カミサマのこと

大山類

カミサマのこと

 公園の桜はまだ花が咲いていない。吹きすさぶ風に蕾を揺らす木の下のベンチに腰を下ろしたぼくは、寒さをものともせず広場で遊んでいる子どもたちをぼんやりと眺めていた。

 ここに来るのは今日でもう最後になるだろう。

 微かに鼻孔を刺激する土の匂いを心惜しくおもっていると、広場のほうから転がってきたサッカーボールが足元にぶつかった。「すみませーん」という声がきこえた方を見ると、小学生くらいの男の子が息を弾ませながら手を振っている。ぼくは手をあげてそれにこたえると、ベンチから立ち上がってボールを蹴って返した。それを足で受け止めた男の子がこちらに頭を下げてから仲間の元に戻っていく。その後ろ姿が小学生のころの自分自身と重なった。

 

 小学生の頃によく一緒に遊んでいた仲間にトウマという名前の奴がいた。トウマはサッカーが好きで算数の宿題が嫌いなごく普通の男子小学生だったが、ひとつだけ他の同級生と違うところがあった。それは日曜日になるたびに母親と一緒に近隣の家を訪ねて「カミサマの教え」を広めてまわる活動をしているところだった。トウマはその活動を「ホウシカツドウ」と呼んでいた。

「たぶんこうしてお前と仲良くなれたのもカミサマのおぼしめしなんだろうなあ」

 ある朝の通学路、昨晩テレビで放送されていたサッカーの試合について「あの選手は才能がない」だの「俺ならあそこでもっとうまくやれていた」だのとぼくと一緒に好き勝手に言って盛り上がっていたトウマがふいに短く刈り込まれた自分の髪を触って照れくさそうにそう言った。

「おぼしめし?」

「カミサマが俺たちを友達にしてくれたってこと」

「ふうん」

 曖昧に頷いたぼくはそれ以上はなにもきかなかった。前に「カミサマは神社にいるんじゃないの?」と訊いて滅茶苦茶に怒られたことがあったからだ。それ以来、トウマが「カミサマ」という言葉を使う時は関心がないふりをするようになっていた。

 しかし、内心ではなにかにつけて「カミサマのおかげだ」と言うトウマに対して複雑な思いを抱いていたというのが本当のところだ。

 トウマとぼくが仲良くなったのは、単純に家が近かったからだ。たまたまトウマと一緒に帰ることになった日に彼がぼくの家からあるいて数分もしないアパートに住んでいるということがわかり、それからなんとなく二人で待ち合わせて登下校するようになった。お調子ものでクラスの人気者だったトウマが暗くて目立たない存在だった自分と仲良くしようとしてくれたことは嬉しかった。だが、これもトウマのいうカミサマのおかげなのだとすると、なんだかすべての出来事が誰かに仕組まれたことだと言われているような気持ちになる。仲良くなれた理由がカミサマのおかげであれ、ただの偶然であれ、ぼくとトウマが毎日登下校を共にしている上に放課後も遊ぶくらい仲が良かったという事実には変わりがないのだけれど。

 そのころのトウマとぼくは数人の同級生を加えてよく一緒に公園でサッカーをして遊んでいた。ただ、当時のぼくたちの周りではサッカーはあまり流行している遊びではなかった。一番流行っていたのは「ピンポンダッシュ」という遊びだ。見ず知らずの大人たちが住んでいる家のチャイムを鳴らして中から人が出てくる前に走ってその場を後にするというこの「悪戯」は、とても褒められたものではないけれど、小学生の男の子にとっては飛びはねたくなるぐらいに刺激的な遊びだったようだ。「ようだ」というのは、ぼくとトウマはこの遊びには参加しなかったからだ。

 トウマは仲間内で「ピンポンダッシュ」をやろうという話がでるといつも渋い顔をして「カミサマがみてるぞ」といった。ぼくは別にカミサマなんて信じてはいなかったし、当時はピンポンダッシュがそんなに悪いことであるとも思っていなかったけれど、トウマが頑なにその遊びに参加しないのでぼくも参加しようとは思わなかった。ぼくは他の同級生たちと刺激的な遊びをするよりもトウマと一緒にいたかった。ただ、そういう風にトウマと一緒に遊んでいたのは小学生の頃までだった。

 中学生になるころには、ほとんど全員が同じ中学に進学したのにも関わらず、ぼくを含めた小学生時代の同級生はもう誰もトウマと一緒に遊ばなくなっていた。トウマにぼくたちと遊んでいられるような時間がなくなってしまったからだ。トウマの母親が「ホウシカツドウ」により熱心に取り組むようになったことで彼は毎日のように連れ回されるようになった。学校の行事があろうが友達と約束があろうが何よりもまず「ホウシカツドウ」を優先させるのがトウマの母親であった。

 そのトウマの母親をぼくは一度だけみたことがある。今日のように風が冷たい季節の日曜日の夕方に公園で皆でサッカーをしていたら入り口からトウマをよぶ女の人の声が聞こえた。聞いた者の耳にざらざらとした感覚を残す声。その声の主こそがトウマの母親だった。

 第一印象はそれまでに会ったどの大人にも当てはまらない独特なものだった。口元には柔らかい笑みを浮かべていたが、目の奥はまるで空洞が広がっているかのようであった。その空洞をみたとき、ぼくは今まで感じたことのないような得体のしれない感覚に包まれた。

「四時には帰ってくるように言ったでしょう」

 ぼくたちの目の前に来たトウマの母親はトウマに小言を言ったあとでぼくの方を向いて微笑んだ。

「ごめんね、今日は大切な用事があるから」

 黙って頷いてトウマの顔をみたぼくは、彼がそれまでボールを追っかけていた時にみせていた笑顔が嘘のように消えてのっぺりとした無表情になっていることに驚いた。教室でもどこでも常に明るかったトウマがこの時ほどに感情が抜け落ちた表情をしているところをぼくはそれまでみたことがなかった。

「いつも遊んでくれてありがとね」

 トウマの母親はそういってぼくたちに頭を下げると、彼の腕を引いた。そしてトウマは腕を引かれるまま、ぼくたちに何も言わず、一度も振り返らないで公園からでていった。

 それから年月が経って中学二年生になるころにはトウマは完全に教室で孤立するようになっていた。

 トウマと彼の母親が熱心に活動を行えば行うほど、彼らの噂は広まっていく。直接訪問をうけたわけではない同級生の親も彼らがなにをしているのかを知っていく。小学生のころにはトウマの活動を気にしていなかった同級生も次第に彼と距離をおくようになっていた。なかでも意地の悪い同級生はトウマのことを敢えて「カミサマの使い」などと呼んで面白おかしく揶揄ったり、彼の机の中にゴミ箱のゴミを詰め込んだり、彼の靴を排水溝に捨てたりした。トウマの方もこうした被害にあって黙っていたわけではなかったが、反発しても無駄だとわかると次第に誰とも話さなくなっていった。

 そうした日々が続いたある夏の日、事件が起こった。切っ掛けは体育の授業があった日に教室で着替えをしているトウマの背中に青い痣があったことをみつけた同級生のヒロキがそれを大袈裟に騒ぎ立てたことだった。トウマは「転んだだけ」と言っていたが、ヒロキはそれを信じようとはしなかった。

「これってギャクタイってやつじゃないの?」

 ヒロキはもともとぼくやトウマと一緒にサッカーをしていた友達だった筈だが、中学では率先してトウマを揶揄う側にまわっていた。机にゴミをいれたのも、靴を捨てたのもヒロキが先導してやったことだった。調子の良い奴なのだ。誰の味方をして誰の敵になると自分にとって都合がいいのかということをはっきりと意識して行動していた。だから、その時もいつも通りトウマを揶揄うつもりだったのだろう。すくなくともそれが事件につながるとは思っていなかったと思う。

「は?」

 だが、その「ギャクタイ」という言葉をきいた途端、トウマは白い顔をみるみるうちに真っ赤にさせて身体を小さく振るわせた。

 そうしたトウマの姿をぼくは前にみたことがあった。「カミサマは神社にいるんじゃないの?」と訊いたときの反応と同じだ。だから、ぼくは「まずい」と思ったのだけれど、ヒロキはそのことに全く気づいていなかった。

「だからさ、ギャクタイされてるんじゃないの? みんな知ってるぞ。おまえの家はおかしいって。かわいそうな子だけど関わっちゃいけないってうちの母ちゃんがそういって──」

「うるさいっ!」

 ヒロキが言い終わるより早く、トウマがヒロキに飛びかかった。

 それは本当に飛びかかると表現するにふさわしい体当たりであり、まさかそんなことをされるとは思っていなかったヒロキはまともに受け身もとれずに仰向けに倒れこんだ。

「っ……」

 机と椅子が倒れる大きな音と共に床に頭を打ったヒロキが苦しそうな声をあげた。

 周りにいるぼくとその他大勢の生徒たちは唖然とみているだけだ。

「なんでっ、なんでっ……」

 仰向けになったヒロキの上に跨ったトウマは、たまたま近くにあった椅子をつかむとそれを頭の上に高く持ち上げた。

「ちょ、まっ……」

 トウマが振り下ろしたそれが固いものにぶつかる音が教室に響いた。

 少し間をおいて教室にいた誰かの甲高い悲鳴がきこえた。

「おい、お前らなにをしている」

 ちょうどその時、騒ぎをききつけて教室にやってきた島崎という名前の若い担任教師が、仰向けになって倒れているヒロキと彼にまたがって真っ赤な顔をしているトウマを交互にみた後、ぼくの顔をみた。

 島崎は、ぼくとトウマが友達だったことを知っていた。


「お前の言い分もわかるけど、それでも暴力はまずかったと思うぞ」

 島崎に事件の経緯を伝えるように言われて職員室を訪れたぼくは、一応はトウマのことを庇ったが、マグカップに入れたお茶を飲みながら黙って話を聞いていた島崎は首を横に振った。

「トウマはどうなるんですか」

「捕まる」

 自分で自分の表情が固まるのがわかった。トウマが捕まる。たとえ理屈の上ではそれが正しかったとしても自分の中では到底納得できないものであった。

「そういったらどうする?」

 相好を崩した島崎の顔をみてぼくは自分が揶揄われていることに気づいた。この教師のこういうところがぼくは好きになれなかった。

「安心しろ。そういうことにはならないよ。今回の場合は、たいした怪我がなかったことがお互いにとって不幸中の幸いになったな」

 ヒロキは今回の件で傷をおったものの、その傷は椅子が頭にぶつかってできたものではなく、押し倒された時にできたものであった。椅子がたてた大きな音はヒロキの頭ではなく、床に叩きつけられて立てた音だったのだ。

 この事件の被害者にあたるヒロキの親は最初こそ自分の子供が傷つけられたことに激しく怒っていたそうだが、傷が将来も残るような深いものではないとわかったことと事件に至るまでのそもそもの経緯を知ったことで少しは落ち着いたらしい。具体的な内容まではぼくには知る由もないが、最終的には双方の親同士で何かしらの落としどころをみつけたようであった。

「今回の件は俺の監督不行き届きだ。ただじゃすまないのは俺の方かもな」

「すみません」

 ぼくが謝ると、島崎は目を丸くした。

「どうして謝る」

「ぼくにはもっとできることがあったと思うからです」

 島崎はぼくがトウマとかつて仲が良かったことをしっていて教室で孤立しているトウマの様子をたびたび僕にたずねてきていた。なにかできるとしたらぼくだった。

「あのな、いくらお前が年齢の割に妙に落ちついた生意気なガキでも中学生にそこまでのことは求めていねえよ」

 島崎はそういうともう一度お茶を飲もうとしてもうマグカップの中身が空になっていることに気づき、「いれてくる」といって立ち上がった。

「先生」

 給湯室にお茶をいれにいこうとした島崎を呼び止めると、ちょうど見下ろされる形で目があった。

「ぼくは、本当はわかるんです。トウマと関わらないように言っていたヒロキの親の気持ちが」


 事件の後の教室は驚くぐらいに以前と同じであった。ヒロキも今回の件でトウマを刺激しすぎたことを反省したのか事件の後は二度とその話題を口にだすことはなかったし、一部始終を周りでみているだけだったその他大勢の生徒も事件について触れたがらなかった。そういうわけで時間が経つにつれて皆少しずつ事件のことは忘れていった。事件の前と比べて大きくかわったものはなかったのだ。

 ただひとつ、トウマが学校にこなくなったことを除いては。

 島崎に確認してトウマはどこかの施設に送られたわけではなく、ただ部屋にこもって出てこないだけだということがわかった。だが、それから長い月日が流れてもトウマは一度も学校に登校してこなかった。その間に中学校を卒業して県内の高校に入学したぼくは、その高校もこの三月で卒業して四月から東京の大学生になる。親元から離れて東京で一人で暮らす予定だ。そうなると、何となくもうトウマと一緒に遊んでいたこの公園には来なくなるような気がした。

 トウマが学校にこなくなってからぼくは彼のことを探しにたまに公園を訪れていた。彼が住んでいるアパートを訪れることだけはどうしてもできなかったので、公園で偶然再会できないかと考えて学校の放課後に寄っていたのだ。

 だが、こうしたことももう終わりだ。今日を境にもうぼくはこの公園にくることはないだろう。

 公園に足を運んでトウマのことを探しているうちにぼくは広場で遊んでいる少年たちを眺めるのが習慣になっていった。広場でサッカーをしている子供たちをみても彼らにサッカーの才能があるのかどうかはぼくにはわからないが、心からサッカーを楽しんでいることだけはわかった。

 ひとしきり少年たちのサッカーを観戦した後、しばらくしてベンチから立ち上がったぼくは近くの自販機に行き、小銭をいれてコーラのボタンを押した。

 ガコンッという音をたてて取り出し口にコーラが落ちる。

 それと同時に演出のための賑やかなサウンドが流れた。

 どうやらルーレットにあたると一本おまけになるサービスがついている自販機だったようで、ぼくは自分の意思とは無関係にルーレットに参加させられていたらしい。

「おめでとうございます!」

 そして今日はたまたまそのルーレットに当たってしまったようだ。自販機から聴こえる音声に二本目のジュースを選ぶように促されたぼくは咄嗟にコーラのボタンを押してしまった。自販機の取り出し口に二本目のコーラが排出される。

「おめでとうっていわれてもな……」

 本来であれば当たりというのは嬉しいものだが、今日のぼくは缶のコーラを一本飲めれば十分だったので二本目は別に欲しくなかった。

 二本もコーラを持っていると両手が塞がる。荷物ができたので今日はもう引き上げることにした。元々長居するつもりはなかったのだ。このコーラは家に持って帰り、一本は家族にでもあげればいい。

 両手にコーラを持ったまま、ベンチには戻らずに公園を出て行こうとした。するとちょうどぼくが座っていたベンチからは木の陰に隠れて死角になっているところで自分と同い年くらいの男がひとりでリフティングをしていたことに気づいた。

 ぼくはその顔に見覚えがあった。

 身長がかなり伸びていたことに加えて長髪を頭の後ろで結んでいたその男は、スポーツ刈りの小柄な少年だったころと比較すると雰囲気がかなり異なっていたが、その顔は見間違えようもなかった。中学生の頃までとはいえほぼ毎日みていた顔である。身長や髪が伸びた程度のことでわからなくなるはずがない。

「トウマ」

 声をかけると、トウマはぼくのほうを一瞥して一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに眉間に皺をよせて怪訝な表情をつくった。

「なに?」

「なにって……」

「久しぶりに会って第一声がそれか」とか「ほかになにかいうことはないのか」とか色々な言葉が頭に浮かんだが、それがぼくの口から発せられることはなかった。

 実際、自分でも「今更なんのつもりなのだろう」と思ったからだ。

 彼が学校で孤立しはじめた時に仲良くしようとはしなかった。

 彼が不登校になったあとも彼の家を訪ねるようなことはしなかった。

 そして何より、トウマが母親との間に問題を抱えているとわかっていたのにそのことにずっと気づいていないふりをしていた。

 白状するべきだ。ぼくは周りから避けられているトウマの味方を続けることで自分まで避けられるのが嫌だった。

 結局のところ、ぼくは彼の友達ではなく傍観者にすぎなかった。彼を世間から見えない場所に追いやっている大勢の人間の内の一人でしかなかった。

 そんなぼくが今更になって彼のことを見つけて、それでどうするつもりだったのだろう。何ができるというのだろう。

「用がないなら帰るぞ」

 しかし、それでもぼくは彼に対して何もせずにはいられない。それは自己満足かもしれないけれど、ここでなにもしなかったら一生後悔するような気がするのだ。

「サッカー」

「は?」

「サッカー、したい。おまえと。そのためにきた」

 絞り出すように言葉を紡いだぼくをみてトウマは目を丸くした。

「いや、広場は小学生が使っててあいてないし、そもそもサッカーは二人ではできないだろ」

「あ……」

 その場限りのことを言ったのがすぐに露呈してしまった。

 言葉を失っているぼくをみて、トウマは苦笑した。警戒していたのが馬鹿らしくなるくらい呆れてしまったのかもしれない。

「この公園に来るのは久しぶりか」

「いや、たまにきてた。でも、もうしばらくしたら来ることができなくなる。だから、最後に来たんだ」

「そうか」

 トウマは少し考えて何かいいことを思いついた時のように頬を緩めた。

「じゃあ、サッカーの代わりにさ」

 笑いながら彼はいった。

「ピンポンダッシュ、しようか」

 彼はぼくの返答をきかずにボールをその場におくと、そのまま公園を出ていった。

 ぼくはそのボールを持って彼の後を追いかけたかったが、コーラで両手が塞がっているのでそれはできなかった。仕方がないのでボールはそのままにして彼のことを追いかけた。

「おい、ボールはいいのか」

 彼は何も答えなかった。

「それにピンポンダッシュって。ぼくたちはもう小学生じゃないぞ。自分の年齢を考えてくれよ」

 やはり何も答えなかった。

 トウマは公園から出た後、近くにある家の中で一番おおきな家を指差して「ここにしよう」といった。

 その家には綺麗に手入れされた色とりどりの花が咲いている立派な庭があってそれをみているとその家に住む人々が幸せに暮らしている光景が目に浮かぶようであった。

「昔、ホウシカツドウでこの家を訪ねた時にさ、ホースで水をかけられたことがあるんだ。気持ち悪いから二度とその顔をみせるなって言われて笑われて」

 トウマはぼくの顔を一瞥した後、人差し指をたててインターホンの近くに持っていった。

「いいのか」

 止めるならいましかない。

「カミサマがみているぞ」

「そんなの知らない」

 彼の細長い指の先端がインターホンのボタンにかかる。あと少し力を入れるだけで、彼はそのボタンを押すことができる。

「なあ、やっぱり……」

 やめよう。そういうよりもはやく彼の指がインターホンのボタンを押した。

 ピーンポーンという呼び鈴の音がやけに大きく聴こえた。

「逃げよう」

 こちらを向いた彼の顔は興奮のためかほんのりと上気していた。

 ぼくがそれに応えるのを待つまでもなく彼はその場から駆け出した。部屋に引きこもっていたということが嘘のように彼は健脚で、ぼくが唖然としているうちにぐんぐんと先にいってしまいそうだった。

「はーい」

 扉の向こう側から妙齢の女性の声がする。

 ガチャリ、と音がする。

 まずい、と思った瞬間、ぼくは彼の背中をおうように駆け出していた。

「あっ、こら」

 いたずらだと気づいたのか、後ろから咎める声がした。

 ぼくはその声を無視して彼の背中を追い続けた。

 家からずっと離れても住宅街を出て車が沢山走っている大通りにでても彼が止まるまで走り続けた。走り続けずにはいられなかった。

 あたりの景色がすっかり変わった頃に彼はとまった。

 肩を揺らして息も絶え絶えといった様子で膝に手をついたトウマが苦しそうに笑う。

 ぼくも同じように呼吸を整えながらその背中になんと声をかけていいか迷っていると、ふいに彼がふりかえった。

「コーラ、二本あるでしょ。一本くれよ」

「ああ……」

 ぼくはすっかり自分が手にコーラを持っていることを忘れていた。

 全力で走った身体は水分を欲している。

 ぼくは二本あるコーラのうちの一本を彼に差し出した。

 彼は手の甲で額を拭ってそれを受け取った。

 そうしてぼくたちは示し合わせたように同時にプルタブに指をかける。

 だけど、ぼくは本当にパニックになって頭がどうかしてしまっていたのか全力で走っている間にずっと両手にもっていた炭酸飲料が缶の中でどうなっているのかということを考えることをすっかり忘れてしまっていた。

 プルタブを起こして缶をあけるとプシュッという音とともに中身のコーラが勢いよく吹き掛かってきた。

 驚いて顔をそむける。

 炭酸飲料が入っている缶を振ってから開けたらどうなるかなんて小学生でも知っていることを忘れていたなんて恥ずかしい。きっと彼はそのことに気づいていて悪戯のつもりでコーラを飲もうなんていったんだろう。そう思って彼の方をみると、彼もぼくとおなじように手や腕や服をコーラまみれにして目を丸くしていた。

 ぼくがその姿を唖然とした顔でみていると視線に気づいたトウマが目を細めて

「あははっ!」

 と笑った。そういう風に笑うトウマに久しぶりに会うことができた。

「はは…」

 ぼくもトウマにつられて笑う。

 ぼくと会っていない間にトウマやトウマの母親に何があったのかはわからない。

 中学校にまともに登校していなかった彼が高校に進学したのかどうかもこの春から何をする予定なのかも知らなかった。

 ただ、彼がずっとこういうふうに笑いたかったのだろうということだけはわかった。

「俺さ」

 ひとしきり笑ったあとで、トウマがぼくの顔をみた。

「本当はよくわからないんだ。カミサマのこと」

 トウマの眼を見つめ返す。

 そうするとなんだかまたおかしくなって、ぼくとトウマは顔を見合わせてもう一度大きく声をあげて笑った。

「ぼくもわからないよ、なにも。だけど、だからこそ考えたいんだ。どうすればよかったのか。そして、これからどうしていけばいいのか」

 もうすぐ春が来る。ふと道路の傍をみると気の早い桜の木がひとひらの白い花をさかせていた。

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