ブタの背中に乗っている。
こーの新
第1話 ブタストーリーは突然に……
なんてことない郊外の街。その駅前にある、動物同伴可が売りの幼馴染が経営しているカフェ。平和で、事件も起こらないような、平凡な街。
「だぁかぁらぁ! 別に、浮気なんかしてねぇっての!」
そこに響く平和ではない怒号。知らぬ存ぜぬ、とはいかないのは仕方がない。この怒りの矛先は私に向けられている。目の前のこの目つきが鋭い上に髪の毛まで鋭くツンツンと尖っている珊瑚のような男は、私の彼氏で婚約者。
テーブルに広げられたのは、他の女と腕を組んでホテルに入っていくこの男の不貞の証拠。私は背筋を伸ばして珊瑚男を見据える。
「別に、責める気はない。別れてくれればいい」
「はぁ? てめぇになんの権限があって別れるっていうんだよ!」
時代遅れの男尊女卑。彼のナンパから始まって、そろそろ三年。浮気に気が付いてから思ったことだけど、よくもまあこんな男と付き合っていたものだ。
料理も掃除も洗濯も私任せ。働いている、なんて言いながら毎日毎晩遊び惚けて、私が資格勉強をしていると無駄だのなんだの言ってくる。
一緒にいるうちに、感覚が麻痺していたのかもしれない。浮気の証拠を掴んでからというもの、このカフェを経営している幼馴染からも諭されてようやく自分の状況が異常であることに気が付いた。運が良かったのは、殴られたことはないことくらいだろうか。
「おい」
私の後ろから、とんでもない威圧感が放たれる。そのオーラに、目の前の珊瑚男の背筋がピシッと伸びた。
「か、カブトさん……」
「ここはふわふわに癒されるための場所なんだよ。せっかく来てくれたふわふわたちがビビってんだろうがよ。ああ?」
珊瑚男に勝る圧倒的な覇気。そしてカフェに来ている他のお客さんたちやペットたちを最大限気遣う声の小ささ。見えはしないけれど、顔は不良グループの頭を張っていた頃を彷彿とさせる睨み顔なのだろう。
「さ、さーせんしたっ!」
珊瑚男はビシッと立って九十度に腰を折って頭を下げる。言われるまで知らなかったけれど、高校の後輩だったらしい。そして、私の幼馴染である鹿伏兎嶺太郎がまとめていた不良グループのメンバーだったとか。
「分かったなら、志乃理と別れてとっとと帰りやがれ」
「い、いや、別れるのは、その……」
「あ? 浮気したんだろ? 男ならケジメ付けろや!」
嶺太郎の静かな怒号に、珊瑚男は握りしめた拳をブルブルと震わせて私を睨みつける。静かに見つめ返すと、珊瑚男の手がお冷が入ったグラスを手にした。
バシャッ
あ、と思う前に頭からぶっかけられた水。
「おい!」
「チッ! このメスブタがッ! 恥かかせやがって!」
「ブゴォッ!」
珊瑚男が出て行くとドアベルが激しく揺れて騒々しくも美しく鳴り響いた。私はその背中を見ることはなかった。それ以上に、足元から聞こえた声が気になってしまった。
「おい、志乃理、大丈夫か?」
「……ブタ」
「あ? ああ、アイツの捨て台詞か? あんなん気にすんな」
「違う。ブタ、いる」
空気が止まったのを感じながら、机の下で蹲っている手のひらサイズくらいのピンク色の塊を見つめる。影が落ちて、嶺太郎が視界に入る。机の下を覗き込んだ嶺太郎は、目を見開いた。
「マジ、ブタじゃん」
「だよね」
驚き過ぎると言葉が出なくなるとはよく言う。まさにそんな感じ。
「おい、お前。出て来れるか?」
嶺太郎が、声音を和らげて手を伸ばす。ブタの鼻先に手を差し出して見るものの、すっかり怯えているらしいブタはさらに壁に身を寄せる。
「へっくしょいっ」
「おわっ」
ゴンッ
「あ、ごめん」
お冷を被って身体が冷えてきてしまった。私のおっさんみたいなくしゃみに驚いて顔を上げようとした嶺太郎は、見事に机の天板に後頭部をごっつんこ。かなり良い音がした。
「だ、大丈夫だ……」
石頭で有名だった嶺太郎でも、痛そうに頭を押さえている。冷やすものでも持ってこようかと思っていると、隣に、温もり。
「え?」
「ブッ、ブッ」
隣に擦り寄ってきた、ブタ。可愛いし、温かい。泥だらけで私の服もソファも汚れたけれど。
「温めてくれるんだね。ありがとう」
そっと、背中を撫でてあげる。ブタは嶺太郎を警戒するようにチラチラ見ながらも私の手を受け入れてくれる。思っていたより、硬い毛並み。ピンク色は肌の色なのか、揺れる毛は白い。
「なんか、志乃理には懐いた、のか?」
「みたい? この子、お客さんの子?」
「いや、違うな。首輪もハーネスもないし。なにより汚い……うぐっ」
ブタによるパンチでもキックでもない、突き上げ。鼻で突っ込んでいった。
「おお、強いんだ」
「感心してるなよ……」
嶺太郎は降参したとでも言いたげに両手を上げる。するとブタは満足したのか鼻を鳴らしてまた私の隣に寄り添ってきた。
温かさに、安心した。ふと、涙が溢れた。
「お、おい、大丈夫か?」
首を横に振る。大丈夫じゃ、ない。
「……悲しかった、らしい」
私の言葉に嶺太郎は頭を掻いた。
「そりゃそうだろ」
雑に頭を撫でてくれる嶺太郎の手の温かさ。そして、寄り添ってくれるこの謎のブタの温かさ。それに対比するように、冷え切った心を感じた。
あんな男でも、好きだった。結婚を、考えていた。心の支えがなくなった感覚に気が付けないほど気を張っていたらしい。
何粒も溢れる涙が、膝に落ちる。ブタはそれを受け止めるかのように、私の膝に顎を載せた。
「……泥だらけだな」
「だね」
その愛らしい仕草に、私は泣きながら笑った。
次の更新予定
2025年12月10日 19:00 毎週 水・土 19:00
ブタの背中に乗っている。 こーの新 @Arata-K
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