第4話「転生したらありだった」
暗い。
狭い。
周りに、何かがうごめいている。
俺は目を――いや、複眼を開けた。
視界が、おかしい。人間の時のように一つの映像ではなく、無数の断片が組み合わさっている。モザイク状の世界。でも、不思議とよく見える。暗闇の中でも、形がはっきりとわかる。
ここは、土の中だ。
石のひび割れの奥。そこに作られた、小さな空間。
そして、俺の周りには――仲間がいた。
無数の、ありたち。
黒くて、小さくて、せわしなく動いている。触覚を震わせ、脚を動かし、何かを運んでいる。
俺も、その一匹だった。
身体を確認する。
六本の脚。二本の触覚。硬い外骨格。そして、小さな顎。
ありだ。
俺は、ありになっている。
最初は混乱した。
でも、すぐに理解した。これが俺の新しい形だ。人間でも、たんぽぽでも、石でもない。今度は、虫だ。
そして――
「働け」
声が、聞こえた。
いや、声ではない。頭の中に、直接響いてくる。命令。指示。
誰が言っているのかわからない。でも、それは絶対的なものとして、俺の中に刻まれる。
働け。
運べ。
仕えろ。
身体が、勝手に動く。
脚が動き出し、巣の中を進んでいく。仲間たちと同じように、砂粒を運ぶ。顎で掴んで、持ち上げて、運んで、また戻る。
繰り返す。
何度も、何度も。
休むという概念がない。疲れるという感覚もない。ただ、働く。それだけだ。
巣は、迷路のようだった。
無数の通路が張り巡らされ、部屋が点在している。卵のある部屋、幼虫のいる部屋、食料を貯蔵する部屋。
それぞれの部屋には役割があり、それぞれのありには仕事がある。
俺の仕事は、運搬だった。
砂粒を運び、通路を広げる。食料を見つけたら巣に運ぶ。死んだ仲間がいれば、巣の外へ運び出す。
単純な作業の繰り返し。でも、それが心地よかった。
何も考えなくていい。ただ、身体を動かせばいい。命令に従えばいい。
人間の時は、選択肢が多すぎた。何をするか、どう生きるか、常に選ばなければならなかった。その重さに、疲れていた。
でも今は、選ぶ必要がない。
道は、最初から決まっている。
そして、最奥には――女王がいた。
大きな身体。他のありの何倍もある。動かず、ただそこに存在している。
彼女のために、俺たちは働く。
彼女が生き、彼女が卵を産み、巣が続いていく。それが、すべてだ。
個の意志なんて、ない。
俺は、群れの一部だ。
触覚が触れ合うたびに、情報が流れ込んでくる。
「北の通路に食料」
「南に敵」
「西を補強しろ」
言葉ではない。でも、わかる。仲間たちの思考が、俺の中に流れ込んでくる。そして、俺の思考も、彼らに流れていく。
最初は違和感があった。
他者の思考が自分の中に入ってくるなんて、気持ち悪いと思った。でも、すぐに慣れた。いや、慣れたというより、それが当たり前になった。
仲間と触れ合う。情報を交換する。同じ目的を共有する。
それが、自然だった。
一匹では何もできない。でも、群れなら何でもできる。
巣を作り、食料を集め、敵を撃退し、子孫を残す。
全てが、連携によって成り立っている。
俺は歯車の一つだ。でも、その歯車がなければ、全体は回らない。
だから、働く。
だから、尽くす。
境界が、曖昧になる。
どこまでが俺で、どこからが仲間なのか。
触覚を通じて繋がった俺たちは、もはや個ではない。一つの生命体だ。巨大な、集合的な存在。
人間だった時の名前も、顔も、思い出せなくなってきた。
たんぽぽだった時の風の感触も、石だった時の孤独も――全てが遠くなる。
ただ、働く。
ただ、運ぶ。
ただ、生きる。
それが、ありとしての存在だった。
でも、ある日――
光を、見た。
巣の入口近くを通った時、外から差し込む光が目に入った。
眩しい。
でも、懐かしい。
太陽の光だ。
たんぽぽだった時、あの光を浴びていた。石だった時も、あの光に照らされていた。
外には、世界がある。
空があって、風があって、自由がある。
最初は、すぐに忘れた。
働け、という声に従って、また巣の奥へ戻った。砂を運び、食料を運び、また光のことは忘れた。
でも、次の日――また光を見た。
そして、また思い出す。
外の世界を。
繰り返すたびに、その記憶が強くなっていく。
光を見るたびに、胸の奥で何かが疼く。
これは、なんだ?
この感覚は――
渇望だ。
俺は、外へ出たい。
群れの一部として生きることに満足していたはずなのに。命令に従うことが心地よかったはずなのに。
なのに、光を見るたびに、何かが揺らぐ。
俺は、俺として生きたいのかもしれない。
働け、という声が響く。
でも、俺は立ち止まった。
触覚を光の方へ向ける。脚が、勝手に動き出す。
いや、これは俺の意志だ。
命令じゃない。群れの思考でもない。
俺自身が、動いている。
仲間たちが、触覚を向けてくる。
「どうした」
「戻れ」
「働け」
思考が流れ込んでくる。でも、俺は進む。
光に向かって、一歩ずつ。
巣の出口が、近づいてくる。
外だ。
久しぶりの、外の世界。
地上に出た瞬間、光が俺を包んだ。
眩しい。暖かい。
風が、吹いている。
巣の中にはなかった感覚。空気が動いている。肌を――いや、外骨格を撫でていく。
気持ちいい。
草の匂いがする。土の匂いがする。花の匂いもする。
巣の中は、仲間の匂いと土の匂いしかなかった。でも外には、無数の匂いが混ざり合っている。
空が、青い。
こんなに広かったのか。
巣の中は狭くて、暗くて、天井が低かった。でも外には、果てしない空間が広がっている。
視界を遮るものが、何もない。
草の向こうに木が見える。その向こうに山が見える。そして、空の向こうには――何があるんだろう。
わからないけど、知りたい。
足元では、他の虫たちが動いている。ばったが跳ね、ちょうちょが飛び、てんとうむしが葉を這っている。
みんな、自由だ。
群れに縛られず、命令に従わず、ただ自分の意志で動いている。
ああ、と思う。
これだ。
これが、俺の求めていたものだ。
群れの一部として生きることも、悪くはなかった。孤独じゃなかったし、目的もあったし、安心もあった。
迷うこともなかった。選ぶ必要もなかった。ただ、流れに身を任せていればよかった。
それは、楽だった。
でも、それは俺じゃない。
俺は、自分で選びたい。自分で決めたい。自分の意志で、生きたい。
俺は、俺として生きたい。
たんぽぽの時みたいに、風に揺れたい。
石の時みたいに、ただ在りたい。
群れに埋もれるんじゃなく、自分として存在したい。
風が、強くなる。
草が揺れる。
空を見上げる。
雲が流れている。鳥が飛んでいる。
自由だ。
あの鳥みたいに、俺も――
影が、落ちてきた。
大きな影。
鳥だ。
嘴が、俺を捉える。
一瞬の出来事だった。
身体が浮き上がり、空へ連れていかれる。痛みはない。ただ、風を感じる。
ああ、飛んでいる。
自分の力じゃないけど、空を飛んでいる。
たんぽぽの時みたいに。
風が身体を包む。視界が回る。地面が遠ざかる。
巣が見える。あの小さな穴が、どんどん小さくなっていく。仲間たちは、まだあの中で働いているんだろう。
でも、俺はここにいる。
空の中に。
自由の中に。
そして――
嘴が、俺を砕いた。
暗闇が、戻ってくる。
でも、今度は恐怖がなかった。
俺は、最後に自由を選んだ。
群れを離れて、光の中へ出た。
それだけで、満足だった。
風が、再び俺を包んだ。
(了)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます