第5話
「本当に無理…」
唯はハンドルを握ったまま、ぽつりと零した。
胸の奥がぎゅっと縮むように痛い。
両親はいつだって決めつけから入る。
三つ上の兄と比べられるたび、自分の価値が薄れていく気がして、呼吸さえ苦しくなる。
逃げるように車を走らせた。
たどり着いたのは、いつもの“秘密の場所”。
工場のオレンジ色のライトが煙を照らし、海辺には静かなざわめきだけが広がっている。
ここに来れば、どうしようもない苦しみも海の暗さが吸い込んでくれる気がする。
晃哉からのメッセージにはまだ返せていない。
落ち込んだ自分を見られたくなくて、スマホを伏せたまま煙草に火をつけた。
そのとき、着信。
画面に「晃哉」の文字。
一瞬だけ迷って、唯は通話ボタンを押した。
できるだけいつもの自分でいようと、声を整える。
「もしもーし」
受話口の向こうから、煙草に火をつける音が聞こえた。
「唯? なにしてたの?」
いつもの落ち着いた声。
唯は強がるように答えた。
「えっとね、今、車にいたよ」
「…海の音するよ? 青春してたの?」
「え、あ…うん。そうかも」
少し笑ってみせる。心配させまいとして。
けれど晃哉は、その笑いの裏をすぐに見抜いた。
「……今から行くから」
その静かな一言で、涙が一気に込み上げた。
「あ、あのさ、全然大丈夫だよ。ちょっと嫌なだけで…ちょっと青春しちゃってただけ」
必死に取り繕っても、晃哉の声は変わらない。
「うん。今どこ?」
その落ち着いた声音に、唯の心はもう限界だった。
場所を伝えると、そこは偶然にも晃哉の会社関係の工場だった。
また、すごい偶然。
そんなことを思う間もなく、10分ほどで晃哉が現れた。
助手席のドアが開き、晃哉が唯の顔を覗き込む。
いつもの唯。
でも、笑顔だけが明らかに違っていた。
「落ち着いた?」
そっと頭に触れられた瞬間、唯の瞳から涙が溢れた。
ぽたぽたと止まらなくなる。
「ごめ…ん。大丈夫、全然大丈夫。面倒臭いよね、私…ごめんね」
言葉はうまく出てこない。
けれど晃哉は、何も責めず、撫でる手を止めずに言った。
「大丈夫。大丈夫だよ」
その優しさに体の力が抜け、唯は晃哉の胸にそっともたれかかった。
彼は無理に理由を聞き出すことなく、ただ隣にいてくれた。
「唯、俺んち来な。温かい飲み物飲んで、落ち着こ?」
唯は小さく頷き、二人は晃哉の家へ向かった。
⸻
家に着くと、晃哉は静かにマグカップを差し出した。
「ホットミルク。落ち着くよ」
「赤ちゃんみたいじゃん、私」
そう冗談が言えるほどには、唯も少し回復していた。
それでも晃哉は何も聞かない。
“無理に話さなくていい”という優しさが、そっと部屋に満ちていた。
「誰にだって、言いたくないことってあるだろ。唯が辛いときに俺を頼ってくれたの、嬉しかったよ」
そう言ってから、晃哉はDJ機材を触りはじめた。
唯が好きそうな曲を選んで、時折ちらりとこちらを見て微笑みながら。
「これ、なまらいい曲だよな」
その言葉に、唯は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
「唯、今度さ、隣町の買い物付き合って。ちょっと欲しいもんあって」
「うん、行く!」
唯は無邪気に笑った。
⸻
――ねぇ、こうちゃん。
どうしてあの時来てくれたの?
恋なのかも分からない私を、理由も説明できない私を、面倒だなんて思わなかったの?
“誰にだって言いたくないことはある”
あなたのその言葉が、今も胸の奥に残っている。
きっと、こうちゃんにも私に言えなかったことがあったんだよね。
ねぇ、こうちゃん。
あなたはずるい。
私の中に「こうちゃん」を刻みつけて、居なくなった。
……ただの遊びだったの?
お願いだから、離れないで。
あなたがいないと、もううまく息ができない。
ねぇ、こうちゃん。
たとえ嘘でも、そばにいてほしかったんだよ。
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