぎゅうぎゅうに並べる。

 壁には「集中タイム」「相談OK」などの手書きポスターを貼る。佐伯くんが、意外な絵心を見せた。


「絵、うまいですね」

「いや、落書きだけは得意なんです」


 そんなやりとりをしながら、少しずつ、プレハブは「人が集まる場所」に変わっていった。


◇ ◇ ◇


 そして迎えた、フェア初日。


 土曜日の午後。

 商店街には、普段より少しだけ人通りが多いように見えた。


「本当に受験生、来るかな……」


 僕は不安を紛らわすために、机の上のペンを並べ直す。森田さんが無料貸出用のシャーペンを十本用意してくれた。久間さんは、差し入れ用のミニパンを箱ごと置いていった。


「来なかったら、俺が全部食べるから大丈夫だ」と森田さん。

「パンはほどほどにしてください。健康診断、近いんですよね?」

「バレてたか」


 そんな会話をしていると、プレハブの前をうろうろする小さな影が見えた。


 中学生くらいの男の子。手に参考書を持ち、入り口の前で立ち止まったり、戻ったりを繰り返している。


 僕はそっとドアを開けた。


「こんにちは。勉強、しに来た?」

「え、あ、その……」


 彼は目を泳がせる。


「べ、勉強会って書いてあったから……」

「うん。好きな時間だけ、ここで勉強していいよ。分かんないところがあったら、誰かに相談してもいいし。飲み物は、そこ。パンも、よかったら」


 彼はプレハブの中を見回し、一瞬だけ迷った顔をしてから、意を決したように入ってきた。


「じゃあ……おじゃまします」

「いらっしゃい。名前、聞いてもいい?」

「中学三年の、石田です」


 彼はそう名乗り、机の一番端に座った。

 参考書を開き、鉛筆を握る。その姿が、なんだかとても大きく見えた。


 それからぽつぽつと、他にも受験生らしき子どもたちがやって来た。友達と一緒に来る子、一人でふらっと入る子。中学生、高校生、合わせて十人ほど。


「思ったより来たな……」


 森田さんが、小声で言う。


「嬉しい誤算ですね」


 中には、勉強をそっちのけでパンばかり食べている子もいたが、それもご愛敬だ。


 佐伯くんは、入口近くの椅子に座り、壁にもたれながら、そっと様子を見ていた。

 最初は声をかけるタイミングがわからず、おろおろしていたが、やがて、ある男子高校生がため息をついた瞬間を見逃さなかった。


「どうしました?」


 彼は、さりげなく隣の椅子に移動して、声をかけた。


「あ、いや、その……数学が、わかんなくて」

「どこどこ? 見せてもらっていいですか」


 そう言って彼の参考書を覗き込み、「あー、これ、俺も苦手だったやつだ」と笑う。


「でもさ、これって公式覚えるだけでそこそこ点取れるやつだよ。こういうところから稼いでいこうぜ」


 高校生は苦笑しながら、「はい」と答えた。

 その会話をきっかけに、周りの子たちも少しずつ話し始める。


「私、英語の長文が……」

「俺、塾に行ってないんですけど、大丈夫ですかね」


 佐伯くんは、「大丈夫っすよ、俺なんて塾サボってばっかりだったし」と、自分の失敗談を交えつつ話を聞いている。

 その姿は、不器用だけど、確かに「誰かを支えよう」としていた。


 プレハブの空気が、少しずつ温かくなっていく。


◇ ◇ ◇


 夕方。


 勉強会が一段落し、子どもたちが帰ったあと。

 プレハブには、使い終わった紙コップと、食べ散らかされたパンの袋が残っていた。


「いやー、疲れた」


 森田さんが椅子にどさっと座る。


「でも、なんか良かったな。『このノート書きやすいですね』って言われて、ちょっと泣きそうになったわ」

「『パンおいしかった』って言われるのも嬉しいけど、『これ食べたら勉強がんばれそう』って言われたの、かなりきました」と久間さん。


 佐伯くんは、机に突っ伏している。


「おつかれさまです。聞き疲れました?」

「はい……人の話聞くのがこんなに体力使うとは……でも、なんか、変な感じです」

「変な感じ?」


「なんか、今日は、“バイト”っていうより、“ここにいていい理由”があった気がするんですよね」


 彼は顔を上げ、天井を見た。


「これまでの俺って、“仕事があるから、働く”“お金のために働く”って感じだったんですけど。今日は、“誰かの役に立ってるから、ここにいる”って感覚が、ちょっとだけあって」


 言葉を選びながら話す姿が、少し大人びて見える。


「それ、大事な感覚だと思います」


 僕は言った。


「僕も、臨時職員になったとき、『俺、正職員じゃないからな』ってずっと引け目感じてたんです。でも、こうやって商店街の人たちと一緒に何かやってみると、“立場”より、“今ここで何をしているか”のほうが大事だなって、少し思えてきて」


「春川くんのくせに、いいこと言うな」と森田さん。

「くせに、って何ですかくせにって」


 笑いながら、僕は窓の外を見た。

 商店街の街灯に、ぽつぽつと灯りがともり始めている。


 この通りには、いろんな人生がある。

 売れないパン屋。売れない文房具店。仕事を探すフリーター。

 そして、彼らの店に通う子どもたちや、お年寄りや、通りすがりのサラリーマン。


 誰もが、何かに悩みながら、それでも今日を生きている。

 うまくいく日もあれば、からっきしの日もある。

 それでも、朝には店を開け、夜にはシャッターを下ろす。


 ――それだけで、結構すごいことなんじゃないか。


 ふと、そんなことを思った。


◇ ◇ ◇


 フェアは、その後も数週間続いた。


 毎週末、プレハブに受験生が集まり、パンを食べ、ノートを取り、愚痴をこぼし、少しだけ笑って帰っていく。

 商店街の他の店も、「受験生に温かいお茶サービス」「コピー代割引」など、できる範囲で協力してくれた。


 やがて、受験シーズンが終わるころ。

 中学三年の石田くんが、制服姿でプレハブを訪ねてきた。


「高校、受かりました」


 そう言って、合格通知書を見せてくれた。


「おめでとう!」


 プレハブの中に、自分でも驚くほど大きな声が響いた。


「ここで勉強したから、ってわけじゃないかもしれないですけど……来てよかったです。ありがとうございます」


 彼はそう言って、深々と頭を下げた。

 久間さんは、こっそり目元を拭っている。

 森田さんは、「おう、次は“大学受験ノート”だな」と、早くも次の商売のことを考えている。


「俺も、就職決まりました」


 と、その横で佐伯くんが言った。


「え、ほんとですか?」

「はい。商店街の“地域連携スタッフ”的なやつ。市役所と商店街の間に入って、イベントのお手伝いしたり、広報やったり」

「おお、それ、完全に僕の仕事と被ってません?」

「まあまあ。いずれ、“春川さんの上司”になる予定なんで」

「いや、そこまで出世コースですか?」


 冗談めかして笑いあう。


「でも、あの日、ここにフラッと入って来なかったら、今こんなふうに笑ってないかもしれないなって思います」

「僕もですよ」


 僕は言った。


「たぶんあのまま、暇な窓口でぼんやり過ごしてたと思います。『臨時職員だから』って、どこか人ごとのままで」


 でも今は違う。

 この商店街で生きている人たちが、少しずつ、「顔見知り」から「仲間」になっていく感覚がある。


◇ ◇ ◇


 春になった。


 駅前商店街の臨時相談窓口のプレハブは、今日も変わらず、ちょっと斜めなドアを開けている。

 中では、相変わらずパンの相談や、文房具の相談や、人生の相談が、行ったり来たりしている。


「春川くん、聞いてよ。新作パン、意外と学生にウケてるのよ。“受験のときに食べたパン”って、思い出になるんだって」

「俺のとこのノート、“受験フェアに置いてたやつください”って指名買いされるようになったぞ。あれは嬉しかったなあ」

「俺、就職してからのほうが、不安も多いですけど……でも、“相談できる場所がある”って思えるだけで、けっこう踏ん張れます」


 人は、多分、そんなに簡単には変わらない。

 パン屋が急に行列店になることも、文房具店が一晩で大企業になることもない。

 フリーターが一足飛びにエリート会社員になることもない。


 それでも。


 パン屋は今日もパンを焼き、文房具店はノートを並べ、彼らは少しずつ、自分たちの「良さ」を形にしていく。

 失敗して、悩んで、笑って、また明日も店を開ける。


 誰かが言った。


「人間って、よくもまあ、こんなに不器用なのに、こんなに毎日ちゃんと生きてるよね」


 僕は思う。


 ――だからこそ、多分、愛おしいのだ。


 プレハブの窓から見える商店街は、今日も相変わらず、少しさびれていて、少しだけにぎやかだ。

 大きなニュースには決してならないけれど、この通りを行き交う人たちは、それぞれに、誰かのために、あるいは自分のために、「今日をちゃんと過ごそう」としている。


 その姿は、どんな成功物語より、ずっと眩しく見える。


「よし、今日もがんばりますか」


 僕は湯沸かしポットのスイッチを押し、いつものようにカウンターの椅子に座る。


 ここは、「駅前なんでも人生会議」の本部。

 人が困って転がり込んでくる、小さなプレハブの箱。


 そして今日もまた、新しい誰かがドアを開ける音がする。


「すみませーん。ここ、『なんでも』相談って書いてあったんですけど……」


「はい、なんでも。たぶん、きっと、だいたい」


 僕は立ち上がり、笑った。


 ――不器用で、ささやかで、それでも必死に生きている人たちのために。

 そして、そんな人たちと一緒に、自分も少しずつ前に進むために。


 この小さな箱で、僕は今日も、人間を、ちょっとだけ信じてみることにする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

駅前なんでも人生会議 @zeppelin006 @zeppelin006

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画