第32話

唯は、澄香と隣町まで車を走らせ、二人でご飯を食べに来ていた。


窓の外には、見慣れない街の景色が流れている。


店内には、食器の触れ合う音と、楽しそうな話し声が静かに響いていた。


向かいの席で、澄香がフォークにパスタをくるくると巻きつけながら、ふいに顔を上げた。


「こうちゃん、本当にいなくなっちゃうの?」


その言葉に、唯の手が止まる。


「……うん。三年の転勤だからね……。ただ、本人は『延びるかも』とか言うんだよね」


「延びるとかあるんだ?! 本当に延びたらいいなぁ……」


澄香はそう言いながら、唯の顔をじっと見つめた。


「なんか……すごい切ないよね」


「うん。でも、会社の人事はどうにもならないしね……」


唯はそう答えたものの、その声には諦めきれない気持ちが滲んでいた。


澄香が小さく息を吐く。


「こうちゃんも、きっと辛いんじゃないかな?」


唯は答えず、窓の外へ視線を向けた。


流れていく景色を眺めながら、ゆっくりと息を吐く。


「この前ね……こうちゃんに泣いて言っちゃったの」


「なんて?」


「なんでこうちゃんはそんなに平気なの? 私ばかりが辛いみたいって……」


唯は少しだけ俯いた。


「あのときね、こうちゃん……」


一度言葉を止めてから、静かに続ける。


「『平気そうに見えるだけだよ。置いていく方もつらいんだよ?』って言ってた」


澄香は黙って唯の話を聞いていた。


「……だろうね」


やがて、ぽつりと呟く。


「平気なわけないよ……。きっと、こうちゃん自身も、唯とここまでなるなんて思ってなかったと思うんだよね」


唯は黙って澄香を見る。


「こうちゃん自身も、どうしていいかわからなくて……でも、気持ちは抑えられないって感じなのかな……」


「……ただの遊びには、私も思えない」


唯は小さく呟いた。


「私、子供だよね……。自分ばかりが辛いって言った。こうちゃんの気持ちなんて、ちゃんと考えてなかった」


一瞬、唯の目に涙が浮かぶ。


「こうちゃんの顔を見たらさ……これ以上、困らせちゃいけないって思って……」


澄香は何も言わずに唯を見つめていた。


「いや……でも、そう思うのもしょうがないよ」


澄香の声は優しかった。


「だって、帰ったら奥さんと暮らすんでしょ? 遠距離でもなく、本当に終わりなんだって思っちゃうじゃん……」


その言葉に、唯の頬を涙が一筋伝った。


「こうちゃんは……あくまで私には『いない』って思わせたいんだよね……」


唯は涙を拭いながら続ける。


「あの悲しそうな顔も、辛そうな顔も……嘘には見えないし……正直、わかんない」


「……辛いのは、本当なんだと思うよ?」


澄香は、今度は迷いなく言った。


「こうちゃんは、『しょうがない』ってよく言うんだ」


唯は笑うように、けれど泣きそうに呟いた。


「自分に言い聞かせるみたいに……」


「大人……なんだね」


澄香は少し考えるように視線を落とした。


「嫌なものは嫌。欲しいものは欲しいって……そういうことも、現実をちゃんと考えたら言わないんだろうね……」


そして、少しだけ言葉を変えた。


「……言えないのかな」


唯は黙っていた。


その胸の中には、晃哉の声が蘇っていた。


いつも、ぽつりぽつりとしか話さない。


それでも、あのときだけは――


『置いていく方も……つらいんだよ……』


そう言った。


あのときの晃哉の顔を、唯は今でも忘れられない。


悲しそうで。


苦しそうで。


まるで自分自身にも言い聞かせるような声だった。


「……置いていく方も……つらいんだよって……」


唯の目から、また涙が落ちる。


それを見ていた澄香の目にも、いつの間にか涙が溜まっていた。


「なんか……」


澄香は小さく息を吸った。


「お互い好きだけじゃ無理って……切なすぎて……」


二人の間に、しばらく言葉がなくなる。


「神様がいるなら……どうにかならないのかな……」


そのときだった。


唯の携帯電話が、小さく震えた。


画面を見る。


「……あ」


そこには、晃哉からのメールが届いていた。


「こうちゃんだ」


思わず声が弾む。


澄香は涙をぬぐいながら、少しおどけたように笑った。


「噂をすればなんとやら~かな」


唯はメールを開いた。


『今どこ?』


短い一文。


いつもの晃哉らしい、素っ気ないメールだった。


「なんて?」


澄香が身を乗り出す。


「『今どこ?』だって」


「え、それだけ?」


「うん。でも……多分、会いたい感じかも」


唯は画面を見つめながら、少し笑った。


「こうちゃん、会いたいときって、こういう聞き方するから」


澄香は唯の顔を見て、ふっと笑った。


「わかるんだね」


「うん。そうだよね……二年以上関わってるんだしね」


その言葉に、唯自身も少し驚いた。


たった数文字のメールなのに。


何を言いたいのか、なんとなくわかる。


そのとき、また携帯電話が震えた。


『まだご飯食べてる?』


唯は思わず笑った。


「ほら……」


「ほら?」


「やっぱり会いたいんだと思う」


澄香は何も言わず、唯の表情を見つめていた。


唯は返信する。


『まだ澄香といるよ』


送ってすぐに、また返事が来た。


『そっか』


そして、少し間を置いて。


『気をつけて帰ってきて』


その一言を見つめながら、唯は小さく笑った。


「……ほらね」


「何?」


「こうちゃん、待ってる」


澄香は、そんな唯を見て笑った。


唯は少しだけ迷ってから、文字を打った。


『今澄香とご飯食べてた。帰ったら会いたいな』


送信。


ほんの数秒後。


携帯電話が震えた。


『うん。待ってる』


たったそれだけ。


それだけなのに、唯の胸はいっぱいになった。


「よし、帰ろっか」


澄香が席を立つ。


「え、大丈夫だよ? 全然」


唯が慌てて引き止める。


けれど澄香は、そんな唯を笑いながら見た。


「何言ってんの?! こうちゃんと会える貴重な時間だよ?!」


「でも……」


「私は今日、唯としっかり遊んだから大丈夫。早くこうちゃん家、行ってあげな!」


そう言って、唯の腕を引く。


「ほら、行くよ?」


店を出ると、夜の空気が二人を包んだ。


車に乗り込むと、澄香はエンジンをかける。


しばらくしてから、運転しながら唯に言った。


「考えても、答えなんか出ないんだから」


唯は黙って隣を見た。


「今は、唯がしたいようにしな?」


澄香は前を見たまま、続けた。


「会いたいなら会いたい。好きなら好き。唯は、そのままでいいんだよ」


その言葉に、唯は小さく頷いた。


その夜、澄香と別れると、唯は「いつもの」を買った。


そして、晃哉の家へ向かって車を走らせた。


*


「ただいまぁ」


鉄の扉が、ギィッと音を立てて開く。


「おかえり。早かったね。楽しかった?」


いつもの晃哉の声。


その声を聞いただけで、唯の胸が少しだけ緩んだ。


「こうちゃん、見て見て。プリクラ撮ってきたんだぁ」


「どれどれ」


晃哉が覗き込む。


「可愛いでしょー!」


「うん。可愛い可愛い」


いつもの感じ。


いつもの晃哉。


それが、唯には嬉しかった。


ニットにデニムのミニスカート。


そんな唯の格好を見ると、晃哉は部屋の中からスウェットを取り出した。


「ほら、着替えな? くつろげないっしょ」


「ありがとう、こうちゃん」


唯は奥の部屋へ行き、スウェットに着替えた。


そして戻ってくるなり、嬉しそうに両手を広げる。


「じゃーん! 似合う~? こうちゃんの匂いがする~!」


その瞬間。


晃哉が、ほんの一瞬だけ唯を見つめたまま止まった。


けれどすぐに、ふっと笑う。


「ちょっと大きいな笑。でも、楽でしょ?」


「うん! ありがとう!」


唯は袖口を掴みながら、嬉しそうに笑った。


そして、くんくんとスウェットの匂いを嗅ぐ。


「やめなって。恥ずかしい笑」


晃哉が笑う。


唯はそのまま晃哉に抱きついた。


晃哉も笑った。


「ぷっ……自分を抱きしめてるみたいで嫌だな笑」


「いい匂いでしょ?笑」


「はいはい笑」


二人は顔を見合わせて笑った。


何も特別なことなんてない。


ただ、いつもの二人だった。


けれど――


唯にとっては、その「いつも」が、何より大切だった。


ねぇ、こうちゃん。


こうちゃんの声も。


匂いも。


雰囲気も。


本当に好きだった。


そばにいるだけで、なぜか安心した。


何も考えずに、ずっと包まれていたかった。


いつも並んで歯を磨いて。


そのまま一緒にベッドに入って。


こうちゃんは、一緒にしてくれることが多かったよね。


あの頃の私は、そんな何気ない時間がずっと続くような気がしていた。


「あと何回……」


そんなことを考える日もあった。


けれど――


もう、そんなことは考えない。


残された時間を数えるより。


今、一緒にいる時間を笑って過ごそう。


そう決めたんだ。


ねぇ、こうちゃん。


こうちゃんと一緒にいた私は――


きっと、世界で一番幸せな女の子だった。


本気で、そう思っていたんだ。


だから今でも、怖いくらい覚えている。


声も。


匂いも。


笑った顔も。


あの部屋の空気も。


何気なく過ぎていった、あの日の夜も。


全部。


今でも、鮮明に残っている。


……笑っちゃうよね。

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