第17話

寒さが、少しずつ深くなってきた頃だった。


吐く息が白くなり、街の景色にも冬の色が混じり始めていた。


もうすぐ、晃哉の誕生日が来る。


誕生日の頃から年末年始にかけては、仕事が特に忙しくなると聞いていた唯は、少し早めに会う約束をしていた。


十二月の初め。


その日を、唯はずっと楽しみにしていた。


晃哉の好きなチーズケーキを焼こう。


プレゼントも用意しよう。


観葉植物が欲しいと言っていたことを思い出して、小さな鉢植えを選んだ。


テレビの横に置けるくらいの、可愛らしいもの。


調べてみると、その植物には「幸せが訪れる」という意味があるらしい。


それを知った瞬間、唯は嬉しくなった。


これが、晃哉の部屋にあったらいい。


毎日、少しでも眺めてもらえたらいい。


そんな小さな願いを込めて、プレゼントを包んだ。


その少し前の金曜日。


唯は、久しぶりにsugarへ遊びに来ていた。


その夜、晃哉は夜勤で来られない。


だから今日は、ただいつもの仲間たちと酒を飲みながら、ゆっくり音を楽しむ夜だった。


大きなイベントがあるわけでもない。


騒がしい夜でもない。


慣れ親しんだ空気の中で、音楽に身体を預けながら、唯はグラスを傾けていた。


「唯ちゃんじゃん。久しぶり!」


声をかけてきたのは、隣町ではちょっとした有名人でもあるラッパーの、かずだった。


「かずさん、久しぶり」


「唯ちゃん、マジ可愛い。今度ご飯行こうよー」


「あはは、ありがとう。ご飯? いいね」


冗談半分に笑って答えた、そのときだった。


「はーい、かずさん!」


澄香が唯のそばへやってきて、二人の間に割って入った。


「唯ちゃん、いい感じの彼いるから、だめよー」


「え? だれだれ? そいつ羨ましいんだけど」


「ひみつ!」


澄香は笑いながら、かずの強引な誘いから唯を守るようにしていた。


けれど、かずは諦めなかった。


「大輔! 唯ちゃんのいい感じのやつって誰?! 俺、知ってる?」


少し離れたところにいた大輔を捕まえる。


「えー?」


大輔は少し考えるようにしてから、何気なく答えた。


「多分……晃哉さん」


その瞬間。


かずの笑顔が、ほんの一瞬だけ消えた。


「……こうくん?」


その呼び方に、唯の胸が小さく揺れる。


「……あー。奥さんいるじゃん」


あまりにも自然に出てきた言葉だった。


だからこそ、唯は何も言えなかった。


奥さん。


その言葉だけが、妙に鮮明に耳に残った。


「じゃ、今度ご飯行こな。俺、唯ちゃんのことマジで好きだから」


「……あ、うん。ありがとう」


笑って返したはずなのに、胸の奥には冷たいものが落ちていた。


気づけば唯は、sugarを出ていた。


夜の冷たい空気が頬に触れる。


歩きながら、何度も同じ言葉が頭の中で繰り返された。


――こうちゃんは、いないって言ってた。


自分の心を落ち着かせるように、何度も言い聞かせる。


――こうちゃんは、いないって言ってた。


晃哉がそう言った。


だから、私は信じている。


そう思いたかった。


けれど。


胸の奥に生まれた小さな違和感は、何度自分に言い聞かせても消えてくれなかった。


もしかしたら、あのときの唯はもう気づき始めていたのかもしれない。


信じたい気持ちと、現実を知りたい気持ち。


その二つが、心の中で静かにぶつかり始めていた。


そして、晃哉と会う日が来た。


「こうちゃん、お疲れ様」


「おかえり、唯。外、寒かったっしょ?」


いつもと変わらない晃哉の声。


いつもと変わらない表情。


その顔を見た瞬間、唯の胸にあった不安は、まるで最初から存在しなかったかのように薄れていった。


やっぱり、大丈夫。


こうちゃんは、こうちゃんだ。


唯はそう思った。


ソファーに座るなり、唯は少しだけ緊張しながら言った。


「こうちゃん、ちょっと目つぶって!」


「え?! うん、わかった」


「絶対開けちゃダメだよ? いいって言うまで待ってね!」


「わかったよ」


晃哉の口元に、小さな笑みが浮かんだ。


その表情を見ながら、唯は急いで準備をする。


部屋の明かりを落とす。


チーズケーキを取り出す。


その上にロウソクを立てる。


そして――。


「はい! こうちゃん。目、開けていいよ」


晃哉がゆっくり目を開けた。


暗くなった部屋。


その目の前には、ロウソクの灯りに照らされたチーズケーキ。


小さな炎が、静かに揺れていた。


「ちょっと早いけど、こうちゃん、お誕生日おめでとう!」


晃哉は一瞬、言葉を失った。


「やばっ……。これ、唯が作ってくれたの?」


「うん!」


唯は嬉しそうに笑った。


「ほら、こうちゃん。ロウソク、ふーして! お願い事するの忘れないでね?」


「うん」


晃哉が息を吹きかける。


ふっと、炎が消える。


「お誕生日おめでとうー! こうちゃん!」


明かりをつけると、晃哉はしばらく唯を見つめていた。


「……あっ! これ、プレゼント!」


唯は思い出したように、包みを差し出した。


「前にこうちゃん、部屋に観葉植物置きたいって言ってたでしょ?」


「うん」


「だから……小さめだから、テレビの横に置けるし、可愛いかなって思って」


包みを開けた晃哉が、小さな鉢植えを見つめる。


「しかもね、これ、幸せが訪れるって意味があるんだって!」


唯が少し照れながら笑う。


「……前に言ったの、覚えててくれたの?」


「もちろん」


晃哉は植物を見つめたまま、静かに言った。


「ありがとう、唯。大事に育てるね」


そして唯の隣に腰を下ろした。


しばらく見つめ合ったあと、晃哉はそっと唯にキスをした。


「ありがとう、唯……」


もう一度、優しく。


「なまら嬉しい。ありがとう……」


その声が、唯の胸の奥に染みていく。


「よかったぁ。喜んでくれて!」


唯は嬉しそうに笑った。


「だって、こうちゃんが生まれたお祝いだよ? 私も嬉しい!」


そんな唯を見つめながら、晃哉は何度もキスをした。


「……あ!」


唯が突然、思い出したように顔を上げる。


「こうちゃん、お願い事は? ちゃんと願った?!」


「なんにも」


「え?」


「何にもお願いしてないや」


晃哉が笑う。


「嘘だー!」


唯も笑いながら、慌ててケーキを見る。


「もう! だめじゃん! もう一回ロウソクつける?」


立ち上がろうとした唯の手を、晃哉がそっと押さえた。


「いいから……」


そのまま、唯を抱きしめる。


近くに感じる体温。


冬の寒さなんて、もうどこにもなかった。


「こうちゃん、大好き」


唯は抱きしめられたまま、素直に呟いた。


何度も伝えてきた言葉。


けれど、その夜。


晃哉は初めて、唯の耳元で小さく囁いた。


「……俺も好き……」


その声は、吐息に混じるほど小さかった。


けれど唯には、はっきり聞こえた。


あのときは、それだけで幸せだった。


何も疑いたくなかった。


何も考えたくなかった。


ただ、好きな人の誕生日を祝えて。


好きな人に「好き」と言ってもらえて。


それだけで、十分だった。


ねぇ、こうちゃん。


あのときプレゼントした小さな観葉植物。


私はね、すぐに枯れちゃうんじゃないかなって思ってた。


小さな鉢だったし。


植物を育てるのが得意だったわけでもないし。


だから、いつか枯れてしまうものだと思ってた。


でも――。


しばらくぶりに会えたときも。


少し距離を置いたあと、また会えたときも。


こうちゃんが転勤を終える、その日まで。


あの日プレゼントした観葉植物は、ずっと部屋のテレビの隣にあった。


枯れることなく。


元気なまま。


ずっと、こうちゃんと一緒にいた。


こうちゃんのことが分からなくなったときも。


もう、やめようと思った夜も。


その植物がまだそこにあることが、私は嬉しかった。


あぁ。


まだ、ここにある。


そう思った。


まるで、あの日の私たちまで、まだそこに残っているような気がした。


ねぇ、こうちゃん。


どうして、ずっと大事にしてくれてたの?


私があげた、あんな小さな植物を。


何度離れても。


何度、終わりにしようと思っても。


どうして枯らさずにいてくれたの?


「唯からもらったんだよ?」


こうちゃんは、そう言った。


「枯らさないよ……」


その言葉を、私は信じた。


信じたかった。


きっと、あの頃の私は、こうちゃんの言葉を信じることでしか、二人の間にあるものを守れなかったんだと思う。


こうちゃんの嘘にも、どこかで気づいていた。


それでも、見ないふりをした。


好きな人の言葉を信じる。


ただ、それだけだった。


けれど、時間が経つにつれて。


私は少しずつ、純粋に信じるだけではいられなくなっていった。


信じたい気持ちの奥に、不安や疑いが生まれていた。


こうちゃんがそう言うから信じる。


そう言い聞かせることで、本当は現実を見たくなかったのかもしれない。


それでも。


こうちゃんの誕生日だけは、忘れることなんてできない。


毎年、この季節になると必ず思い出す。


あの日の部屋。


ロウソクの小さな灯り。


チーズケーキ。


テレビの隣に置いた、小さな観葉植物。


そして――


「……俺も好き」


あの夜、耳元で聞いた、晃哉の声。


だから私は、今でも心の中で言う。


お誕生日、おめでとう。


今年も。


きっと、これからも。


こうちゃんの誕生日だけは、忘れない。


最後に会った日も――


こうちゃんの誕生日だったね。

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