第22話

夏まで、二人はしばらく会わなかった。


唯は研修先で知り合った、他社の男性から何度か食事に誘われていた。


「今度、ご飯だけでもどうですか?」


そう言われても、唯にはその気はなかった。


けれど、共通の知り合いである会社の先輩から、


「一度だけ行ってあげてほしい」


と頼まれた。


唯は少し迷ったあと、一度だけなら、と食事に行くことにした。


それは、本当にただの食事のつもりだった。


けれど――。


そんな日に限って、しばらく連絡のなかった晃哉から、突然電話がかかってきた。


携帯の画面に表示された名前を見て、唯は一瞬、動きを止めた。


――どうして、今なんだろう。


目の前には、一緒に食事をしている男性がいる。


さすがに電話には出られず、唯は画面を伏せた。


そして、すぐにメールを送った。


「今、会社の人とご飯食べてた。どうしたの?」


ほどなくして、晃哉から返事が届いた。


「最近どうしてた?」


「普通だよ。研修行ったり、その人とご飯に来てたよ」


少しして、


「そっか。終わったら電話ちょうだい」


と返ってきた。


それだけだった。


短い文章。


いつもと変わらない、晃哉らしい言葉。


けれど、唯はなぜか少しだけ落ち着かなかった。


「急用? 大丈夫?」


向かいに座っていた男性が、唯の顔を覗き込む。


「すみません、大丈夫です。友達」


唯は笑って、何事もなかったように料理に口をつけた。


食事を終える頃には、晃哉からのメールのことも、少しずつ頭の片隅へ追いやられていた。


帰り道。


男性が車で唯を送ってくれた。


夜の街を流れる明かりを眺めながら、男性がふいに口を開く。


「俺さ、唯ちゃんのこと気になってて。またご飯行けたら嬉しいな」


唯は少しだけ戸惑った。


けれど、相手は会社の先輩の知り合いでもある。


嫌な顔をすることなんてできなかった。


「今日は、ありがとうございました。是非、また」


そう言って、にっこり笑う。


車を降りると、唯は小さく頭を下げた。


車が見えなくなるまで見送ってから、ふと携帯を取り出す。


時計は、もうすぐ日付が変わろうとしていた。


――寝てるかな。


少し迷ってから、唯は晃哉に電話をかけた。


数回の呼び出し音。


やがて、電話がつながった。


「……もしもし?」


少し低い、晃哉の声。


「もしもし。こうちゃん。今終わって帰ってきたよ」


「会社の人とご飯行ってたの?」


短い問いかけだった。


「あ、正確にはね。会社の先輩の知り合い。この前の研修で一緒になって、ご飯だけでもって言われて……」


唯がそう説明している間、電話の向こうは静かだった。


「……そうなんだ」


少しだけ間があった。


「今どこ?」


「今、おうちに送ってもらって、家の近くだよ」


「お酒、飲んでる?」


「うん! ちょーっとだけね」


唯は笑った。


そして、いつものように甘える。


「こうちゃん、会いたい。迎えにきて~!」


電話の向こうが、少しだけ静かになった。


ほんの数秒。


「……うん。今から行く。待ってて」


晃哉は、それだけ言った。


*


しばらくして、晃哉の車が見えた。


「こうちゃん!」


唯が嬉しそうに駆け寄る。


晃哉は車を降りると、唯を一度だけ見た。


そして、何も言わずに視線を落とす。


ミニスカート。


その視線が、ほんの一瞬だけそこに止まった。


「唯、風邪引くよ」


そっけない声だった。


「可愛い? 可愛い?」


唯が覗き込むように聞く。


晃哉は少しだけ眉を上げた。


「……はいはい。可愛い、可愛い」


「えへへへ。嬉しいなぁ」


「褒めてないって(笑)」


「もー!」


唯が頬を膨らませる。


晃哉はそんな唯を見て、ふっと小さく笑った。


そして、何も言わずに唯の頭に手を置く。


優しく、髪を撫でる。


その手つきは、いつもと変わらなかった。


けれど――。


あの夜、晃哉は何度か唯の顔を見ていた。


車を走らせながら。


信号で止まったとき。


唯が楽しそうに話しているとき。


そのたびに、ちらりと視線を向けては、すぐに前を向く。


唯は、それに気づかなかった。


ただ、こうちゃんが迎えに来てくれた。


それだけで嬉しかった。


*


晃哉は、放っておけば唯がどこかへ行ってしまうことを、少しだけ気にしていた。


唯本人には、そんなつもりなんてなかった。


ただ一度、頼まれて食事に行っただけ。


ただ、普通に笑って、普通に帰ってきただけ。


それでも晃哉の目には、その「ただの食事」が、自分の知らない時間に見えていたのかもしれない。


自分が知らない場所で。


自分が知らない人と。


唯が笑っている。


そう思うたびに、胸の奥に小さな引っかかりが残る。


だからといって、何かを言うわけでもない。


問い詰めることもしない。


ただ、少しだけ早く迎えに来る。


少しだけ長く唯を見る。


そんな小さな仕草の中に、言葉にしない感情が滲んでいた。


それでも、二人が会えば何も変わらなかった。


笑って、話して。


いつものように一緒に過ごす。


そして身体を重ねれば、その時間だけは、まるで何も問題がないかのようだった。


けれど、朝になれば、それぞれの日常へ戻っていく。


付き合っているわけでもない。


終わっているわけでもない。


ただ、会えばお互いを求めてしまう。


そんな曖昧な関係が、何度も繰り返されていた。


離れている時間には、それぞれの生活がある。


けれど、会えばまた、昨日までの続きを始められる。


そんな関係に、二人とも慣れてしまっていた。


そして、その慣れがあるからこそ。


本当に失うかもしれない瞬間が来るなんて、まだ誰も考えていなかった。


ねぇ、こうちゃん。


あの頃の私は、いつだってこうちゃんが世界の中心だった。


今の私なら、わかるのに。


焼きもちなんて、ほとんど見せなかったこうちゃん。


だから私は、ずっと、自分だけが好きなんだと思ってた。


こうちゃんの気まぐれだったとしても。


都合のいい女だったとしても。


それでも、よかった。


こうちゃんに会えるなら、それでよかった。


だから、あの頃の私は――


自分だけが辛いんだと思っていた。


こうちゃんは何も感じていない。


私だけが会いたくて。


私だけが離れたくなくて。


私だけが、この関係にしがみついているんだと思っていた。


でも。


今になって思う。


あの夜、何度も私の顔を見ていたこと。


ミニスカートを見て、何気なく「風邪引くよ」と言ったこと。


そして、私が「会いたい」と甘えたら、迷うことなく迎えに来てくれたこと。


あれは、言葉にされなかっただけで。


こうちゃんの中にも、私を失いたくない気持ちがあったのかもしれない。


私は、何もわかっていなかった。


自分だけが辛いと、そう思い込んでいただけだったのかもしれないね。

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