僕は車道側を歩きたい

@hayate12sukoshi

僕は車道側を歩きたい

「あの、落としましたよ?」

 そんな月並みすぎる声のかけられ方、フィクションの中にしか存在しないと思っていた。

 振り返るとそこには佐藤さんが、僕のパスケースを持って立っていた。

 「あ、ありがとう」

 淡い色のニットにブラウンのチェックのワンピースで、上品な中に素朴さがあり、一瞬時間が止まったように感じた。

 僕はあわてて手を差し出した。佐藤さんはその手にそっとパスケースを乗せる。

「やっぱ伊東くんだったんだ。後ろ姿で自信なかったけど……」

 『やっぱ』という言葉に僕はドキリとしてしまう。

「佐藤さんも帰り?」

「うん」

 一緒に帰って良いのかな。駅まで同じはずだし、自然だよね。でも、僕と歩きたいわけないよね……。それでも、うん。

 僕は決心を固めた。

「嫌でなければ、一緒に帰る?」

 言った直後に後悔する。どうして僕という人間は、こういう言い回ししかできないのだろう。僕なんかと帰りたくないだろうな、と脳裏によぎった。その瞬間、自分を守ろうとしてしまった。こんな言い方して、相手に良い印象なんて与えるわけないのに。

「うん。私の方こそ嫌でなければ……」

 ほら、気を遣わせた。

「嫌なわけないよ。ごめん、変な聞き方しちゃって……」

 でも、断られなくてよかった。ちっぽけな自己肯定感が上がる。いつもの大学の並木道が色鮮やかに見えた。

 佐藤さんは僕の右横に並んで歩く。非日常な体験に胸が躍る。少しでも好印象をもってもらいたい。

 講義中になんとなく眺めていたネット記事が、ふいに頭をよぎる。

『女の子は優しい人が好き』

 そうだ、すぐに実践できる。講義を聞かず、スマホを見ていた甲斐があった。せっかくのチャンスだ。佐藤さんに徹底的に優しくしよう。そうすれば……。

 そこまで考えて、まずいことに気がついた。このまま道路に出たら、佐藤さんが車道側になってしまう。

 優しくしなければならない。それなのに、佐藤さんが車道側を歩くと、優しさがない人だと思われてしまう。

 場所を変わらなければ。

 僕は佐藤さんの右側に行くタイミングを窺う。

 でも、待てよ。これ見よがしに変わってしまうと、佐藤さんに気を遣わせてしまうかもしれない。佐藤さんなら僕の表面的な優しさなんてすぐに見抜いてしまうに違いない。そして、罪悪感が植え付けるかもしれない。

 優しいって、奥が深すぎる。

 公道の先では車が風を切って走っている。

 ふと真下を見ると、きっちり結ばれた靴紐がある。僕は反射的にしゃがんだ。

 佐藤さんは少し前で立ち止まって、振り返る。

「大丈夫……?」 

「あ、ごめん。靴紐がほどけて……」

 僕は一瞬で靴紐をほどいて、結び直す。

 立ち上がると、彼女は「良かった」と笑いかけてくれる。僕の心臓がジャンプした。

 「ごめんね」と僕はさりげなく、車道側に行こうとするが、佐藤さんは明らかに車道と逆側を空けている。

 でも、佐藤さんを危険にさらすわけにはいかない。

 僕は無理やり車道側に並ぶ。

 佐藤さんは「あっ」と言って、歩道側に寄ってくれた。

 佐藤さんの表情を窺う。車道側に行ったこと、何か気にしていないかな。表情だけでは分からない。

「大丈夫?」

 僕はつい聞いてしまった。

「大丈夫だよ。って、何で伊東君が聞くの?」 

 僕は「そうだよね」と笑った。大丈夫そうで、僕はホッと胸をなでおろす。 

 僕たちはどちらからともなく、駅に歩みを進めた。

「そういえば、伊東君も今日は午前中で大学、終わりなんだね」

「うん。水曜日は午前中に集めたんだ」

「そっか。私は、午後の講義が休講で、この時間までなんだ」

「そうなんだ」

 ということは、お昼前にこうして一緒に帰ることは、もうない。

 脳裏によぎった考えを振り払う。いくらなんでも、ダメだ。優しさがない。僕と、佐藤さんの関係では、絶対に困らせる。

「朝は寒かったのに、お昼になると暖かいね」

 胸中に湧いた期待感を払拭しようと、あまりに適当に話を振ってしまった。天候の話なんて、話題がない時にするものだ。もっと他のことを聞けば良いのに、よりによってどうでも良いことを話してしまう。僕は自分のコミュ力の低さを呪った。

「そうなんだよね。服選びとか難しいし、朝とか悩んじゃった」

 佐藤さんは困ったような顔をしている。気を遣った言葉選びをさせてしまった。こんなの優しさとは程遠い。優しい人間なら相手の表情とかから読み取って、盛り上がる話を的確にするのに。

 挽回しないと、何か。 

 佐藤さんの表情をチラリと確認すると、佐藤さんも気づいたのか、こちらを向く。澄んだ瞳に吸い込まれそうになる。僕が僕でなくなるような、心地いい感覚だ。

 前へ向き直る。やっぱり、この子は可愛い。僕みたいな人間が好きになってはいけないのだ。それが一番の優しさだ。僕なんかより相応しい人はいる。むしろ、僕といないことが優しさだ。

 駅が見えてくる。それなのに、僕たちの足取りは段々とゆっくりになる。遅すぎないかな、と思ったけど、佐藤さんは気にする様子はない。

 不意に僕のお腹が鳴る。お昼時を示す、間抜けな音が閑静な住宅街に響いてしまった。

 佐藤さんの方をチラッと見る。明らかにこちらを見ている。やっぱり聞こえていたのだろう。

 太陽が雲に隠れ、ヒンヤリした空気が僕にまとわりついた。

「お腹、空いたね」

 幻聴が聞こえる。僕の都合のいい耳が佐藤さんの優しい声を作り上げたのだ。本当は「こいつお腹を鳴らして、気持ち悪い」と言ったんだ。いや、佐藤さんがそんなこと言うはずがない。そんなことを思う自分が憎い。

「私も……、お腹空いたかも」

 今度ははっきり聞こえた。佐藤さんを見ると、佐藤さんは首を傾げている。

 佐藤さんの優しい声が僕の中にやんわりと沁みていく。声だけじゃない。僕のお腹の音をなかったことはできない。だから、自ら犠牲になって、空腹になったと言ったのだ。そんな優しさが僕の臓腑に染みわたっていく。

「ご飯……、一緒に行かない?」

 気づいた時には、声に出していた。佐藤さんが立ち止まる。調子に乗りすぎたことをすぐさま後悔した。

 そうだよなあ。ただ、お腹すいたと申告したにすぎないよ。何してるんだよ。優しさが足りない。もっと慮って考えないといけないのに。

「ごめん、何でもないよ」

 僕はおどけるように言った。これが本当の優しさだ。

「行こう」

「え?」

 まぬけな声が出ていたと思う。

「誘ってくれるなんて思わなかったから……。驚いちゃって……」

 佐藤さんは申し訳なさそうにしている。

「いや、ごめんね、急に。本当に、嫌じゃない?」

 まただ。僕は、本当に学ばない。

「嫌じゃないよ。むしろ、誘ってくれてありがとう」

 佐藤さんはニコッと笑ってくれた。

 太陽が再び顔を出し、世界がまた明るくなる。

 彼女に気を遣わせた、と思わないでもない。でも、そんなことはどうでもいい。

「何か食べたいものある?」

 僕は恐る恐る聞いた。

「何でも大丈夫だよ」

 何でも、か。どうしようかな。ファーストフードはダメだし、そもそもこの辺りに気の利いたお店はないぞ。

「あ、ごめんね、言い方が悪かった。伊東君のおすすめ、何かある? 私、この辺りあまり知らなくて……」

 おすすめか、おすすめ。ダメだ。やっぱり思いつかない。どうしよう。やっぱり誘わなければ良かった。佐藤さんにとって、何が優しい選択になるんだろう。

「もしかして……、色々考えてくれてる?」

 佐藤さんの眉尻が少し下がる。まずい、気を遣わせた。

「本当にごめん。ダメだよね。頼りきりになっちゃって。甘えちゃって。何してるんだろう」

 佐藤さんはあわてたように言う。

「いや、僕の方こそ、ごめん。お店とかあまり知らなくてさ……」

 本当に情けない。こういう時に、サクッとお店を提案できる優しさがあれば……。

「そういえば、この辺りってそもそもお店が少ないよね」

 そう言うと、佐藤さんは肩に下げているトートバッグからスマホを取り出した。

「伊東君って嫌いなものある?」

 僕は少し考えて、「ない」と答えた。

「あのさ。私のわがまま、聞いてもらってもいい?」

 佐藤さんは不安そうな面持ちだ。

「いいよいいよ。何でも言って」

 佐藤さんがわがまま言ってくれるなんて、心を少し開いてくれたような気がして、嬉しい。

「実はさ、繁華街の方に行きたいと思ってたお店があってね、そこに行っても大丈夫? 電車での移動になっちゃうけど……」

 佐藤さんの声が尻すぼんでいく。

「よし、そこに行こう。決めてくれて、ありがとう」

 佐藤さんは「ううん」と笑顔で言った。その笑顔は今まで見たことがない、純粋で優しい笑顔だ。見たことがない笑顔のはずなのに、僕はこの笑顔を見たかったのだと思った。

 佐藤さんの顔を見て、僕は何をしているんだろう、という感覚が降ってきた。僕がやろうとした優しさって、違うんじゃないか。優しくあろうとして、色々考えたけど、佐藤さんの反応を何も気にしていなかった。

 独りよがりにごちゃごちゃ考えて、一番大切な人を見ていなかった。むしろ自分が傷つかないようにしていた。

 優しくしようとして、苦しくなっていた。でも、何故だか今は楽しい。

 佐藤さんの雰囲気が心なしか明るくなった気がする。

 駅はすぐそこだ。いつの間にか、歩くスピードが少し速くなっていた。


 改札をくぐると、ホームに上がるためのエスカレーターがある。前に立つのか、後ろに立つのかどっちが正しいのだろう。

 少し考えて、考えるのを止めた。

 僕は佐藤さんが前へ行けるように速度を調整する。それが良い気がしたから。

「ありがとう」

 前に並んだ佐藤さんが、ふいに振り返って言った。胸がじんわりと温かくなる。

 僕たちを乗せたエスカレーターは、心地よい速度で動いてくれていた。

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