第5話「転生したら鳥だった」

風が、吹いている。


いや、違う。


俺が、風を切っている。


目を開けた瞬間、世界が広がっていた。


空だ。


果てしない空。


雲が目の前にあり、地面が遥か下にある。そして俺は――飛んでいた。


翼がある。


両腕が翼になっている。羽毛に覆われ、風を捉え、空気を押している。


鳥だ。


俺は、鳥になっている。


最初は混乱した。でもすぐに、身体が理解した。


羽ばたく。


翼を上げ、下ろす。その動作だけで、身体が浮き上がる。


飛べる。


本当に、飛べる。


たんぽぽの時は風に運ばれただけだった。石の時は動けなかった。ありの時は地を這っていた。


でも今は、自分の力で空を飛んでいる。


歓喜が、込み上げてくる。


もっと高く、と思う。


羽ばたく。力を込めて、翼を動かす。


上昇する。


雲を抜ける。太陽が眩しい。風が心地よい。


世界が、こんなにも広かったなんて。


下を見る。


森が見える。川が見える。街が見える。人間たちが米粒のように小さい。


俺は、あの上にいる。


自由だ。


誰にも縛られない。群れに従う必要もない。命令を聞く必要もない。


ただ、飛びたいように飛べばいい。


行きたい場所へ、行けばいい。


これが、自由か。


風に乗る。翼を広げ、滑空する。


気持ちいい。


空気が羽毛を撫でていく。風が身体を支えてくれる。何の努力もなく、ただ浮いていられる。


でも――


やがて、気づく。


周りには、誰もいない。


他の鳥は遠くを飛んでいる。声をかけても、届かない。


俺は、独りだ。


ありの時は、仲間がいた。触覚を触れ合わせ、思考を共有し、孤独ではなかった。


でも今は、誰とも繋がっていない。


空は広くて、自由で、でも――孤独だ。


そして、もう一つ気づく。


止まれない。


羽ばたくのをやめた瞬間、身体が落ち始める。


慌てて羽ばたく。また浮き上がる。


飛び続けなければ、墜ちる。


翼を動かし続けなければ、地面に叩きつけられる。


自由には、代償がある。


常に努力し続けなければならない。休めば、死ぬ。


恐怖が、忍び寄ってくる。


もし、翼が疲れたら?


もし、風がやんだら?


もし、力尽きたら?


墜落する。


そして、死ぬ。


下を見る。地面が遥か下にある。あそこまで落ちたら、確実に終わりだ。


怖い。


でも、羽ばたき続けるしかない。


時間が経つにつれ、翼が重くなってくる。


疲れてきた。


人間の時も、運動すれば疲れた。でも、座って休めばよかった。


ありの時も、働けば疲れた。でも、巣に戻れば休めた。


でも今は、休めない。


飛び続けるか、墜ちるか。


その二択しかない。


そして、もう一つの問題が現れる。


腹が減った。


人間の時も、たんぽぽの時も、石の時も、ありの時も――空腹はあった。


でも今ほど、切実ではなかった。


飛ぶことは、エネルギーを消費する。


食べなければ、飛べなくなる。


飛べなくなれば、墜ちる。


生きるために、食べなければならない。


下を見る。


森の中で、虫が飛んでいる。


ありだ。


小さな黒い点が、地面を這っている。


俺は、急降下する。


翼を畳み、風を切り、一直線に。


狙いを定める。


嘴を開く。


捕まえた。


小さな身体が、口の中で蠢く。


躊躇する。


これは、ありだ。


つい先ほどまで、俺もありだった。仲間と働き、女王に仕え、巣を守っていた。


その仲間を、今、喰おうとしている。


矛盾だ。


でも、生きるためには仕方がない。


俺は鳥だ。鳥は虫を喰う。それが自然だ。


飲み込む。


小さな命が、俺の中に消えていく。


ごめん、と心の中で呟く。


でも、ありがとう、とも思う。


君のおかげで、俺は生き延びられる。


空腹が、少し和らぐ。


また、飛ぶ。


羽ばたき、上昇し、風に乗る。


生きるとは、こういうことか。


誰かを喰い、誰かに喰われる。


循環の中で、ただ生き延びる。


それが、命の在り方なのかもしれない。


夕日が、沈んでいく。


空が、赤く染まる。


美しい。


人間の時も夕日は見たけど、こんなに近くで見るのは初めてだ。雲が金色に輝き、世界が炎に包まれたようだ。


でも、夜が来る。


暗闇の中で、飛び続けるのは危険だ。


木の枝に止まる。


やっと、休める。


翼を畳み、脚で枝を掴む。


疲れた。


全身が、だるい。


でも、生きている。


今日も、生き延びた。


風が、冷たくなってくる。


雲が厚くなり、雷鳴が響く。


嵐だ。


雨が降り始める。大粒の雨が、羽毛を濡らしていく。


風が強くなる。枝が揺れる。


必死に掴まる。


飛ばされたら、終わりだ。


暗闇の中で、雷が光る。世界が一瞬だけ白く照らされ、また暗闇に沈む。


怖い。


でも、耐えるしかない。


枝に爪を食い込ませ、身体を丸め、嵐が過ぎるのを待つ。


長い夜だった。


でも、やがて雨が止む。


風が弱まる。


雲が晴れていく。


そして――朝が来た。


太陽が、地平線から昇ってくる。


オレンジ色の光が、世界を照らしていく。


温かい。


羽毛が乾いていく。身体に力が戻ってくる。


生きている。


嵐を越えて、また朝を迎えた。


翼を広げる。


枝から飛び立つ。


また、空へ。


恐怖はある。墜ちる恐怖、飢える恐怖、嵐の恐怖。


孤独もある。誰とも繋がっていない、この圧倒的な孤独。


でも――


それでも、飛ぶ価値はある。


この空の広さ、この風の心地よさ、この自由の重さ。


全てを含めて、生きている。


羽ばたく。


力を込めて、翼を動かす。


上昇する。


雲の中へ、突入する。


白い霧が、俺を包む。


視界が、光に染まる。


眩しい。


でも、怖くない。


これが、次か。


また、次へ行くのか。


光が、強くなる。


身体が、溶けていく。


でも、満足していた。


俺は、空を飛んだ。


自由を、手にした。


それだけで、十分だった。


光の中で、俺は消えていった。


(了)

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