瞼の裏庭(後半)
封筒の中身は、一枚の紙と、写真だった。
写真は、何度も触られた指紋の艶で角が丸い。
写っているのは、古い団地の前。
白い鉄の手すり。階段の踊り場に干してある色あせたタオル。
手すり越しに、子どもの後ろ姿。
短い髪。肩幅は、わたしの記憶のなかの、誰かの肩幅。
紙には、短い言葉が、綴りの骨をきちんと並べていた。
「門の向こう側は、いつも同じとは限らない。けれど、置いたものは必ず芽吹く。だから、あの日の続きを、あなたに」
差出人の名前は、わたしの舌が躓く音だった。
読める。読めない。指先は知っている。
紙の繊維に残る筆圧の谷間を、指腹がなぞる。
わたしは写真を光に透かす。
窓からの光は、雲の裏をひとしきり歩いてからここに来る。
写真の粒子が、雨粒みたいに浮かびあがる。
その粒の間を、微かな声が通り抜けた。
「今夜も、開く」
彼の声だ。
姿は見えない。
けれど、声は家具の影を引き延ばす。
わたしは封筒を机に置き、指で机の木目を撫でる。
木目は、年輪の秘密を乱数のように擬装している。
唇の裏に鉛筆の味がする。
待つことは鉛筆削りだ。
芯を削るあいだ、わたしはわたしの形を整える。
夕暮れが来る。
台所の窓に、外の夕焼けが薄く貼りつく。
ベランダの鉢に水をやると、土が乳を飲むように音を立てる。
ホースはない。蛇口から汲んだカップの水を、何度も往復して運ぶ。
祖母の癖が、わたしの足首に重なる。
一往復ごとに、屋外の空気が肺の内側の壁紙を新しくする。
隣の部屋から、見知らぬ笑い声。
笑いは、壁を通り抜けるとき、少し痩せる。
痩せた笑いの骨を、わたしはポケットに入れておく。
夜が深くなる前に、電話が鳴った。
母だ。
画面に表示される名前の字面に、瞬きが一つ増える。
出る。出ない。
親指が受話ボタンと拒否の間で迷子になる。
選ばない、という選び方もある。
けれど、今日は出る。
出ることは、門に触れる練習だ。
「もしもし」
「元気?」
母の声は、昔より小さくなっていた。
声の輪郭が薄い。
輪郭の薄い声は、こちらの沈黙に溶けやすい。
わたしは沈黙を少し分ける。
母は、祖母の話をした。
葬式のとき、わたしが泣かなかったこと。
泣かないから忘れているのではなく、忘れないために泣かないのだと、祖母が笑っていたこと。
笑いの記憶は、声をやさしくする。
わたしは目の内側で芝生を撫でる。
母が言う。「今度、庭の草むしりに行こうか」
「行く」わたしは言った。
約束は、門の蝶番に油をさす。
電話を切ると、現実が少し滑らかに動く。
冷蔵庫の音程が、わたしの呼吸に寄り添った。
夜。
ベッド。
舌は上の歯茎。
梯子。
芝生。
今夜の風は、湿度を増している。
遠くで、雷がまだ雷になる前の足踏みをしている。
空全体が深呼吸を繰り返す。
彼の気配は、今夜は見える。
草の上の影が、わずかに濃い。
影はわたしの身長と同じくらいの高さで、手をふると、草の先がつられて舞う。
「写真、見たね」
「あれはわたし?」
問いはもう、癖になっている。
「あなたの背中で、あなたじゃない背中」彼は笑う。
笑いは砂糖ではなく、塩の味がする。
汗に似た、体温のある塩。
「門は?」
「今日は、水だよ」
水。
わたしの視界の奥、草の水平線に沿って、細い光の帯が生まれる。
近づくと、それは用水路だった。
祖母の家の裏にあったような、蓋がところどころ外れたコンクリートの溝。
水は暗い。暗さは深さの服を着ている。
覗き込むと、星の欠片が底で眠っている。
水の表面には、紙片が流れていた。
白い、手紙のようなかけら。
いくつも。流れはゆっくりで、拾えそうで拾えない速度。
「渡るの?」
「渡らなくてもいい。覗くだけでもいい」
覗く。
水面は、わたしの顔の輪郭を知っているふりをして、知らない。
波が少し立つたびに、知らなさが新しくなる。
紙片のひとつが、わたしの手前の淀みに引っかかった。
手を伸ばして、指の第二関節まで水に沈める。
水は冷たくなく、少しだけ温い。
紙片に触れると、それは逃げた。
逃げる速さは、子どもの足の速さ。
わたしは少し笑う。今度は笑いが迷子にならない。
「置いたものが、流れてきてる」彼が言う。
わたしは気づく。
この水路は、門の向こう側から、こちらに向かって流れている。
あの居間で見たもの、箪笥から引き抜いた紙、布団の人の呼気、そのすべてが、紙片になって、ここへ寄ってくる。
拾い方を知らないふりをしていた指が、ゆっくりと仕事を思い出す。
用水路に沿って歩く。
足元の草が、さざ波みたいに寄せては返す。
ところどころに、橋がある。
橋は板一枚で、釘が半分抜けかけている。
渡るたびに、体重の重さを測る音が鳴る。
わたしの重さは、今夜は少し軽い。昼間に約束をしたからだ。
現実に触れた分だけ、夢のほうがわたしを信じる。
やがて、水路は広がって、小さな池のようになる。
池の真ん中に、小島。島の上には、木ではない何かが立っている。
近づくと、それは背の高い棚だ。
学校の図書室の棚。
けれど、本の代わりに、封筒が詰まっている。
色は白、クリーム、薄い青。宛名が書かれた面は内側に向いていて、差出人の名前だけが見える。
差出人は、わたしに似た名前ばかりだ。
いくつもの、似ているけれど違うわたし。
「開ける?」彼が問う。
「全部は、無理」
わたしは言う。
選び方を選ぶ必要がある。
棚の端から三番目、少し歪んだ封筒を取る。
紙の縁がささくれて、触ると微粒子が指先に残る。
封を切ると、空気がひとつ歳をとる。
中身は、短い文と、薄い乾いた花びら。
「あなたが最初に失くしたものは、鍵ではない。鍵穴だった」
花びらは、祖母の庭の端で咲いていた名も知らない花の色。
わたしは目を閉じる。
鍵穴。
失くしたのは、鍵じゃない。
扉に穴がないから、開けられなかった。
だから、わたしはまぶたに庭を作った。
穴の代わりに、草の間を通すために。
もう一通。
封筒は指に馴染む。
今度は厚みがある。
中には、写真が何枚か。
団地の廊下、踊り場のタイル、郵便受けに詰まったチラシ。
どれも、わたしの目線の高さ。
写真をめくると、最後に一枚、見覚えのある背中。
布団の上の、あの背中。
裏には、一行。
「あなたが振り向かせた」
わたしは息を飲む。
音が、胸の奥で硬貨みたいに鳴る。
振り向かせたのは、たしかにわたしだ。
触れたから。名前を呼んだから。
名前の形を芽にしたから。
池の周りの空気が、少し明るくなる。
棚の封筒たちが、風でわずかに揺れ、内側の紙が小さくぶつかり合う音がした。
図書室でページをめくる音と似ていて、違う。
世界が、わたしに読みかけの本を差し出している。
「もうひとつ」彼が言う。
彼の声は、背後の草むらから来る。
振り向くと、彼はそこにいる。
はっきり見える。彼の顔は、誰かと誰かの中間。
祖母の目じりと、母の口もとと、わたしの眉間の皺をひとつにしたような顔。
見れば見るほど、絞れない。
彼は自分の胸ポケットから、小さな鍵を取り出した。
鍵は、わたしの掌の中央の薄い痣にぴたりと合う形をしている。
「鍵穴は、どこ?」わたし。
「ずっと、ここ」
彼はわたしの胸の前、空気の一点を指す。
そこには、何もない。
けれど、指さされた場所が、突然重さを持つ。
皮膚の裏側で、何かが回転する微かな音。
わたしは鍵をその空気の穴に合わせる。
合う。わたしは回す。
回すという行為が、思い出のなかの何かの開閉と連動する。
祖母の庭の蛇口。
団地の郵便受け。
浴室の栓。
わたしのまぶた。
すべてが、同時に、違う方向に、少しずつ開く。
池の水面が一度だけ大きく揺れて、静まる。
棚の封筒の山が、ひと息で軽くなる。
草の上に座っていた彼が、少し色を薄める。
透明になるのではなく、向こう側の景色が、彼の中を通り抜けて見えるようになる。
彼は笑う。
今度の笑いは、砂でも塩でもない。
水だ。乾かない種類の笑い。
「きみは、庭に穴をあけた」
「鍵穴」
「そう、鍵穴は、庭の真ん中に開いている。だから、外からも、内からも、出入りできる」
わたしはうなずく。
うなずくたびに、草がわずかに寝て、また起きる。
わたしは池の縁にしゃがむ。
水はわたしの顔をまだ知らないふりをして、少しだけ知っている。
わたしは両手を水に差し入れる。
紙片が指の間をくぐる。
くぐるたびに、言葉の骨の数を数える。
足りない骨、折れた骨、捻じれた骨。
どれも、わたしだ。どれでも、わたしじゃない。
ふと、現実のほうで、雨の匂いがする。
窓に、強くない音で粒が当たる。
雨は、言葉の卵をいくつも連れてくる。
天井で孵る卵の数が増える。
わたしは目を半分だけ開けて、現実の部屋の輪郭を確認する。
机。封筒。写真。マグカップ。濡れた窓の外。
すべてが、内側の庭とぴったり噛み合っている。
ふたつの世界を一枚に焼き付ける方法を、わたしの視線が覚え始める。
門は、今夜は形を見せない。
代わりに、鍵穴だけがある。
鍵は、わたしの掌の痣から離れて、胸の奥に沈む。
沈む音は聞こえない。
けれど、沈んだせいで、わたしの背骨の一つが軽くなった。
軽くなった骨は音叉で、彼の声の調子に同調する。
「もう一度、あの居間に行きたい?」彼が問う。
「行く」
迷いは、今夜は薄い。
薄いのに、強い。
薄い氷ほど、踏み出した靴に冷たさが鋭く染み入るみたいに。
草の水平線の遠く、空気がたわむ。
たわみが裂け目を作り、裂け目が影を落とす。
影の形は、見覚えのある折りたたみ傘。
今夜は、水の向こう側に立っている。
橋は、板一枚の他に、繋がっていない。
わたしは板に足をのせる。
釘がわたしの重さを測り、合格だと鳴く。渡る。
池の中央の棚を左に、橋を右に。影に近づく。
影は、わたしが近づくたびに、少しだけ遠のく。
追いかける。走らない。走ってはいけない。
足音を内側で数える。数は、今日話した約束の数に重なる。
門の前に立つ。
彼は後ろにいる。何も言わない。
言葉は、今は、鍵穴の内側で熟成している。
わたしは門に触れる。
今度は骨が柔らかい。濡れている。
止め具は、今朝開けた封筒の紙の手触りに似ている。
指先が覚えた角度で、留め具を外す。開く。
風は、今夜は生暖かい。
夏の始まりの夜の、団地の廊下の匂い。
玄関の前に置かれた濡れた傘のビニールが、足首に触れる感触。
門の向こうは、同じ居間で、少しだけ違う。
新聞は昨日のものではない。
みかんの皮の代わりに、バナナの皮。
テレビには天気図が映っていて、音はやはりない。
布団の上の背中は、こちらを向いている。
目が合う。彼女の瞳に、わたしの庭が映る。
わたしは踏み入る。
畳がわたしの名前を思い出し、足裏で小さく呼ぶ。
呼ばれる感覚は、思っていたより軽い。
「来たね」向こう側のわたしが言う。
声の高さは、わたしと同じ。
息継ぎのタイミングがほんの少し違う。
違いは、安心になる。
違いがあるから、同じものがわたしを飲み込まない。
「来た」わたしは言う。
「鍵穴を、見つけた」
向こう側のわたしは微笑む。
微笑みは、祖母の縁側に座るときの膝の角度に似ている。
彼女は布団から起き上がり、箪笥の前まで歩く。
箪笥の最下段を開ける。
そこには、小さな木箱。
木箱には、焼き印のように、見覚えのある模様。
祖母が庭の道具に押していた印。
箱の中身は、砂。砂の中に埋まった、古い鍵穴。
鍵は、もういらない。穴だけが、そこにある。
「ここに、置いていったのね」わたし。
「あなたが、いま、持ってきた」
向こう側のわたしは言う。
言葉は、矛盾の服を着ていない。
そのままの肌で立っている。わたしはうなずく。
木箱の砂に指を差し入れる。
冷たい。湿っている。
砂の下から、小さな金属音。
指先で掘り出す。
出てきたのは、祖母の庭の蛇口のハンドル。
小さい。玩具みたい。けれど、質量は本物と同じ。
わたしはハンドルを握る。
内側の庭で、水の流れが太くなる。音が、耳の梯子を下る。
「返す?」彼が背後で問う。
「返すというより、渡す」
わたしは言う。
向こう側のわたしに、ハンドルを差し出す。
向こう側のわたしは受け取って、胸の前で握る。
握った瞬間、居間の空気がひとつ分膨らむ。
カーテンがわずかに揺れる。
テレビの画面に映る雲の輪郭が曖昧になる。
わたしの内側で、水が、庭の奥のほうから手前へ向かって流れ直す。
「これで、あなたの庭にも、水が回る」
向こう側のわたしが言う。
「わたしは、こちらで草を抜き、こちらで花を植える。あなたは、そちらで」
そちら。こちら。境界は薄い。
薄いのに、確かだ。
わたしは頷く。
彼が、箪笥の取っ手から手を離し、門の方を見る。
時間の縁が、わずかにほつれる音がした。
名残惜しさは綿埃に似ている。
集めれば手のひらに載るけれど、空気の流れで容易に散る。
「そろそろ」彼が言う。
「うん」
わたしは返事をして、居間を見回す。
畳の目。こたつ布団。新聞。バナナの皮。テレビの無音。
すべてが、わたしの内臓に似ている。
外から見ているのに、内側のもののように思える。
わたしは一歩下がる。向こう側のわたしが、手を振る。
手の振り方は、わたしの癖と同じ。
最後の瞬間、彼女の唇が動く。
音は届かない。
けれど、読める。形だけで読む。
ありがとう。
門が閉じる。折りたたみ傘の骨が、正しい位置に戻る音。
内側の庭に、夜風が通る。
池は静かで、棚は重かった記憶を少し手放している。
彼が、わたしの隣に立つ。
遠くで雷が、雷になることを諦める。
雨は弱まる。現実の窓のガラスに残った雫が、遅れて滑り落ちる。
目を開ける。
部屋は、わたしのものだ。
封筒は机の上にある。
写真は、光を吸い込んで、薄く温かい。
わたしは椅子に座り、深呼吸をする。
肺の内側の壁紙は、さっきよりも分厚い。
分厚い壁紙は、音を柔らかく跳ね返す。
スマートフォンの画面には、母からのメッセージ。
「今度の日曜、行こうね」
わたしは「うん」と返す。絵文字はつけない。
言葉の骨の数が足りているとき、飾りは要らない。
夜の残り時間を、わたしは台所で過ごす。
米を研ぐ。水の冷たさが指の関節を目覚めさせる。
米粒が指の間を滑る音は、池の紙片の音に似ている。
火をつける。
祖母の指先がコンロの火を弱めるように、わたしの指が火加減を覚えている。
湯気が天井で卵になる。孵る。言葉が生まれる。
わたしは声に出す。自分の名前。庭の名前。まだ固まっていない音。
固まっていないから、広がる。広がるから、戻ってくる。
食べる。咀嚼のリズムは、芝生の風のリズムと同期する。
胃のなかで、米は土になる。
身体は、小さな庭を内蔵する。
外の雨は止んで、街の油膜に星が映る。
わたしは窓を少し開けて、夜の匂いを入れる。
匂いは、庭を経由して、部屋に馴染む。
眠る前に、机の上の写真を、封筒に戻す。
戻すことは、終わらせることではない。
芽が土に戻るように、次の芽のための沈黙を作ることだ。
わたしはベッドに横になり、舌を上の歯茎に触れさせる。
梯子は立つ。芝生は、今夜は穏やかだ。
風は弱く、虫の音が遠い。
池はある。棚もある。
けれど、門は見えない。
見えなくても、鍵穴は胸の中にある。
触れなくても、開く。
彼は、今夜は来ない。
来ないことも、在る。
空いた場所に、わたしの呼吸が座る。
わたしは目の内側の庭に、低い声で話しかける。
今日拾った紙片の話。
向こう側の居間の体温の話。
祖母の蛇口のハンドルの重さの話。
話しながら、草を撫でる。
撫でられた草は、撫でられたことを、明日も覚えている。
眠りに沈む直前、庭の端で何かが動いた。
小さな影。
影は、わたしの足首の高さで止まり、こちらを見上げる。
目は二つ。光を飲み込む黒。
猫?子ども?言葉で分類する前に、影は口を開ける。
声は出ない。
けれど、伝わる。
形だけで読む。
おかえり。
わたしはうなずく。
うなずきは、夜の中心に小さな波紋をつくる。
わたしの名前が、波紋の縁を静かに歩く。
歩きながら、音にならない音を鳴らす。
明日、祖母の庭へ行こう。
草を抜き、土を起こし、水を撒く。
水は、明日のために撒く。
わたしは、門のない朝を迎える準備をしながら、門のある夜に身を預ける。
目を閉じて、目の外と内を重ねる。
重なったところが、今日の居場所だ。
そこに、スコップを突き立てる。
柔らかな音。土の匂い。指の学位。
わたしは眠る。眠りは、庭仕事のひとつだ。
明日、芽は、きっともう少しだけ未来に近づく。
瞼の裏庭 U木槌 @Mallet21
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