アラサー冒険者のaimless odyssey
久遠堂 鍵介
風縁奇逅編
プロローグ 「風を待つ街」
大陸南西に広がるエイル王国。
大戦の爪痕もいまは過去となり、魔法工学と魔力鉱石の恩恵により、いち早く復興を遂げたこの国は、今や大陸有数の強国とされている。豊かな国力、広大な領土、そこそこの平和──そして、静かな平和の裏には、幾筋かの陰が蠢いていた。
王国の南には、ステープ海へとつながる内海が穏やかに広がっている。その東端に近い小さな海辺の町から、王国東部の玄関口──都市ワイアースへと続く街道を、一台の獣車(ビーストカート)が丘の坂道を登っていた。
「シモン、見えてきたぞ」
御者台から、肥満体型の中年男が振り返って声をかけてくる。
「ん〜……やっとか」
荷台で仰向けになっていた男──シモンが、のんびりと大きく伸びをひとつ。半ば寝起きの目で荷台の隙間から前方を覗き込むと、その先に広がる街の輪郭が見えた。
「ようやく……帰ってこられたか」
丘の中腹に差しかかる頃、ワイアースの重厚な城門と、高くそびえる城壁が、遠目にもはっきりと姿を現していた。
中年の商人マーシャルとは、街道の途中で出会った相手だった。
あれは、ほんの数日前のことだ。
*********
その日、シモンが徒歩でワイアースを目指していたときのこと。背後から、砂埃を巻き上げて迫る獣車の軋む音が、草原に重々しく響いた。
振り返ると、荷台を引くモンスター――大型魔獣ラドンが、肩で息をするような足取りで懸命に駆けてきた。エイル王国では獣車の引き手として広く飼われている大型の魔獣で、普段はのそのそと草を噛むようなのんびり屋だが、今はその面影すらなく、切羽詰まったような形相で地を蹴っていた。
そのすぐ背後では、四足歩行の魔獣──スラッシュバニーが血走った目で迫っていた。
(……面倒事は、勘弁して貰いたいんだがな)
ぼやきつつも、シモンは迷わず地を蹴り、今来た道を反対に駆け出した。獣車とのすれ違いざま、御者台に座る男へと短く叫ぶ。
「そのまま駆け抜けろ!」
同時に剣を抜き放ち、追走してきた魔獣へと斬撃を見舞う。鋭く閃いた刃が、スラッシュバニーの額を斜めに裂いた。甲高い悲鳴をあげて、人間より大きな体躯の魔獣が立ち上がり、威嚇するように赤い目でシモンを睨みつけた。
だが、シモンは気にも留めない。素早く間合いを詰め、振り下ろされる爪を紙一重でいなし、喉元めがけて剣を突き刺す。魔獣がぐらりと揺らぎ、最後の抵抗とばかりに前脚を振りかぶる。
シモンは静かに息を吐き、半身をずらしてその動きをかわした。
そして──
喉元への斬撃と同時に、喉奥に潜んでいた魔石を剣先で正確に穿ち、すばやく引き抜いた。肉体に別れを告げた核は、かすかに光を放ちながら、地面に落ちて小さく跳ねた。その直後、スラッシュバニーの身体は薄く発光し、肉体は魔素へと還っていく。
霧のように漂う魔素が風に乗って空へ舞い上がり、十秒足らずで魔獣の痕跡は完全に消えた。地面には、淡く光る魔石ひとつだけが残されている。
「……おまけは無しか」
周囲の魔力密度は低く、素材が残る兆しもなかった。シモンは手早く魔石を拾い上げると、熱の引かぬ剣をひと振りしてから、静かに鞘へと納めた。
*********
──マーシャルは空を仰ぎ、しみじみと呟く。
「──いやぁ、あの時ゃマジで肝が冷えたよ。シモンが現れなきゃ、今ごろオレ、スラッシュバニーの胃袋の中だったぜ」
マーシャルは、たっぷりとせり出た腹を撫でながら、おどけて見せた。実際、あと一歩遅れていれば、今こうして話していることはなかっただろう。だが、このご時世に護衛を雇わず単独で街道を走るとは、なかなかの剛胆さである。
「マーシャル、これに懲りたら護衛なしの単独行商はやめておくんだな」
呆れ混じりにそう言うと、マーシャルはふんと鼻を鳴らして笑った。
「へっへっへ! 分かっちゃいたんだけどな。こちとら、堅実に構えてチャンス逃すほど、商売下手じゃねぇんだ。急がなきゃ儲け話は誰かに取られちまうって寸法よ!」
気負うでもなく、楽天的でもなく。その言い回しには、年季の入った商売人の嗅覚が滲んでいた。
先の長雨の影響で物資の流通が滞っていたこの街道。
そこに目をつけたマーシャルは、他の商人を出し抜いて一足先に出発したものの、その代償として護衛の手配を省いてしまったのだった。いくら街道が整備されているとはいえ、すぐ近くに魔物の生息地がある。はぐれ個体が餌を求めて街道に出てくるなど、珍しくもない。
護衛付きでの移動は、用心ではなく“最低限の自衛”だ。それを怠るのは無謀以外の何ものでもない。
「……事情、ねぇ……」
マーシャルの言葉を小さく反芻したが、シモンはそれ以上深く考えるのをやめた。
「まっ、ほどほどにな」
「おうよ。あんたに助けてもらったこの命、商売の元手として大事に使わせてもらうぜ。入用の時があったら、オレの店にも顔出してくれよな」
照れ隠しのような笑みを浮かべながらそう言うマーシャルに、シモンは静かにうなずいた。
獣車の車輪が軋む音が、石混じりの街道に小さく響いていた。傾き始めた陽が、屋根に反射し、前方の道をやわらかな金色に染めていく。遠くに見えるワイアースの城門が、ゆっくりと、しかし確かにその姿を大きくしていた。
マーシャルが隣で陽気に口を動かしていたが、シモンはほとんど耳を貸していなかった。風に揺れる前髪の下で、静かに目を細め、視線を前方に向ける。
今回も生きて戻ってきた。
──その実感は、どこか空虚で、なぜか他人事のようだった。
だが、確かに街はそこにあった。記憶の中の風景よりも少しだけ賑やかに、少しだけ色を増して。
荷台の脇に置かれた剣が、揺れる車体に合わせてカランと微かな音を立てた。シモンはその音に目をやると、小さく息を吐き、そっと目を閉じる。それは、過ぎた日々のすべてを静かに受け入れるような、重さのないため息だった。
しばしの沈黙──
やがて獣車は最後の坂を下り、風に背を押されるように、城門前の街道へと滑り込んでいった。
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