スクエア・リリィ
学習書房格物堂
1-1 安宿の朝
山奥の貧乏安宿で暮らす没落貴族の少女・莉音。
彼女と従者たちの“いつも通り”の朝は、
ひとつの“海の塩”から少しずつ世界のズレを暴き始める。
これは、三人の言語ゲームが揺らぎ始める冒険譚。
◆莉音・F・ヴァーミリオン
没落貴族の娘。前向きと勢いだけで生きる冒険者。
世界を知らないが、世界に愛される体質。
◆白雪一閃
無表情クールな剣士従者。莉音が世界のすべて。
味覚がバグっている。
◆黒星エリス
天真爛漫な魔法使い従者。莉音を愛でるのが趣味。
たまに発言が“意味深にズレる”。
ーーーーーーー
薄い朝日が、安宿の薄いカーテン越しに差し込んでくる。
藁のベッドはきしみ、部屋は狭く、天井も低い。
けれど――この空間は、莉音にとって“家”だった。
——あたしの名前は、莉音。
莉音・F・ヴァーミリオン。
どこぞの没落貴族の娘……だった、らしい。
私の得物である2本の槍に描かれた紋章だけが、あたしが貴族であることを示している...らしい。
家はなくなったし、お金もない。
今はただの冒険者。
寝床は、この安宿の三人部屋だけ。
でも、あたしは不幸じゃない。
だって――
あたしには、二人の従者がいるから。
剣士の白雪一閃。
魔法使いの黒星エリス。
誰が何と言おうと、この二人はあたしの“家族”だ。
……たとえ、毎日が塩とパンだけの食事だとしても!
◆寝起きの三人
莉音が布団を跳ねのけると、
白雪はもう正座して待っていた。
エリスは髪を整えながら振り返り、朝の陽だまりのように微笑む。
エリス「莉音、おはよ~。今日もかわいい寝癖ついてるよ?」
莉音「えっ、うそ……どこ!? ね、白雪見える?」
白雪「……問題ありません。莉音様は常に完璧です」
粗末な木のテーブルに、今日の朝食が置かれる。
パンが一つ。
塩が小皿に少し。
水が三つ。
莉音はパンを割り、蒸気の消えた硬さに顔をしかめながら食べる。
白雪は塩をひとつまみ舐める。
エリスも同じように、塩を舐めて水を飲む。
莉音「……ねぇ、やっぱり二人とも食べたら? パン、半分あげるよ?」
エリスは笑顔のまま首を振る。
エリス「いいの、莉音が食べるべきだよ。
わたしたちは水と塩でじゅうぶん」
白雪「……はい。エネルギー効率に問題はありません」
莉音はそれを“いつものこと”として受け止める。
パンの最後の欠片を口に入れながら、
莉音は急に思い出したように声を上げる。
莉音「あっ、そういえばさ!
昨日、お店のおじさんがね――」
白雪とエリスが同時に顔を上げる。
莉音「“海の塩”ってのをくれたんだよ。
この世界のどこかに、でっっかい“水たまり”があるんだって!
今日のこの塩、海の塩らしいんだけど……なんか違うかな?」
エリスは塩を指先ですくい、口に運ぶ。
そして、ほんの一瞬だけ眉をひそめる。
エリス「……たしかに。少しだけ、違う味がする。
これは……“大きな水域のミネラル混合割合”が高い……かも?」
白雪も静かに手を伸ばし、塩を舐める。
白雪「成分構造に変化があります。
この塩の発生源が、通常の河川とは異なることは明確です」
莉音は眼を輝かせる。
莉音「そうなんだ! ねぇ二人、海ってどこにあるんだろ?
見に行ってみたくない? でっかい水……絶対見てみたいよ!」
白雪とエリスは、同時に莉音を見る。
その表情は――
莉音の願いなら、どこへでも行くと語っていた。
白雪「莉音様が望むなら」
エリス「もちろん行くよ! 三人一緒なら、どこだって!」
朝食を終えた三人は、安宿の外へ出た。
ひんやりとした山風が頬を撫でる。
ここは 妓夫(ぎふ)地方の山間にひっそりと存在する、小さな村。
莉音にとっては、冒険者として暮らし始めてからの“落ちつく場所”だった。
村は細い山道に沿って伸び、左右には急斜面が迫る。
家々はどれも、斜面に逆らわず寄り添うように建っている。
屋根はどれも急角度。
雪深いこの地方では、屋根に積もった雪が勝手に滑り落ちるよう、傾斜をきつくするのが昔からの知恵だと――
さすがの莉音でも知っている。
莉音「今日もいい天気! 海……見に行けそうじゃない?」
白雪「はい。山道の凍結もありません。
莉音様の足取りも軽やかです」
エリスはマントを翻し、村の通りを見渡す。
エリス「海って、どっちにあるんだろうねぇ。
聞き込みしないとさすがにわからないかも」
この村は、本当に小さい。
食料屋が一軒。
道具屋が一軒。
農具を扱う鍛冶屋が一軒。
それと、旅人向けに簡単な雑貨を置いた土産物屋がわずかにある程度。
畑と民家が大半を占める“静かな場所”だ。
だが、莉音はこの景色が好きだった。
没落して何もなくなったあの日、
唯一あたたかく迎えてくれたのが村の人々で――
村の空気そのものが、莉音にとって「生きていいよ」と言ってくれるようだった。
莉音(心の声)
(……ここから、海に行けるのかな?
あんなに大きな水たまり……見たら、泣いちゃうかもしれないなぁ)
細い坂道を下りながら、莉音は村人に軽く会釈する。
農家の奥さん「おはよう、莉音ちゃん。今日も元気だねぇ」
莉音「はいっ! ちょっと海に行ってみようかなって!」
農家の奥さん「海ぃ? ……まぁ、若い子は元気だこと!」
エリスが小声でくすくす笑う。
エリス「莉音って、本当に村の人気者だよね〜」
白雪が即答する。
白雪「当然です。莉音様は世界の中心ですので」
村の周囲はすべて山。
谷に沿って風が吹き抜け、木々がさらさら音を立てる。
村を出る道は三つしかない。
1. 山をさらに登って隣村へ行く山道(険しい)
2. 谷を抜けて街道へ繋がる下り道(比較的安全)
3. 森の奥へと続く獣道(エリスが絶対反対するルート)
海は、地図的に言えば“はるか向こう”。
山を三つ越えた先に、ようやく大きな街道に出る。
まだまだ、遠い。
しかし――
莉音はそれを知らないし、
知っていても、きっと気にしない。
莉音「ねぇ、まずは誰に聞いてみようか?」
エリスは村の雑貨屋を指差す。
エリス「昨日“海の塩”をくれた店主さんのとこ、行ってみよ?
きっと海のこと、何か知ってるよ♡」
白雪もうなずく。
白雪「海に関する情報源として妥当です」
三人は村の坂道を下り、
小さな雑貨屋へと向かう。
雑貨屋は、村の中心にぽつんと建っている。
小さな木造の引き戸をがらりと開けると、棚の上には乾燥した薬草や、
冒険者向けの粗末な道具が並んでいた。
店主のおじさんは、丸い眼鏡を押し上げながら振り返る。
店主のおじさん
「お、莉音ちゃんたちか。どうした?」
莉音は元気よく切り出す。
莉音
「おじさん、昨日くれたこの“海の塩”、すっごくおいしかったよ!
あのね、今日は海を見に行ってみようと思ったんだ!」
白雪もエリスも、後ろでこくこくうなずく。
おじさんは一瞬、ぽかんとした顔をした。
おじさん
「……海?」
莉音
「うん! だって“海の塩”なんでしょ?」
「海が近いなら見てみたいし!」
おじさんは、口元を手で覆いながら、
「さて、これはどう説明したものか……」という顔をする。
おじさん
「あ〜……えっと、莉音ちゃん。
“海の塩”ってのはだな……」
エリス
「海がこのへんにあるんですか?
この村、山に囲まれてるのに?」
おじさん
「海はねぇよ?」
3人「???」
莉音は、手に持った塩袋を見つめる。
莉音
「え……だって、袋に“海塩”って書いてあるよ?」
おじさん
「あぁ、それは……
“海で採れた塩”って意味であって……
“この村の近くに海がある”って意味じゃねぇんだよ」
莉音
「??????」
エリスはもっと混乱している。
エリス
「え、じゃあ……
“海”って、“海の塩の出どころ”じゃないんですか?」
おじさん
「まぁ、そうだけど……
ここから山を三つ越えて、街を抜けて、国を半分横断して……
その向こうにあるもんだ」
白雪
「地理的距離が大きすぎます。
想定外です」
莉音はなおも納得していない。
莉音
「でも……
“海の塩”って言ったら、
“海の近くの塩”っていう意味にならないの?」
おじさん
「ならねぇよ。
“海の恵み”だから“海塩”。
このあたりの店じゃ、全部輸入だからな」
莉音
「輸入???」
おじさんは、頭をかく。
おじさん
「外の世界には大きな市場があってだな……
他の国から塩やら布やら何やらが運ばれてくるんだよ。
この山奥でも、外からの品は普通に並ぶさ」
莉音
「えっ、じゃあ……
“海の塩”は“村の海の塩”じゃなくて……
“どこか遠くの海の塩”なの?」
おじさん
「そういうこった」
沈黙。
莉音の脳内:「????????」
エリスは足元を見つめ、
ちょっと眉をひそめた。
エリス(心の声)
(……今の、なんか変だな……
言葉の意味のつながり……
どうしてこんなにズレて聞こえるんだろ……?)
だが、すぐに気分を切り替えて微笑む。
エリス
「じゃあ、海はすっごく遠いってことだね?
でも、行けるなら行きたいな〜♡」
莉音の顔がぱっと明るくなる。
莉音
「行こう! 行ってみようよ!
“本物の海”!!」
白雪も静かにうなずく。
白雪
「海に至る旅程を計算します。
三人で行動すれば安全です」
おじさんは苦笑しながら言う。
おじさん
「まぁ……止めはしねぇけどよ。
山越えは危ないから気をつけるんだぞ」
莉音「はい!」
元気な返事をして、3人は歩き始める。
まだ誰も知らない――
莉音の世界には“重大な前提のズレ”がある。
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