8話

「……俺でよければ、よろしくお願いします」


 その言葉が、屋上の空気を震わせた。


 夕焼け色の空。

 吹き抜ける風。

 校庭から聞こえる部活の掛け声。


 その全部が、遠くなっていく。


 ドアの向こう側に立ったまま、雅は呼吸の仕方を忘れていた。


(……あ)


(今……なんて……)


 頭では理解している。

 中村史帆が橘昂輝に告白して、

 橘昂輝がそれを「受け入れた」。


 それだけのこと。

 ありふれた、高校生らしい出来事。


 ──でも。


(私からすると、“全部”なんだけど)


 胸の奥で、何かがベキベキと音を立ててひび割れていく感覚があった。


(“私の”橘くんが)


(“私のために生きる理由”が)


(今……私の知らないところで、私じゃない子のものになってる……?)


 扉の隙間から見える二人の姿は、特別なこともしていない。

 ただ、向かい合って立っているだけ。


 それなのに──雅にとっては、その距離が致命的だった。


(近い)


(近すぎる)


(そこ、本当は私の場所なのに)


 熱いような、冷たいような、判別できない感覚が心臓を掴む。

 息が詰まりそうだった。


 史帆が涙をこぼしながら笑っているのが見える。


「……ありがとう……っ、うれしい……!」


 その姿は綺麗だった。

 告白が実った少女の、純粋な喜びの表情。


 雅はその顔を見ながら、心の中で静かに呟いた。


(その顔……私も、したかった)


(でも、やり方なんて知らない)


(“好き”って、こんなふうに言えばよかったんだ……)


 やっと気づく。

 今さら、残酷なほどに。


(あぁ……私、橘くんのことが……)


(“恋”として好きだったんだ)


 その事実を理解した瞬間、目の奥が熱くなった。


(どうして今、気づくの)


(どうしてもっと早く、教えてくれなかったの、私)


(もう遅いじゃん……)


 目を閉じる。

 まぶたの裏に浮かぶのは、ずっとそばにいてくれた少年の姿。


 炎の前で泣いていた彼。

 いじめられていた自分を庇ってくれた彼。

 何度も、当たり前のように名前を呼んでくれた彼。


「雅」


 彼だけが、自分の名前を“ちゃんと”呼んでくれた。


(その声があれば生きていけたのに)


(その声の“向かう先”が、これから私じゃなくなるの?)


 雅は、扉に額をそっと押し当てた。

 全身から力が抜けていく。


 しかし、泣かなかった。

 涙を流すことは許されない気がした。


 ──泣いたら全部終わる、とどこかで分かっていた。


 雅はゆっくりと、その場を離れた。


 足元がふらついているのに、歩き方はいつも通り綺麗だった。


 “普通の女の子”を演じる自分が、勝手に体を動かしていた。


学校を出ると、空は群青色に変わりつつあった。

 街灯がひとつ、またひとつと灯り始めている。


 帰り道。

 いつもなら、ここを二人で歩くことも多い。

 今日は違う。


 昂輝は、きっとまだ学校に残っている。

 史帆と一緒に、何か話しているのかもしれない。


(……何話してるんだろう)


(これからのこと?)


(連絡の頻度とか、デートの予定とか……)


 想像しただけで、胸がぎゅっと縮こまった。


 歩いているはずなのに、足元の感覚が薄い。

 地面を踏んでいないような、ふわふわと浮いた奇妙な感覚。


 信号が青になったことを認識するのに、一瞬時間がかかる。


(吸って、吐いて)


(歩いて、止まって)


(……生きてるって、こんなに面倒だったっけ)


 孤児院で過ごした長い時間。

 雅はいつも、橘昂輝を中心に考えてきた。


 今日あったことを話す相手。

 ノートを見せる相手。

 試験前に一緒に勉強する相手。


 未来を想像するときも、隣には必ず彼がいた。


(それが当たり前だと思ってた)


(だって、あのとき助けてくれたんだよ?)


(あの瞬間から、私の世界の真ん中はずっと橘くんだった)


 だから、違う誰かの“真ん中”になることなんて考えたこともない。


 その“真ん中”が、

 自分から引き抜かれていく感覚。


(私の……生きがいを)


(誰かに「好き」と一言で奪われるなんて)


 笑えてしまうほど簡単だった。


つばさの家に帰ると、他の子たちはすでに夕食を終えかけていた。


「おかえり、雅ちゃん。準備で遅くなった?」

 職員の女性が声をかける。


「はい。文化祭の前日なので、少し……」


「そっか。ちゃんと食べてからお風呂入るのよ?」


「……はい」


 いつも通りのやり取り。

 言葉も、声も、表情も、完璧に作られた“いい子”のそれだ。


 食事を口に運んでも、味はしなかった。

 噛んでいるだけの作業。

 飲み込んでいるだけの行為。


 部屋に戻り、制服を脱いでパジャマに着替える。


 ふと、鏡が目に入った。


 そこには、整った顔立ちの少女が映っていた。

 髪は艶やかで、肌も綺麗。

 笑えば可愛いと言われるだろう。


(この顔で、誰かに好かれたって)


(意味ないんだ)


(だって、私が欲しいのは橘くんの視線だけなのに)


 鏡の中の自分に問いかける。


「……ねぇ、私ってさ」


「何のためにがんばってきたんだっけ」


 勉強も、髪型も、笑顔も、すべては“彼の隣にふさわしい自分”になるための努力だった。


 その“努力の先”にあるゴールが、

 別の誰かにあっさり横取りされた気がした。


 もちろん、誰も悪くない。

 恋愛にキープなんてない。

 早い者勝ちでもない。


 だけど。


(“私の人生”の中では、完全に横取りなんだよ)


(だって、それしかなかったんだから)


 初めて、鏡に映る自分の目が少し濁って見えた。


 黒目の奥に、薄く暗い色が滲んでいる。


(きれいじゃない)


(あのとき火を見て、綺麗って思った自分と、同じ目だ)


 雅は目をぎゅっと閉じた。


翌日。

 文化祭当日の朝。


 校舎はすでに浮き足立っていた。

 廊下にはポスターが貼られ、教室からはリハーサルの音楽が漏れている。


 先生たちも行き来が激しく、普段よりもずっと賑やかな空気。


 そんな中──雅は「その時」が来るのを、静かに待っていた。


(絶対、言いに来る)


(橘くんは、そういう人)


 喜んだことや悲しかったことを、

 いつも素直に話してくれる人だった。


 だからこそ。


(“彼女ができた”って、私にも教えてくれるんだろうな)


(……優しいよね。本当に)


 それは、残酷な優しさだ。


 ホームルームが終わり、準備時間になる。

 クラスメイトたちが立ち上がり始める中、

 昂輝が雅の席の前で足を止めた。


「雅」


 いつもと同じ呼び方。

 声のトーンも、表情も変わらない。


 それが、かえって怖かった。


「……なに?」


「あのさ」


 一拍、間が空く。

 雅の心臓が大きく跳ねた。


(来る)


(あの言葉が)


 昂輝は、少し恥ずかしそうに頭をかいた。


「昨日さ……その、文化祭の準備のあと」


「うん」


「中村さんに、告白されてさ」


 雅の視界が、少し揺れた。


(知ってるよ。全部見てた)


(でも、言うんだね。ちゃんと)


 唇が勝手に動く。


「……そうなんだ」


「それで、その……」


 一瞬言葉に詰まり、

 それからしっかりと、昂輝は雅を見た。


「俺……付き合うことにした」


 静かな宣言だった。


 嬉しさと照れくささが混じった声。

 自分のことのように喜んでほしいと、どこか期待している目。


 雅は──笑った。


「……そっか」


 喉が焼けるように痛かった。

 心臓が変なリズムで打っていた。


「おめでとう、橘くん」


 その言葉は、驚くほど綺麗に口から出てきた。


 祝福の言葉。

 幼馴染として、親友として、一番ふさわしいセリフ。


 周りのクラスメイトも「マジ?」「うわー青春だな!」と盛り上がり始める。


「いや、そんな大したもんじゃ──」


「ねぇねぇ、いつから好きだったの?」

「手、もう繋いだ?」


 茶化されて、昂輝は困ったように笑う。


 雅はその輪の少し外から、それを眺めていた。


(おめでとう)


(おめでとう)


(……おめでとう)


 頭の中で何度も繰り返す。

 そのたびに、胸の奥がギシギシと軋む。


(私が言ってるはずだったのに)


(“付き合ってくれてありがとう”って、言いたかったのに)


(なんで私が“おめでとう”って、外側から言ってるの)


 視界の端で、史帆がこちらを見た。

 少し照れながらも、雅に向かって笑う。


「……雅ちゃん」


「おめでとう、史帆ちゃん。よかったね」


 本心のかけらもないのに、

 雅の声は驚くほど優しかった。


(……私、上手になったね)


(“いい子”を演じるの)


 自嘲とも誇りともつかない感情が、胸の奥で渦を巻く。


その日の昼休み。

 教室の喧騒から少し離れた屋上の踊り場で、雅はひとりベンチに座っていた。


 遠くから、笑い声が聞こえる。

 その中には、史帆と昂輝の声も混じっている。


 目を閉じると、それだけが鮮明に聞こえるような気がした。


(あの声、好きだったのにな)


(今は聞きたくない)


 胸の中にぽっかり空いた穴。

 それは、今まで“生きる理由”でぎっしり埋まっていた場所だ。


(どうしよう)


(ここ、空っぽになったら、私……)


 風が吹く。

 髪が揺れ、制服の袖がかすかに震えた。


 雅は、自分の胸の真ん中に指を当てる。


(ねぇ)


(ここに……何を入れればいいの?)


 しばらく考えて──

 ひとつの答えに辿り着いた。


 それは、とても簡単で、とても危険な答え。


(“奪われた”なら、“取り返せばいい”)


(それだけじゃない?)


 胸の奥で、別の火がゆっくりと燃え始める。


 昔、自分の家を燃やしたときに見た炎。

 あのときと同じ色の光が、頭の中にちらつく。


(守るために火を使ったことはない)


(でも……奪われたものを取り返すためなら)


(私、火を使うことに……なんの抵抗もないんだよね)


 自分で思って、ぞっとした。

 けれど、その“ぞっとした感覚”は、すぐに甘い安心感に変わる。


(大丈夫)


(私は間違ってない)


(だって──)


 心の中で、誰かに説明するように言葉を並べる。


(橘くんは、私の“命の恩人”なんだよ)


(私がこの世界で生きてる理由なんだよ)


(その人を奪おうとするほうが、悪くない?)


 理屈が、ゆっくり形を持つ。


 それは常識から見れば明らかな誤りでも、

 雅にとっては“唯一自分を守るための正しさ”だった。


(私から橘くんを奪うなんて──)


(許されるわけが、ない)


 ベンチから立ち上がる。


 いつもの雅に戻った顔で、雅は校舎へ歩き出した。


 文化祭本番は、まだ始まっていない。

 でも、雅の中ではすでに“別の祭り”が始まっていた。


 それは、

ひとりの生贄を捧げるための、静かな炎の祭り。

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